▲37-2▽

「あれっ、みょうじさん!?百メートル走だったっけ!?」


数分後、にぎやかな声が頭上からかかって顔を上げた。朝から聞き続けていたこの声。連合長だ。彼の背後にある太陽を眩しく思いながら目を細め、一生懸命に笑みを作る。


「補欠なんです」
「へえー。足速いんだ?」
「全然そんなことないです。むしろ遅いです。ごめんなさい」
「そうなの?まあ俺が一位取るから!ダイジョブ!」
「そういえば先輩、足速いですよね。集演で走るの見て思ってました」
「だろだろ〜?絶対五十点取るから、ま、安心して走りなさいよ!」
「はい。よろしくお願いします」


満面の笑みで頷いた。連合長は体育祭当日ということでずいぶんテンションが上がっているらしく、私に「頑張ろうな!」と言ったあとで「お〜い!見てるか〜!」と六連の応援席に向かって声を張り上げていた。残念ながら誰も見ていない。まあここはただの招集場所なので、当然といえば当然だ。

あっという間に時間が経って、競技係の合図でみんな立ち上がった。周りはどうだか知らないが、私は処刑台に向かう気分だ。列の先頭がフィールドに入ると、競技と競技の間で一旦弱まっていた応援歌が盛り返し始めた。数々の応援歌が混ざり合って、独特のハーモニーを生み出している。

準備が整い、パン、とピストルの音。一年男子が走り始めた。私のクラスメイトも走っているはずだ、遠いせいで見えないが。応援歌に混ざって、キャーとか頑張ってーとかの声も聞こえる。うおおおという野太い声は男子のものだろう。どうやらゴールインしたらしく、カラフルな旗を持った人たちが走者に駆け寄って行く。『一位は、五連合です!』実況放送が入り、周囲から歓声が上がった。

どんどん人が減っていく。それに伴って酷くなる緊張。一歩、また一歩と前に出るごとに頭がぼーっとしていく。だめだだめだだめだだめだ…。私ってこんなに緊張するんだ。去年のピアノコンクールはどうだったっけ。

あと一列のところまで来た。つまり、及川が走る番だ。そのせいか、応援歌に混じる個人の歓声が増えた。「及川さーん!」「及川先ぱーい!」……名前がはっきり聞き取れる。及川以外の名前もあった。どうやら最後の組だけあって、盛り上がるメンバーが集められているらしい。

そういえば及川の隣は六連連合長だし、他にも三人ほど連合長らしき人が混じっている。みんな衣装を脱いで体操着に着替えているので断言はできないが、派手な髪型と、背中まである特別製のハチマキを巻いていることから連合長じゃないかと思う。ちなみに及川の髪型は、意外にもいつも通りだ。ハチマキが正直似合っていない。

みんなひらひらと、もしくはぶんぶんと応援席に手を振っていた。とっくに応援歌は消え、思い思いの声援でグラウンドは溢れている。連合対抗リレー並みの盛り上がりだ。

及川も応援席に手を振っていた。視線の先は自分の連合に限らない。どうやら「及川さーん」が聞こえた方向に片っ端から手を振っているようだ。凄いサービス精神。自連合の人にあとから怒られるんじゃないかと、及川の教室で会った女子四人を思い出してこっそり心配した。


「そろそろ準備しろって」


スタート係の人が呆れ顔で注意したが、あまり効果はなかった。何しろ端の人にしか声が届いていない。私はふと、ここで私が「及川さーん」を言ったらどうなるだろうと考えた。及川さん、なんて呼び方したことないけど。及川は振り向いてくれるだろうか。そのあとに続く「頑張って」に応えてくれるだろうか。

ピピッ。係の人が笛を吹いた。「いちについて!」容赦がない。端の人はすでに準備万端といった様子だったが、あとの人たちは慌てて膝をつきクラウチングスタートの姿勢をとった。一年女子も大急ぎで駆け寄り、その足の裏に足をつける。押さえる係は後ろの人なのだ。私は連合長に駆け寄ったが、頭の中は及川のことでいっぱいだった。ぎりぎりになって口を開く。


「よーい!」
「先輩頑張ってください」


パン!

