▲37-1▽ 「明日の髪型をどうしようか悩んでるんですけど、先輩、好きな髪型とかありますか?」 なんて、聞けるわけがない。まるで私が、及川の好みに合わせようとしているみたいだ。いや、そうなんだけど。…いや、違うよね。私はあくまでミカのために頑張るのであって、及川のために頑張るわけじゃない。決して。余計な誤解を受けるのが嫌で、結局私は髪型の話を切り出せなかった。仕方なく夜にのろのろスマホを握り、ショートでもできるヘアアレンジを探す。どれもこれも、少し走っただけで崩れてしまうように見えた。 次の日、体育祭当日。早起きして軽く化粧をし、早速コテを握った。ぎりぎりまで悩んだが、いつもと違えばミカは満足だろうと考えてただ巻いて行くだけにした。この長さの髪にコテを使うのははじめてだ。 十分後、私は絶句していた。いわゆるミックス巻きをやってみたのだが、ぼさぼさと広がってベートーベンのようになってしまったのだ。何これ、ロングのときと全然違う…!及川がけらけら笑う顔が頭に浮かんできて、必死で振り払った。洗って内巻きか外巻きにやり直したいところだが、もう時間がない。泣く泣く家を飛び出した。 学校で顔を合わせたミカは、おはようの次にベートーベンみたいだねと言った。今はその素直な性格を愛せそうにない。どうしようと泣きつくと、難しい顔でしばらく考えたのちにポンと手を打った。「ハチマキで押さえちゃえばいいんじゃん!」朗らかにそう言って、ぼわーっと広がった髪を耳にかけてくれる。 「ねえこれ固めた?固めてないでしょ?」 「やってない。むしろ落ちて欲しいと思って」 「固めよう」 どことなくドスのきいた声で言われてカクカクと頷いた。髪を梳かしてから友達に借りたスプレーをぶっかけ(本当に"ぶっかける"ような勢いだった)、カチューシャのようにハチマキを巻く。耳とハチマキによってボサボサが後ろに押しやられているから、さっきよりずいぶんマシになった。 「軽く頭振ってみて?」 「え、大丈夫かな」 「大丈夫大丈夫」 言われた通りに頭を振ると、後ろに寄っていた髪が自然に前の方に戻って来た。ふわりと耳元を覆う。私は感嘆の声を上げた。 「ミカありがとう!」 「どういたしまして」 にっこり笑うミカは高い位置でサイドテールにして、連合色の毛を一筋混ぜ込んでいる。付け毛なのかスプレーなのか、近くで見てもよくわからない。何度も何度もミカにお礼を言いながら教室に戻ると、三年生の幹部がやってきていた。衣装はもちろん、髪型の華々しさにも息を飲む。女子は朝五時から美容室に行くと噂では聞いていたが、どうやら本当だったみたいだ。男子も女子には負けるもののずいぶん派手な髪型をしていて、編み混んだり金髪にしたり連合色のメッシュを入れたり、"6"の文字を残して坊主にしている人までいる。「写真撮ってくださーい!」が朝から盛り上がり、私とミカも一番親しい女の先輩と写真を撮ってもらった。 「あ、ねえ、なまえ」 競技係の女子に呼ばれ、ワイワイと騒がしい輪を抜け出した。何?と笑みを浮かべながら首を傾げると、彼女は困ったような表情でこう告げた。 「百メートル走の子が休みみたいで、なまえ、補欠だから出て欲しいんだけど…」 これだけは、これだけはお願いだから見逃してください誰か代わってくださいという私の必死の願いはついに聞き届けられなかった。それもそのはず、選手名鑑に補欠として私の名前が載っているのだから代わりようがない。いっそ早退しようかと真剣に悩んだが、どうやらそれを見抜いていたらしいミカががっちりと私の手を握って離さなかった。 「大丈夫、陸上部はいないから!」 「でも運動部だらけでしょ…」 本気で走ることなんて一年に一度、体力測定の五十メートル走のときくらいなんだよ。そのタイムもクラスでビリだったんだよ知ってるでしょ。もはや涙目になりそうな私を、ミカはぱたぱたと扇ぎながら「アイメイクが落ちる!」と騒いでいた。それもそうだ、泣くわけにはいかない。所詮体育祭の百メートル走じゃないか、ビリだっていいじゃないか。