▲39▽ 「なまえちゃんはどうなの?」 ついにこのときが来てしまった。私がもっとおだて上手だったら、この子にずっと話を続けてもらうことができたかもしれないのに。生憎おだて上手どころか聞き上手ですらないもので、一通り話し終えて満足したらしい彼女は私に話を振ってきた。私はにこにこ笑いながら口を開く。 「んー、そうだなあ」 そもそも今は体育の授業中だ。先々週までは体力測定をしていたが、今日から選択スポーツが始まった。私は何を血迷ったかテニスを選んでしまった。サッカー、ソフトボールに比べて走る量が少ないんじゃと期待したのだが、よく考えるとその二つが大勢で一つのボールを追う種目なのに対してテニスは一人もしくは二人で一つのボールを追う種目だった。本格的にやったときの運動量がどうなのかは知らないが、私のような素人が体育の授業でやる分には、テニスが一番辛いんじゃと選択から数分後に気づいた。時すでに遅し。 しかも、些細なことかもしれないがーーもちろん私にとっては大事なのだがーーミカがいない。テニス部のミカは部活で十分だからと言ってテニスをパスし、サッカーを選んだ。それを聞いたとき私は当然サッカーにしようかと迷ったが、授業中ならお喋りの時間もないだろうと考えテニスを選んだのだ。 残念なことに予想は外れた。テニス選択者は多く、テニスコートに入れる人数の二倍はいた。よって、交代で入ることになった。これは私にとって幸運でもあり、不運でもあった。疲れは減るが、疲れが増える。前者は身体的なもの、後者は精神的なものだ。 ぽつんと突っ立っていた私に声をかけてくれたある優しいクラスメイトは、交代中の休憩時間になると盛んに私と話をしたがった。話の内容はよりによって恋バナというやつで、この子は私の彼氏が"あの及川さん"であることも知っていた。 「なまえちゃんと話すの楽しいなあ!彼氏の話ってさ、やっぱ彼氏いない子には話しにくくない?嫌味?とか言われたりして」 「あ、そうかも」 「だよねー!」 この会話からわかる通り、彼女も彼氏持ちなのだった。嫌味?と言われるのは、愚痴っぽい内容のわりに惚気ているとしか思えない口調だからだろう。話すの楽しい、と言ってもらえるのは嬉しかったし話を聞くこと自体は私も楽しかったのだが、いつ自分に話が振られるかと思うとひやひやした。私は及川について、こんなに話すことがない。というか、何も話せない。一生懸命相槌を打ちながら、話し手の交代を恐れて冷や汗をかいていたのだが、ついにそのときが来てしまった。そして冒頭に至る。 うーんそうだなあを言ったっきり間抜けに口を開いて固まってしまった私に、彼女は目をきらきらさせながら話を促した。 「やっぱ学年違うと、会えない日もあるの?」 「会えない日?うん、……あるよ」 会える日の方が珍しいという私にとっての常識はこの子には通じない気がした。不自然に思われないよう、慎重に目を逸らす。 「えー、寂しいね。でもまあ、毎日ラインしてるんでしょ?あ、電話もしてる?週何回くらい?」 「んー…」 メールすら週一で来るか来ないかなんだよね〜。……なんて言えない。 「決まってないかな…。したいときにする、みたいな」 「ああ、そうだよね!私もそんな感じ!なんか無性に声が聞きたくなるときがあるんだよねえ」 「あるある〜」 あったっけ…?頭の中に及川が勝手に浮かんできて、「なまえちゃん」と笑った。慌てて出て行ってもらう。声が聞きたいとき…そうだ、そういえばあった。余計な熱が顔に集まる。 「デートとかどこ行く?私もう行けるとこ全部行っちゃったって感じでさあ」 「うんうん」 「なまえちゃんたちはどこ行くの?」 「うーん」 デート…とか…ありえないんだけど……という本音を抑えて唸った。さっきこの子が言った場所を挙げ、「私もそんなかなー」とてきとうに誤魔化しておいた。……つもりだったが、誤魔化せなかった。 