▲40-2▽


「えっ?」


長い沈黙を破ったのは、驚いたことになまえちゃんだった。一気に引き戻された思考が状況に追いつかない。えっと、なんだって?話すって?……なまえちゃんが?思わず目を丸くしてなまえちゃんを見る。


「別に先輩の話とは関係ないんですけど…ちょっと考えたことがあって、できれば誰かに話しておきたくて」
「何それ。いいよ、よくわかんないけど話は聞くよ。ていうかわざわざ許可取らなくていいし」
「そうですか?」


なまえちゃんは「どうだか」と言いたげに首を傾げた。ちらりとだけ俺を見たその目は不安そうだ。俺と目が合うなり逸らしてしまい、またいつものようにうつむいて話を続ける。


「あの、同意も反論もいりません。相槌も打たなくていいです」
「とにかく黙ってろってことね。聞いてるふりして違うこと考えてるかもしれないけどいいの?」
「いいです。……言っておきたいだけなので」


なまえちゃんは頷いた。もうこっちを見ない。わずかにかさついた唇が、ぺろりと舐められた。


「今日、彼氏持ちの友達と話をしたんです。彼氏とどれくらい連絡を取ってるか、どれくらい会うか、どれくらい遊ぶか、どこで遊ぶか。そんな話をふられて、私、本当のことを言いました。連絡も会うのも週に一度で、遊んだことはないよって。そしたらその子、寂しいでしょって言ってきたんです。びっくりした顔で、…信じられないって顔で」


話が読めてきた。俺は歩きながら、たまになまえちゃんの顔を窺った。一度もこっちを見ないこの子は、たぶん意図的に俺と目を合わせることを避けてるんだろう。さっきと立場が逆転している。


「その子に言われてはじめて、寂しいっていう発想が芽生えたんです。私、寂しいはずなんだって。考えてみたら、普通寂しいですよね。寂しいのが普通ですよね。でも、そのときまで一度も寂しいなんて思ったことなかったんです。私、なんでだろうって、考えて」
「俺のこと好きじゃないからじゃない?」


思わず口を挟んだ。苛立ちが胸の奥で燻っていた。なまえちゃんはぎこちなく目を瞬き、もう一度唇を舐める。さっきよりも乾いてしまっている唇を。


「……はじめは、そうだろうなって思いました。でも、たぶん違います」
「じゃあなんなの?」
「相手が先輩だからです。相手が先輩だから、私は寂しくなかったんだと思います」
「だからそれは」
「先輩は忙しい人だから」


なまえちゃんは早口で言った。声が大きくなっていた。あ、これはもしかして……。緊張が顔を強張らせる。ピリッとした空気を発したのは、俺か、なまえちゃんか。どちらにしても理由は同じだ。話が、バレーに及ぼうとしてるから。


「国見が言ってました、先輩は六時半から朝練をしてるって。北川から学校って結構かかるから、朝はかなり早く起きなきゃですよね。私その話聞いてから思い出したんですけど、先輩からの連絡っていつも夜の早い時間に来てました。日付変わる前には寝てるんじゃないですか?」
「……さあ。そうかもね」
「勉強もかなり大変ですよね?受験生ですし」
「ね、なんで質問するの?聞き流していい、何も言わなくていいって言ったくせに」
「…そうでしたね。すみません」


嫌味ったらしく詰ると、なまえちゃんの瞬きのペースが速くなった。焦ってるみたいだった。迷ってるようにも見えた。話し方が一気にたどたどしくなる。


「あの、だから、その…さっきも言いましたけど、先輩は凄く忙しいと思うんです、毎日。月曜日の放課後しか、ゆっくりできる時間ないですよね。私はそれをわかってたから、…わかってる自覚もなかったんですけどきっとどこかでわかってたから、寂しくなかったんだと思います。私は、…私はたぶん、」


駅に着き、改札へ向かおうとした俺の鞄をなまえちゃんがぎゅっと掴んだ。引っ張られて立ち止まる。振り返ると、顔を真っ赤にしたなまえちゃんがじっと俺を見上げていた。照れてるわけじゃないことは表情からわかる。照れじゃない。今、なまえちゃんの顔を赤くしているものは、緊張だ。


「幸せです。もしもの話ですけど。もしも私がちゃんと先輩のことを好きで、先輩がちゃんと私のことを好きで、私たちがちゃんと付き合ってたら、私とっても幸せだったと思います。だって凄くないですか?私、先輩の唯一の空き時間に、一緒に過ごしてもらってるんですよ?他にやりたいことがあった日も、他の人と遊びに行きたかった日もあったはずなのに、先輩は一回も欠かさず私と帰ってくれました。私のために時間を使ってくれました。もちろんそれには理由が、…目的があったんだって、わかってます。わかってるから違うんですけど。違うことは確かなんですけど、でももしそれがなかったら、……私たちが本当に本当の恋人同士だったら、私はきっと幸せです。先輩と付き合っていられることを、凄く幸せに思ってるはずです」


小さな小さななまえちゃんの口から、怒涛のように言葉が溢れた。どこにそんなエネルギーがと思えるほどの勢いだった。口を挟む暇も、茶化す暇もなかった。俺はただ呆然となまえちゃんを見下ろして、瞬きもせずに口をぽかんと開けているだけだった。

ふっとなまえちゃんが目を逸らした。それを機に俺も気を取り戻す。やっば、間抜け面晒しちゃったよ。話は終わったみたいだし、早く何か言わなきゃ。いつもみたいに笑ってこの子を追い詰めなきゃ。なんか熱心に語ってくれたねありがとう、つまりそれ俺が好きってこと?ーーさあ、言え。からかうようにそう言え。なまえちゃんの長いなっがい話なんて一言も頭に入ってないよって顔して、つまんない話で俺の"時間"奪わないでよって顔して、さあ、早く、なんでもいいからーーーー


