▲35▽


六時前に家を出る日が来るなんて思いもしなかった。体育祭の朝練のために早起きした今週だって、せいぜい六時半に出発していたのに。ため息にあくびが混じって涙が滲んだ。眠い。本当に、眠い。早く寝ようと思って予習を放棄したため、英語のノートは真っ白だ。誰かにーー国見に、見せてもらえればいいけど。

私がこの時間に家を出たのは、国見に呼び出されたからに他ならない。朝七時から集演のダンスを教えて欲しいと言われて、言わんこっちゃないと顔をしかめながら了承の返事を送った。純粋に助けになりたいと思ったのもあるが、なんとなく裏の意図を察して呼び出しに応じることにしたのだ。

眠いせいか、駅までの道がずいぶん長く感じた。ようやく改札を通り、ホームへ足を動かす。たったひとつしかないベンチに、予想通り、国見が座っていた。

長い足を投げ出し、今にも地面に落ちてしまいそうな体勢で眠っている。国見にしては珍しい。いつもは起きてるんだか眠ってるんだかわからない格好で、うつむいているだけなのに。きょろきょろと辺りを見渡してみたが誰も座る気配がないので、一人分のスペースを空けて国見の隣に腰を下ろした。ギ、と鳴って僅かに沈み込むベンチ。国見が薄く目を開いた。


「……絶対、この時間に来ると思った」
「これ逃すと次は一時間後だからね。おはよう」
「おはよ。東京みたいに、五分おきに電車が来てくれればいいのに」
「東京って五分おきなの?凄いね」
「知らない、適当に言ってみただけ」
「なんだ」


国見は途中から目を閉じていた。もぞもぞと椅子に座り直し、今度は足をおとなしく畳んでいる。肩をすくめているからかもしれないが、及川に比べてずいぶん華奢に感じた。国見を華奢だなんて感じるのははじめてだ。自分の感覚が及川基準に変わっていることに気づいて、顔をしかめた。

電車が来たので、二人して立ち上がって同じ車両に乗った。朝早いせいかクロスシートの車両だ。もしも及川と乗り合わせたら気まずいので国見の近くは避けようとしたが、「こっち」と呼ばれて隣に座らされてしまった。前じゃなくて、隣だ。やっぱり何か話があるんじゃとピンとくる。


「寝るから、着いたら起こして」
「え?寝るの?」
「何、みょうじも寝る気?」
「ううん、私は寝るつもりないけど…」


なんだ、寝るのか。どうやら寝顔を真正面から見られたくなかったから隣に誘導しただけらしい。ふと英語の予習のことを思い出して、国見が目を閉じる前にと急いでその話をした。


「英語の予習、終わってる?」
「してない」
「してない?いつやるの?」
「しない」
「え、でも国見、いつもすらすら答えてるじゃん」
「俺、その場で訳せるから」
「あーそう…」


話しかけるな、と言いたげな顔で固く目を閉じられてしまった。私は仕方なく膝の上にノートを広げ、予習を開始する。国見の頭がいいのは知っていたが、この英文をその場で訳すなんてありえない。顔をしかめながら一語一語意味を調べ、なんとか一ページ訳し終わったところで電車は駅に着いた。

慌てて隣の国見を起こす。「国見!」と呼んでも身動きしなかったので肩でもつつこうと思ったが、正直それどころじゃない。手にはノートと辞書と教科書とシャーペン、足元にはリュックがあるのだから。「国見!」申し訳ないがノートの面で頭をはたかせてもらい、そのノートを教科書の間に挟み込んで閉じながら立ち上がった。

左腕に教材を抱え、右腕にリュックの肩紐を通し、大急ぎで電車を降りる。国見もふらふらと後ろをついてきた。「消しゴム落ちてた」とそれを差し出され、目を丸くしてお礼を言う。私があたふたとそれらをリュックにしまっている間、国見はどこに行くでもなく私の隣にいた。リュックのファスナーを閉めて準備完了したとき、何と言えばいいかわからず言葉に詰まった。"お待たせ"?待っててなんて言ってないし、国見が私を待っていたのかどうかもわからないのに?