及川が、そして全員が走り出した。及川のスタートが一番速かったように見えたが、そこからはもうただの横一直線にしか見えなくて、誰が何番目を走っているかわからない。及川は一番だろうか。それとも宣言通り、連合長が一番だろうか。

私の声は届いただろうか。

大会前日に頑張ってくださいと言って、迷惑そうに流されてしまったことを思い出した。今回も同じだった?迷惑だった?私の応援なんて、嫌なことを思い出すだけ?

及川の背中が豆粒のように小さい。どうやらゴールしたらしく、旗を持った人たちが駆け寄っていく。人が入り乱れて、どれが及川かわからなくなってしまった。


『一位は、六連合です!』


実況が入り、歓声が爆発した。六連の応援席から、何度も聴き何度も歌った応援歌が聴こえる。二つ後ろの列にいたクラスメイトに「やったね」と肩を叩かれ、「うん」と声を弾ませて返した。実はがっかりしたなんて言えるわけがない。

そして一時的に麻痺していた緊張がぶり返してきた。ついに私の番が来てしまった。落ち着いて、えっと、先輩はなんて言ったっけ。俺のところに走ってきてとかそんな感じだったような。ああ、一字一句違わず覚えていられないのが悔しい。声の感じと表情なら、すぐに思い出せるのに。


『続いて女子です』


及川のところに走る、及川のところに走る。緊張を誤魔化そうと自分に言い聞かせた。これは百メートル走じゃない。及川のところに行くだけ。

……及川のところ?


「いちについて!」


何人もの及川が脳を埋め尽くした。『嫌いなんだよね』『帰ろう』『俺の前では頑張らなくていいよ』『邪魔』言っていることはばらばらだ。一致しない。私の中の及川が、一つに重ならない。"どこ"に走って行けばいいかわからない。


「よーい!」


ある部分が好きで、ある部分は好きになれなくて。救われることもあって、傷つけられることもあって。隣にいるのは楽だ。そして、苦しい。でももっと隣にいたいと思う。これ以上振り回さないで欲しいとも思う。

ピストルが鳴る直前、私はゴールの向こうを見た。周囲の音が聞こえなくなって、代わりに及川の声だけが残った。「なまえちゃん」というただ一言。それ自体に意味を持たない言葉。声と表情で意味を持たせることのできる言葉。

『なまえちゃん』

パン!

私は走り出した。ゴールが見つからないのに走り出した。見る見るうちに離れていく周囲の背中。おそらく私を待つゴールテープはない。でも、不思議とそれで満足だった。見つからないゴールがきっと迎えに来てくれる。なまえちゃん、と呼びながら迎えにきてくれる。

その未来を思い描いたとき、唐突に及川の泣き顔が脳裏に浮かんだ。私は"それ"を、"見なかった"。存在すらも知らないことにして、今の今まで過ごしてきた。でも、それは間違ってたんだ。私はあの日の及川を覚えておくべきだった。及川が私を拒んだことも、拒みながら手を伸ばしたことも、全部、覚えておくべきだった。

先輩は先輩だ。たくさんの顔と声、手と心をもっていて、私を騙すし、自分を騙す。及川はそういう人だ。どうしても"ひとつ"にはなれない人だ。私を嫌う及川がいる。私を罵る及川がいる。でも、私を励ましてくれる及川だって確かに存在するのだ。私を認め、受け入れてくれる及川。優しい言葉をかけてくれる及川。それを疑う必要はない。ひとつにはなれないけれど、嫌になるくらいにばらばらだけれど、全部、全部及川徹だ。

それ以上の考え事はできなかった。走れば走るほど頭が真っ白になり、足の痛みと肺の圧迫感に支配される。気づけばゴールしていて、最下位の旗を持った人に腕を掴まれていた。脈拍が酷く早くて吐いてしまいそうだ。あちこちから汗が噴き出し、呼吸のタイミングを上手く掴めない。大丈夫?とぎょっとするその人と私の間に、突然腕が割って入った。私の腕を掴んで引き寄せる。

ぐらりと胃のあたりが揺れてますます気持ちが悪くなって、倒れこむようにその腕の持ち主に寄りかかった。保健室連れてくねと言う声が遠く聞こえる。ふらつく頭を無理矢理持ち上げて、その人の視線を求めた。先輩。先輩、こっち向いて。もっと近くで声を聞かせて。ねえ、


「なまえちゃん、」


先輩、好きです。目が合った瞬間、名前を呼ばれた瞬間にそう思った。思ってしまった。


14.11.30