「なんかなまえちゃん、嘘ついてない?」 「えっ?ついてないよ?」 「本当にベニーランド行ったことある?」 「あるよ。あるよー」 「なんで二回言ったの今」 けらけら笑われた。笑いながらも、見逃してはくれなかった。 「正直に言いなさい!ほんとは行ったことないでしょ!」 「……ごめんなさいないです」 「やっぱり!なんで嘘ついたの?ほんとはどこ行ってるの?人に言えないようなとこ…?」 「えっ違う!そうじゃなくて…あの、本当はデートしたことなくて」 「え?え、付き合って何ヶ月?」 「えっと…二ヶ月…経ちそうなくらい」 「それでデートしたことないの?」 「うん」 ぽかんとしたその子の表情がおかしくて、笑ってしまいそうになるが笑っている場合じゃない。何しろ彼女は私の話にぽかんとしているのだ。 「あの、先輩忙しいから。時間が取れなくてーー」 「でもオフがないわけじゃないでしょ?」 「うん、週に一回はあるよ。その日に一緒に帰ることが、デートといえばデートかな」 「……ん、待って?もしかして週にその日しか会ってない?」 「んーまあ、うん」 「連絡は?どれくらい取ってるの?」 「えーとだから…取りたいときに」 「それどれくらい?」 「……週一」 「大丈夫!?」 ガッと腕を掴まれた。心底驚いた目をして、彼女は私に詰め寄る。 「え、ほんと、大丈夫なのそれ!?自然消滅間近じゃない!?」 「そうかも…」 自然消滅というか、常に消滅一歩手前の関係だ。最初からそうだった。 「オフは土日?」 「ううん、月曜」 「今日じゃん!待ってじゃあさ、先週の月曜は遊べたよね?代休だったんだし」 「ううん、先輩模試があったから」 「遊んでないの?待って、なまえちゃん、いつから及川さんに会ってないの?」 「……先週の土曜かな。体育祭の日が最後」 「連絡は?」 「…………その日から取ってない」 これを言うのは正直嫌だった。私自身気にしているのだ、昨日連絡が来なかったことを。 体育祭の帰り道、なぜか及川は私に対して腹を立てていて、ろくに話をしてくれなかった。……いや、なんというか、ケンカまがいのやりとりはした。及川はよくわからないことをぐちぐちぐちぐち言い続けていて、その内容は疲れと眠気でぼんやりした私の頭にはあまり入ってこなかった。そのことに及川はますます苛々したらしく、それがまたぐちぐちに繋がり…という感じだ。 それから一週間経った昨日。日曜日だから、本来なら連絡が来るはずだった。だいたい七時から十時の間に、『明日一緒に帰ろう』と一文だけ。しかし、昨日はそれがなかった。もう一緒に帰ることは決まりごとになっているんだろうかとも思ったが、私と及川に限ってそれはない気がする。 興味津々の彼女にたどたどしく状況を説明すると、呆れ顔を晒された。あのねえ、とリップの塗られた唇が開く。 「なまえちゃんの方から声かければいいじゃん!不安なら!」 「不安ってわけでも」 「重い子だって思われるのが怖いの?思わないよ、一緒に帰ろって言うくらいで。ていうか及川さん、なまえちゃんを試してるんじゃない?なまえちゃんの方から連絡したこと一回もないんでしょ?そりゃ寂しくなるよ、及川さん可哀想だよ」 「そうかなあ…」 絶対にそれはない、と思ったが言えやしない。曖昧な笑みを見せつつ、頭の中で何度も否定した。私と及川は普通の恋人関係じゃない。寂しいなんて感情を、及川が持つことはありえない。 「寂しいんでしょ?なまえちゃんも」 「え?私?」 「うん。だって及川さんのこと、ちゃんと好きなんだよね?あれ?違う?」 「ううん、好き。…好きだよ」 「じゃあ普通寂しいでしょ、一週間に一回しか会えないなんて。連絡だって、そんなに取らないのありえないよ」 「……そうだよね。おかしいよね。寂しいよね、普通」 「寂しいよ。ほっとかれてるも同然じゃん」 「そうだよね」 頷きながら、去年のことを思い出していた。