結局何の言葉もなく二人で歩き始め、改札を通り、並んで学校に向かった。国見は及川とほとんど身長が変わらないから当たり前かもしれないが、ペースが速く、ついていくためにはかなり頑張って足を動かす必要があった。普段及川や飛雄がどれだけ私に合わせてくれているかを痛感する。かと言って、そうしない国見に不満があるわけではなかった。国見が私のためにペースを落としたら、逆にびっくりしてしまう。

国見との距離感。もちろん心の距離の意味だ。かれこれ二年と数ヶ月同じクラスにいるというのに、私は未だにそれを測りかねていた。国見が優しい人だというのは知っている。だが、その優しさに完全に甘えることを許さない空気を持っているのだ。踏み込んでくるなという線、というか壁を私に対して作っているのがわかる。私はそれを飛び越えようとは思わない。

あまりにも沈黙が続き、私はこっそり眉をひそめた。もしかして私、隣を歩く意味ない?もしかして国見、「なんでこいつ隣にいるの」とか思ってる?ちらっと横を窺うと、国見はなんだか気難しそうな表情をしていた。


「国見」
「何?」
「……えっと。いつもは何時に学校行ってるの?」
「変わらないよ。いつも七時くらいから朝練」
「規則なの?」
「いや、朝は自主練だからいつ行っても、行かなくてもいい。及川さんは六時半から行ってるよ」
「六時半…?」


咄嗟に口にした、特に意味を持たない話題だったが、思わぬ情報を得て目を見開いた。六時半に着いてるってことは、家を大体五時半に出ているわけで、えっと、起きるのは何時…?

考え込むうちに歩くペースが遅くなっていたようで、瞬く間に国見と離れてしまった。国見が振り返り、立ち止まって私を待つ。なんだ、隣を歩いてもいいの。ごめんねと早口で言って、小走りで追いついた。


「あのさみょうじ」
「うん」
「ごめんな」
「……ん?」
「及川さんに喋ったこと」


ぽかんと口が開いた。驚きで、及川の睡眠時間への心配が一時的に掻き消えてしまった。この話をするために呼び出されたんじゃないかという予想はしていたけど、まさか、謝られるとは思ってもみなくて。


「別にそんな…謝ることないよ」


私はへらりと笑った。あ、やばい、と思ったときにはもう遅い。国見が苛立ったような顔で私を見ていた。今更笑みを引っ込めるわけにもいかず、私はへらへら笑い続ける。


「あの、そりゃね、国見が喋ったんだってわかったそのときは……」


怒ったけど。悲しかったけど。…どっちだろう。裏切られたと思ってショックを受けたのは確かだ。でも、それを口にしたら国見を責めることになってしまう。裏切られた、なんて、重い言葉だ。私と国見の間に、はっきりした信頼関係なんてないのに。ただ私が勝手に、国見に私の味方について欲しいと思っていただけだ。私の秘密を黙っていてくれるんじゃないかと、期待していただけだ。

一旦止めた言葉の、続きは口にしなかった。代わりにきっぱりと言う。


「国見は悪くないから。口止めしたわけでもないし、いつかバレることだったって思うし。まさかそのことであんなに…怒るなんて、思ってなかったけど」


国見の顔が苦々しいものになった。その意味を疑問に思うこともなく、私は自分の考えにふける。そう、あんなに怒るなんて、思いもしなかった。あのときの及川の顔は確かに笑っていたけど、怒気を含んだ声、勢いのある口調は間違いなく怒っていた。そりゃ怒るよね、と肩を落とす自分がいる一方で、怒られる筋合いはない、とぼやく自分がいるのも確かだ。だって及川も、飛雄を目的として私に近づいた。飛雄という存在があったから、私と付き合っていた。私が"彼"を目的として及川の告白を受け入れて、"彼"の存在があるからこそ及川と付き合っていたって、おあいこなんじゃないの。

このことを考えると胸が痛くなる。及川が私に告白したのは私が飛雄の幼馴染だったからに過ぎないと、気づいてしまった日のことを思い出すからだ。あのとき私が受けた痛みを、この前の及川も受けたのだろうか。私が第三者への復讐を目的として自分と付き合っていたと知って、傷ついたのだろうか。

その答えを見つける前に、及川は表情を隠してしまった。あの会話から数分と経たないうちに、いつも通りの笑顔で笑っていた。私が及川の本心を見出す手がかりは、なくなってしまった。


「あのさ」
「ん?」
「……これ、言おうか凄い、迷ったんだけど」
「国見でも迷うことあるんだ。何?」


首を傾げて国見を見た。国見の目がうろうろと泳いでいた。わ、ほんとに珍しい。そんなに迷うなんて何の話だろうと、軽く握っていた拳に力が入る。国見が口を開くのを今か今かと待った。


「やっぱなんでもない」
「え」


これだけもったいぶっておいて?言ってよ、と詰め寄ろうとしたが国見の表情が苦悶に満ちていたため口を開けなかった。しつこいようだが、今日の国見は本当に珍しいことばかりしている。謝ったり、歯切れが悪かったり、それこそこの表情だったり。次の言葉が見つからずにうつむいた私に、国見は静かな声で聞いてきた。