私が点を稼げないことなんて、みんなわかってるはず。そう自分に言い聞かせてなんとか立ち上がった。 「なまえ、頑張って!」 「四位までなら点もらえるからね!」 「四位でいいんだよ!」 「なまえ頑張れ!」 壊れそうな笑顔でありがとうと言い、おぼつかない足取りで招集場所へ向かった。四位なんて取れるわけないじゃん!胸の中で暴れまわる主張がどんどん足を重くする。 招集場所では、一年男子、二年男子、三年男子、その後ろに私たち一年女子が並ぶことになっている。各クラス男女二名ずつ選ばれているはずだが、私のクラスのもう一人の女子はどこだろう。得点係の仕事をしてから行くと言っていたが、まだ来ていないようだ。彼女がまだ来ていないというより私が来るのが早すぎたらしく、招集場所はがらがらだった。 一歩踏み出すごとに気分が悪くなる。すでに待機している女子たちの、目の輝きにくらくらする。明らかにわくわくしているその表情。きっと運動部、もしくは走ることに自信がある人だ。そりゃそうだよね、百メートル走なんだもん。足の速い人が集まる競技だって、そんなことはわかってる。私が来るべきところじゃないって、わかってる。 浅い呼吸を繰り返しながら女子の先頭までやってきたとき、なまえちゃん、と親しみのある声で呼ばれた。はっとそっちを向くと、地面に座った及川が目を丸くして私を見ていた。 「百メートル走だったの?意外すぎるんだけど」 「先輩……」 酷く弱々しい声が出てしまったが気にしていられない。クラスメイトの前では隠していた表情が出てきて、またもや目が潤みそうになる。よろよろと彼のそばに膝をついて、「私ダメです」と弱音を吐いた。 「走るのダメなんです。本当にダメなんです」 「ちょっと、え、大丈夫?」 慌てたような及川の表情に涙腺を煽られて、そんな自分が馬鹿馬鹿しすぎて笑えてきて、もう頭の中はぐちゃぐちゃだった。とにかく走りたくない。本当に走りたくない。他の人の倍近くの時間を走ることになるのが目に見えている。 「大丈夫だよ、走るのくらい。この前俺のとこに走ってきてくれたじゃん」 「あれはもうほんとに早く先輩のところに行きたくて、だから走れたんです、あれは特別なんです」 「……そう」 「それにあれは競争じゃないし、速さとか順位とかないし、誰も見てなかったし。こんな大勢の前で、期待されて応援されて、ああ…ああもう、」 「大丈夫だよ、なまえちゃん」 及川が落ち着いた声で言った。私の視線を真正面から受け止め、薄っすらと笑みを浮かべる。 「なまえちゃんが一生懸命走れば、誰も文句言ったりしないよ」 「でも」 「大丈夫。なまえちゃんだったら文句言う?一生懸命頑張った人に」 「言いませんけど、でも、」 「怖い?」 「はい」 「周りの反応が?走ることが?」 どっちもだ。全部嫌だ。走ることは嫌いだし、耳にはクラスメイトの声援が残っている。走り終わったとき、私を待ち受けているものが怖くて堪らない。声を出さずに頷く私を見て、及川はおかしそうに表情を緩めた。打って変わって、明るくひょうきんな声を出す。 「じゃあ仕方ないね。百メートル走、やめちゃおう」 「やめたいです。でも、」 「走るんだよね。いい?俺、なまえちゃんの一列前みたいだから。なまえちゃんは百メートル走を走るんじゃなくて、俺のところに来るつもりで走ればいいよ」 「先輩のところに?」 「そう。俺のところに」 及川は微笑んでいた。目尻が下がり唇が緩んだ、とても穏やかな笑みだった。その顔を見ていると心が和らぎ、荒かった呼吸が落ち着いていく。目も心も及川に奪われていた。 同じ表情を、最後に見たのはいつだったっけ。先月?先々月?私が及川を傷つけてしまったあの日より、前であることは間違いない。 どうして今も、そんな顔で私を励ましてくれるの? 「できるね、なまえちゃん」 操り人形のように頷く。顔の角度を変えつつも、視線は及川から離さなかった。注いだ分だけ返ってくる視線が、胸に熱を流し込む。及川はぽんと私の頭を叩いた。勇気付けるような、それでいて遠慮がちな叩き方だった。next→ |