毎日連絡を取るなんてことはなかったし、デートだってろくにしなかった。もっぱら家に呼び出されて…ああ、ううん、やめよう。薄汚れた記憶を引き出しの奥にしまいこむ。あの頃私は、寂しかった。確かに毎日、寂しさを感じていた。 「でもね、及川先輩は」 口を開いた瞬間に、ピーッと笛が吹かれた。交代だ。私たちは立ち上がり、コートに入って向かい合う。その子はテニスが上手かった。中学でソフトテニス部だったらしい。対する私はお察しの通りで、あっちこっちにボールを飛ばして周りの人に迷惑をかけた。ラケットにボールが当たらないこともしょっちゅうだった。 そのターンで授業は終わり、私たちの恋バナはあれ以上進まなかった。解散して玄関に向かいながらほっと胸を撫で下ろした私の横に、例の女の子が笑顔で並んだ。 「なまえちゃんありがとー!テニスもお喋りも楽しかった!」 「私も!声かけてくれてありがとう!」 「また来週組もうね。いーい?来週までに、及川さんにちゃんと気持ち伝えること!」 「気持ちって…」 「寂しいです、ちゃんと構ってくださいって言うの!せめて毎日、おはようとおやすみは言うとか決めてさ!あっ、これはなまえちゃんの方から始めてもいいんだからね」 「なまえちゃーん」 唐突に声が飛び込んできた。かすかに耳に入ったそれに反応し、びくりと肩を震わせる。及川だ。及川がどこかで私を呼んでいる。私と同じくきょろきょろしていた隣の子が、「あっ!」と前方を指差した。 校舎の一階、おそらく自教室の窓から、及川が顔を突き出していた。ひらひらと手を振っている。 「手え振ってる!良かったじゃん、怒ってないよ」 「そうみたい」 はしゃぐその子の声を聞きながら、どくどく鳴り始めた胸をそっと手で押さえた。確かに今は笑顔だが、それは私の周りに人がたくさんいるからだろう。苛立ちのこもった目で私を睨んできた先週の及川が頭に浮かぶ。 「ほら、手!振り返さなきゃ!」 「ハイ」 言われるままに及川に手を振った。引きつり気味の笑顔で。もうほとんど目の前にいる及川が、一瞬吹き出しそうに顔を崩した。 「なまえちゃん、今日も一緒に帰ろうね。いつもの場所で待ってて」 「え…いいんですか」 「いいんですかって何さー。あ、昨日連絡しなかったこと怒ってる?ごめんごめん、早くに寝ちゃって」 「怒ってないです、ぜんぜ」 「なまえちゃんかなり気にしてました!先輩にほっとかれて寂しい〜って」 「言ってない!言ってないです、本当に!」 横から口を挟んできたクラスメイトに、今日はじめて怒りを覚えた。よりによってそんなことを…!違いますから、としつこく否定すると及川の唇の端がひくひくと震えた。笑いを堪えてるみたいだ。その表情の意味がわからずに私はうろたえ、及川が今の話を鵜呑みにしたらどうしようとただただ心を揺らした。寂しい、なんて好きも同然じゃん。違うのに。……違わないけど、だって、寂しいなんて思ったこと一度もないのにーーーー その思考に至ったとき、唐突にさっき言おうとしたことを思い出した。「でもね、及川先輩は」の続き。聞かれたら話すことができる、私なりの考えを伝えることができる。でもそんな機会は来ないだろう。だって誰が与えてくれるというのか。 「はいはい落ち着いて。じゃあ放課後にね」 「……はい」 意外にもあっさりと話が流された。私だけでなく隣の子にもにっこり笑いかける及川に私もにっこりを返して、早歩きで玄関に向かった。後ろから追ってくる及川の視線が嫌で、早く校舎に入りたかった。 「良かったねーなまえちゃん!嬉しそう」 「嬉しそう?」 「うん。一緒に帰ろって言われたとき、すごく嬉しそうだった」 返すべき言葉が咄嗟に見つからない。どうしよう、私そんなにわかりやすい?「えーそうかなあ」なんて惚気るように言いながら、どうかそう感じたのがこの子だけでありますようにと願った。 14.12.06 |