▲40-1▽

「ゴメンー、遅くなっちゃった。女の子たちに捕まっちゃってさあ」
「大丈夫です」


なまえちゃんは興味なさそうにこくんと頷いた。あーあ、つまんない反応。思わず舌を打ちそうになる。

ここ最近のなまえちゃんを見て、俺はひとつの結論にたどり着いた。なまえちゃんは俺に媚を売ったりしない。無理に表情を繕うこともないし、自分をよく見せようともしない。俺の前にいるなまえちゃんは、なまえちゃんの素の姿だ。

それに気づいたときから、俺はずいぶん悩んでいる。"嬉しい"と"嬉しくない"、二つの感情が俺の中にあるせいで、なまえちゃんが俺の前でそういう態度なことをどう受け取るべきかわからないんだ。

嬉しい理由。これは正直、考えたくない。俺だけに困った顔や怯えた顔、それから他のやつらに向けるのよりずーっと幸せそうな笑顔を見せてくれるなまえちゃんに気づいたとき、一番に感じたのは嬉しいって気持ちだった。あとから無理矢理捻り出した理屈では、"なまえちゃんが俺に媚びない"イコール"飛雄との試合のあとの「嬉しいです」って言葉は本物"ってことで、それはまあ喜ばしいことで、俺が嬉しいと思うのは仕方のないことで……あーダメダメ、こんなこと認めたくないんだよほんとは。

逆に、嬉しくない理由は簡単だ。俺に媚びないことが、俺への無関心を表してると思うから。まあ結構酷いこと言ったしいじめたし、もしかしたら嫌われてるのかも。俺自身、よっぽどのことがなきゃ嫌いなやつにニッコリなんてしてやらないし、なまえちゃんもきっとそうなんだろう。俺はなまえちゃんの中で唯一の、無関心もしくは嫌いのカテゴリーに入ってるわけだ。

これじゃダメだ。このままじゃ、俺の目的は果たせない。

舌打ちの代わりに「行こっか」と微笑み、なまえちゃんを外へ促す。なまえちゃんは「はい」と短く答え、目を伏せて俺の隣に並んだ。それ以上口を開く気配はない。……ま、いつものことだけど。

なまえちゃんには俺を好きになってもらわなくちゃならない。顔を真っ赤にしてちょっとだけ目をうるませて、俺が好きだって認めたその瞬間にふってやりたいんだ。

叩くなら、折れるまで。

折る方法に"恋愛"を選んだのは、悔しいことに飛雄の影響が大きいと思う。なまえちゃんは女の子だし、よりによって飛雄が好きみたいだし、俺と付き合ってるのは飛雄の気を引くためみたいだし。これだけ揃ってれば俺の取る道は一つしかない。そもそも、はじめになまえちゃんに声をかけた目的を俺はまだ果たしていないんだ。飛雄のモノを奪うこと。一度は捨てたその目的を、今の俺はまた、果たしてやろうって気になっている。

傷つけたいから、酷いことを言う。でも好きになって欲しいから、優しくしなきゃならない。矛盾してるのはわかってる。やりたいことも、やらなくちゃいけないことも、なまえちゃんへの気持ちも、ひとつとして噛み合わない。

胸の中の絡まりを隠して、俺はいつものように笑みを作る。ねえ、と隣のなまえちゃんに話を振った。


「なんで今日、俺が女の子に囲まれてたかわかる?」
「いつものことじゃないですか」
「まあそうだけどね。ヒント、その子たちは一年生でした」
「……はあ」
「わかった?」
「いいえ」
「じゃあヒントその二。一年生は今週ーー」


ちょうど校門の外に出ようというときだった。門の向こう、"私立青葉城西高等学校"の文字が刻まれた立派な壁の向こうから、一組の男女が姿を現した。「だから忘れんなよって言っただろ」苦笑する男と、「ごめんってー」笑いながら男に手を合わせる女。どことなく温かさの通う二つの声、表情に、俺の口は動きを止めた。

四つの目が俺を捉えた。同じタイミングで見開かれ、そして焦ったように二つの口が歪む。女の方が先に目を逸らし、男は俺に向かって口を開きかけた。だけど言葉が見つからなかったのか、結局その穴は萎んで閉じてしまった。

一瞬。ほんの一瞬の出来事だった。そのくせやけにゆっくりと時間が流れているように感じて、俺の目には二人の笑顔が焼き付いていた。俺はすぐにそいつらの横を通り過ぎ、振り返りはしなかった。後ろから会話は聞こえてこない。今頃気まずそうに目配せし合ってるんだろう。そう考えた途端に胸が重くなって、吐き出した息は嘲笑うような響きを持っていた。