「みょうじって、アイツに何したいの」
「どういうこと?」
「具体的にだよ。及川さんと付き合って、そんでアイツに何するつもりなのか聞いてんの」
「ああ」


あまり聞かれたくないことを聞かれてしまった。すべてを明かすわけにはいかない。人に言えない部分を切り落とせば、子供っぽくて、馬鹿らしくて、呆れるほど"健気"な私が残る。自嘲の笑みが零れた。


「よくあるあれだよ。見返してやりたい、ってやつ」
「……もっとわかりやすく言って」
「私をふったあいつを見返してやりたい、みたいな話よく聞くじゃん?あれ。ほんとに、ただ、それだけ」
「え」
「拍子抜けでしょう?」


ふられた女の子の半分は考えていそうな当たり前の感情に、復讐なんて大それた名前をつけて、めらめらと闘志を燃やしていたのだ。くだらない話だ。なるべくなら最後の最後まで口に出さず、密かに実行して、密かに私の中で"復讐"を遂げたかった。


「アイツと付き合ってる間、私、アイツの趣味に合わせて髪型とか服装とか変えたんだよ」
「知ってる」
「結構変わったでしょ?かなり頑張ったんだから。でもアイツ、……ねえこれ言わなきゃだめ?凄く恥ずかしいんだけど」
「言って」
「……私より可愛いやつなんていっぱいいるって言ったの」


国見が吹き出した。笑えてしまう気持ちはわかるけど、当時の私からしたら笑い事じゃない。趣味じゃない髪型をして、趣味じゃない服を着て、一生懸命笑って喋って、アイツのためだけに新しい"私"を作ったのに。だから高校に入るタイミングで髪型を変えたのだ。こっちの私で、本来の私で、"可愛い"と言わせたくて。思わせたくて。顔をしかめながらたどたどしくそれを言うと、国見はにやにやを収めることなくからかうような口調で言った。


「頑張って。でも俺、ロングの方が好きだよ」
「え、前の?巻いたやつ?」
「アイツと付き合う前のストレート」
「んん…でもあれはダメだよ、付き合ってたときとそんなに変わらないもん」
「別にロングにしてなんて言ってないじゃん。俺はあれが一番良かったと思うってだけ」


あしらうように言われて口を閉じた。黙り込んだ私に、国見が本題を突きつける。


「で、及川さんは?どう関係してくるわけ?」
「……アイツ、自分の顔に自信あったじゃん」
「実際、学年きってのイケメンとか言われてたしね」
「付き合ってしばらく経つとわかってきたんだけど、アイツほんとに顔、顔、顔なんだよ。誰々の顔がどうとか、お前の顔がどうとか、俺の顔がどうとか。ほんとに顔しか見てないの。それで、自分の顔が一番だと思ってるの。だから、」
「それを上回るイケメンを連れて歩きたかった?」
「……言い方悪いけど、そういうこと」


ふざけたように笑ってみせるけど、情けなくて眉が下がる。くだらないのは自分が一番わかっている。でも、及川に告白されたとき、これは奇跡だと思ったのだ。顔もスタイルも抜群で、どう見てもアイツよりかっこよくて、しかも、"私のことを好いていない"。いかにも裏のありそうな告白を受けて、この人は利用できると思った。利用してもいい人だと思った。


「あの人と……手を繋いで、アイツの前に出て行きたいんだ。にっこり笑って、久しぶりって手を振って、」


言葉が続けられない。見つからないのだ。頭の中でいろいろな思いや記憶が混ざってしまって、どれを口にしていいかわからない。"彼"と別れてから及川と付き合うまで、ずっとこのビジョンを思い浮かべていたのに。

数メートル先に立っている"彼"を見つける。隣に女の子がいたって構わない、私の隣にも男がいるから。その男の顔は見えないけど、"彼"よりずっとずっとイケメンだ。その男と私は手を絡めて、仲良く喋って、ゆっくり前へと進んでいく。"彼"がこっちを向いた瞬間、私は目を丸くするのだ。あれ?と首を傾げ、そのあとすぐににっこり笑う。"彼"のものだった私より、ずっとずっと可愛い笑顔で。ずっとずっと幸せそうに。

私は目を閉じた。たっぷり一秒間の暗闇。隣に、及川を立たせる。その瞬間ビジョンはかき消えた。目を開く。眩しいほどの朝。隣にいるのは国見。

唇から、ため息が漏れた。

及川と付き合ってすぐに、あのビジョンは見えなくなってしまった。及川と幸せそうに歩くことも、見せびらかすように及川を隣に立たせることも、私には想像できない。できないから、逃げてきたのだ。"復讐"のことを、あまり考えないようにしていた。細かい計画も立てず、"彼"の行動範囲さえ調べようとせず、本気でそれをする気があるのか自分でもわからなくなっていた。今となっては、それが楽だとすら感じるようになってしまった。もしかしたら私は逃げたのではなく、