「電車来るから、行こ」
「……はい」


俺はなまえちゃんに背を向けた。それ以上口を動かせなかった。なるべく速く、でも不自然に思われないぎりぎりの速度でホームに下りる。なまえちゃんが後ろをついてきているのは足音でわかった。同じローファーを履いているはずなのに、どことなく情けない響き。頼りない足取りが目に浮かぶ。俺にこんな話をしたことを後悔しているだろうか。それとも何も考えてないだろうか。


「……あれだね、なまえちゃんは、バカだね。知ってたけど」
「よく言われます」
「言われるんだ。気をつけなよ?そのバカなところにつけこむ奴が現れてもおかしくないんだから」
「…大丈夫です、もう」
「そ」


なまえちゃんの声はいつもの単調さを取り戻していた。顔を見てはいないけど、たぶんつまらなそうな表情に戻ってる。対する俺は、妙に声を高くして手のひらに汗をかいていた。落ち着いて。せめて落ち着いてるように振る舞ってよ、俺。必死に自分に言い聞かせる。なまえちゃんが俺の顔を見ないのが幸いだけど、今俺はぼろっぼろの笑顔をしている。笑顔と呼べるかすら怪しい表情で、電車が来るのを待っている。

思い出した。

なまえちゃんとの関係が決定的に変わったあの日より前に、俺が抱いていた感情。なまえちゃんの印象。……プラスだった。明るい色をしていた。さすがに恋愛の意味ではなかったけれど、俺はこの子が好きだった。

好きになった瞬間、無色が明るく色づいた瞬間も思い出せる。春、まだ桜が咲いている頃だった。なまえちゃんを体育館に引っ張っていき、そのくせ存在をすっかり忘れて自主練をし、そして駅まで一緒に帰った。俺の練習を見てあの子が寄せた感想は、"頑張ってる"というありきたりなもの。付き合った子にも、友達にも、顔見知り程度の子にも、ことあるごとに言われてきた。頑張ってるね。頑張ってるね、徹くん。

『バレーしてる徹くん、本当にかっこいいよ』『また応援に来るね』『これからも頑張って』

その言葉が嘘だと、気づいたのはいつだったか。嘘、というには語弊がある。彼女たちは嘘をついているつもりはないんだから。彼女たちが言う"バレーをしてる徹くん"は"私の前でバレーをする徹くん"の略でしかないと、俺が気づいてしまっただけのことなんだから。

部活頑張ってね。応援してるから。私、オフの日に一緒に過ごせればそれでいいから。

付き合った子はみんなそう言ってくれた。みんな優しかった。俺はその優しさを信じ、甘えた。それが世間一般的には"建前"や"強がり"に過ぎないと気づいたときには、みんな離れてしまっていた。

本当に俺が好きなら、バレーをしてる俺も受け入れてよ。いつも君の前にいられるわけじゃない俺を受け入れてよ。君の見てないところで頑張ってる俺を受け入れてよ。そんな俺を、君に構ってあげられないからって否定しないでよ。

捨てないでよ。

『私なんかに費やす時間があったら、もっと他のことをした方がいいと思います』

どろどろの心に声が差し込む。なまえちゃんの声だ。あのときのこの子の表情を俺は思い出せない。ちゃんと見てなかったから。興味もなかったから。飛雄の幼馴染の、話すのが下手な女の子。これから俺に利用されるだけの可哀想な子。その程度だった認識を、なまえちゃんは塗り替えた。はじめてだった、頑張ってるから別れようと言われたのは。

"頑張ってる徹くんが好き"。だから、"そんな徹くんに好かれたい"。そう考える子たちに囲まれてきた。でも俺が"頑張る"限り、その子の願いは叶わない。どう足掻いても上手くいかない。仕方ないと思ってた。これからもずっとそんな関係を重ねていくんだと思っていた。それなのに、この子は。なまえちゃんは。"頑張ってる"俺をその目に映し、"頑張ってる"俺に胸を打たれ、そして"頑張ってる"俺を守るために離れることを決めた。驚いた。そんな考え方あるんだ、って思った。なまえちゃんがその道を選べたのは、俺のことが好きじゃなかったからかもしれない。どうでもいいと思ってたからかもしれない。俺のことが"好き"だった前の彼女たちと比べてもどうにもならないのはわかってる。でも、それでも。


「ダメだよ、なまえちゃん」
「何の話ですか?」
「俺、ずっと前に言ったじゃん。ダメって。そういうのはダメなんだよ。人にはね、言って良いことと悪いことがあるんだよ」
「……さっきの話ですか。ごめんなさい」


なまえちゃんはうなだれた。違うよ、あってるけど違うよ。そう思ったけど言ってやらない。まあ忘れてるよね、あんなに昔のことなんて。俺も今の今まで忘れてたよ。できれば思い出したくなかったよ。

ダメだよ、なまえちゃん。思ったこと全部口にするのは良くないよ。包み隠さず話しちゃうのは良くないよ。だってさ、なまえちゃん知ってる?滅多に口を開かないお前の言葉は、いちいち俺の胸を刺すんだよ。刺さるんだよ。

『幸せです』

頭の中で、なまえちゃんが繰り返す。真っ赤な顔をして、目を潤ませて。それでいいのに。そこまではあってたのに。その表情で「好きです」って言えば、ふってやったのに。

胸の奥の奥が疼く。情けなく小さな声を上げる。傾いていく。傾いていく。刺さってしまった欠片が抜けない。抑え込もうとしてもその部分が痛くて熱くて、もう、どうしていいかわからないんだ。


15.01.18