…話をしなきゃ。すぐに気持ちを切りかえる。話の途中だったのに、不自然になまえちゃんを放置してしまった。怪訝な目を向けられていてもおかしくない。騒ぐ胸を落ち着かせ、笑みを用意してから斜め下にいるなまえちゃんを見た。

ところが。なまえちゃんは、こっちを見てもいなかった。いつもと変わらない、つまらなそうな表情でうつむいているだけ。せっかく作った笑みがピキンとひび割れた気がした。そんなに興味ない?俺が話を止めても気にならないくらい、俺の話にも、様子にも、お前は興味がないわけ?口が勝手に動き始める。


「さっきの子、元カノなんだよ。可愛いでしょ?」


なまえちゃんの睫毛が上下した。表情は色のないまま変わらない。「はい」という短い返事をするのにずいぶん時間をかけたことが、俺にとって唯一の救いだった。いける。きっと、いける。唇が無理に捻ったような弧を描く。


「明るくて面白くてね、たくさん笑わせてくれる子だったの。甘えるのも上手だったし、俺のこと大事にしてくれたし。悪いところなんてひとつもなかったなあ」
「…………そうですか」


なまえちゃんの声が小さい。それが俺の満足感を煽った。さらに追い打ちをかけようと口を開いたその瞬間、なまえちゃんが小声のまま、だがはっきりと言葉を発した。


「そんなにいい人だったのに、どうして別れちゃったんですか?」


さっきまでうつむいていた顔が上を向く。俺の目をじっと覗き込んでくる。あまり色の濃くない瞳だった。この目に見つめられると、いつも不自然に思考が止まる。上手く頭が働かなくなる。


「……ふられたの。好きな人ができたから、ごめんなさいって」


笑顔のまま、正直すぎる答えを返した。しまったと思ったが、それはなまえちゃんも同じだったらしい。ぱっと目を見開いた直後、焦ったように顔が強張る。おどおどした表情で、それでもまだ俺を見ていた。視線に乗せられるように舌が動く。


「それがさっき隣にいたやつ。俺と別れたその日のうちに、あの子はあいつの彼女になったの。今でもラブラブみたいで、なによりだね」


言い切ってしまってから唇を噛んだ。最後のは、嫌味のつもりで言ったんじゃない。だけど、嫌味に取られても仕方ない言葉だった。もうこの子の目を見ていられない。逃げるように前を向いて、視界からなまえちゃんを追い出した。すると誰もいないはずの視界に、……脳裏に、さっきすれ違ったあの子が浮かんできた。

『ごめんね。徹くんは悪くないんだ』

あの子が何度も繰り返した言葉を、俺は今でも覚えてる。徹くんは悪くないからと言われれば言われるほど、責められてるように感じた。徹くんが悪いんだよ。徹くんが、いけないんだよ。

全部知ってた。俺からあの子を奪ったあいつが、俺たちが付き合うずっとずっと前からあの子を好きだったこと。俺があの子をほったらかしてる間に、一生懸命アプローチしてたこと。それを利用して、あの子が俺を妬かせようとしたこと。全部知ってて、何も言わなかった。言う資格なんてないと思った。

だって何を言えばいい?他の男と喋るなって?俺から離れるなって?俺はあの子にちゃんと構ってあげられてないのに?俺はあの子に寂しい思いをさせてるのに?

『徹くん、私のこと好き?』
『好きだよ、当たり前じゃん』

あの子だけじゃなく、その前の彼女とも、その前の前の彼女ともそんな会話を交わした。俺はその子たちが好きだったし、大事だった。そのくせ好きだって気持ちに見合うだけのことをしてやらなかった。俺が悪いのはわかってる。理由は色々あったけど、……いや、"その子たちが選ぶ言葉は様々だったけど"、いつもふられるのは俺の方だった。

なまえちゃんもそろそろうんざりしてるだろう。彼氏らしいことは何もしてあげてない。飛雄の気を引く、って目的があるから今日まで俺と付き合ってきたんだろうけど、それもいつまで続くやら。俺がこの子を落とすのが先か、この子が飛雄を落とすのが先か。そのどちらかが完了する前に、なまえちゃんが俺を捨てるって可能性もある。俺と付き合ってたところで、飛雄の気は引けないと見限って。


「あの、私の話を聞いてもらってもいいですか?」next→