「及川さんがみょうじをアイツから逃がしたんだね」
「え?」
「みょうじ、今でもそういうことしたいと思ってんの?」
「……思ってる」
「はい嘘。いつも言ってるけど、みょうじの嘘はバレバレだから」


私は押し黙った。及川が私を逃がした、その言葉が脳内で反響する。

そういえば、と四月のことを思い出す。あの頃は電車に乗ってぼんやりするたびに、"彼"のことを考えてしまっていた。"彼"の言葉と、"彼"の手。忘れてはならないと自分に言い聞かせたあの思い出が、いつの間にか心の奥の奥に押し込まれていたのは誰のおかげ?


「……色々、もう、わかんないや。自分がどうしたいのかも、あの人がどうしたいのかも……ああこれはわかるかな。私を突き落としたいんだよね」
「絶望のどん底に?」
「うん、まあ、そうなんじゃない」
「おとなしく突き落とされるのを待ってるの?」
「……だから、どうしたいかわからないんだって」
「現状維持?」
「んー……」


いつの間にかいつもの国見に戻っていた。びしばし突っ込んで、白黒付けたがる。白黒付けようとする国見の問いに答えられないということは私が灰色に甘んじているということで、それは前々から自覚していた。今もまた、答えが出せない。


「わからないんじゃなくて、わかりたくないんでしょ?」


私は口をつぐんだままじっと下を向いていた。もう勘弁してください、と空気で伝えようとする。国見は呆れ半分の笑い声を漏らして、それから妙に優しい声で言った。


「あのね、アイツのこと、これ以上及川さんに言わない方がいいよ」
「……でももうバレてるし」
「俺が言ったのは、そういう相手がいるってことだけだから。あ、もちろん、悪いとは思ってる。ごめん」
「だから謝らなくていいって」
「とにかく言わないで。わかった?」
「うん」


顔を上げて、横を歩く国見を見た。そして驚いた。優しげな声とは対照的に、不安そうな顔をしていたからだ。


「あの、ほんと、言わないよ?」


私が口を滑らせることを心配しているのかと思って慌ててそう言うと、ようやく国見は表情を崩して笑った。みょうじはほんとバカだから、心配だわ。ぽろりと零れたその声の温度に、私は目を瞬いた。



▲▽




国見には言えない。せっかく薄れかけた心の奥底。誰にも明かしたことのないどろどろの感情。久しぶりに掘り起こして、直視して、今、吐き気を催しているなんて。

可愛くなって、もっといい男を捕まえて、"見返してやりたい"。確かに言い表すならそうだ。だけど、私の胸に巣食っているのはそんなに単純で健気なものじゃない。私は"彼"が嫌いだ。私は"彼"を憎んでいる。逆恨みと呼べるかもしれない。逆恨みであろうとなかろうと関係ない。とにかく嫌いで、憎いのだ。復讐してやりたいと思うくらいには憎いのだ。その思いを抱えて半年間を生きたほどに、私は"彼"が憎いのだ。

私は"彼"が好きだった。

好きだったからすべてを"捧げた"。私の身も心も時間も"彼"のものだった。私は"彼"のために自分を変え、"彼"のために生きていた。好きだったから。大好きだったから。"彼"の言うことは何でも聞いたし、"彼"のわがままにも浮気にも文句を言わなかった。約束をすっぽかされても酷いことを言われても笑って流した。好きだった。これだけ好きなのだから、これだけ尽くしているのだから、最後には私を求めてくれると信じた。私だけを好きと言ってくれると信じた。

『えっ嘘だ。元気だろ?今日学校来てたじゃん』
『そうだけど、』
『俺としたくないの?俺のこと嫌いになっちゃった?』
『違う!そうじゃなくて、』
『まっ、いいや別に!他の子呼べばいい話だから。よく考えるとさあ、お前よりも可愛いやつなんて、世の中ごまんといるんだわ。別にお前としなくても』
『待って!……待って。できるから…するから…』


何度も繰り返したやりとり。体で必死に繋ぎとめた関係。今思えば、私は彼の玩具に過ぎなかった。

寒い秋のあの日、待ち合わせ場所で五時間待って、泣きそうになりながら電話した先で"彼"はあっけらかんと言った。やっぱお前ダメだわ、つまんないから。あのときの衝撃を私はまだ、忘れていない。……忘れられていない。

好きだったんだ。大好きだったんだ。私があげた分だけいつかは返してくれるって、ずっとずっと、信じてたんだ。


14.11.22