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『メール見てませんでした、返信遅くなってごめんなさい。今日はピアノのレッスンがあったので、放課後は残らずに帰りました』


レッスンの帰り、電車に揺られながらメールを返信した。スマホをリュックのポケットに仕舞うと、指先でくしゅっと音がした。あ、と緩みそうになる顔を抑えながらそれを取り出す。及川にもらった飴だ。

そういえばDV疑惑はどうなったんだろう。ふと首を傾げたが、考えれば考えるほど嘘にしか思えなくなってきた。私を迎えてくれた女子四人が頭をよぎる。あの人たちは私を見ても、特に変な顔はしなかった。同情の視線も、怪我を探すような視線もなかった。及川への態度だって、暴力を振るう人に対するものだった?むしろ軽口を叩き合って、仲が良さそうに見えたけど。

何のためにそんな嘘を?頭を捻ってみたが、答えらしきものは思いつかなかった。それに飴を見ているうちに心が和んできてしまって、まあいいかという私にしては珍しい楽観思考が脳を満たす。お腹空いたな、この飴食べちゃおうかな。咄嗟に包みを開けようとしたが、梅に対する苦手意識ともったいない精神が大々的に抗議して結局またポケットにしまった。

特にすることもなく電車に揺られていると、あることを思い出してじわじわと不安になってきた。そういえば飛雄に話をしに行かなくちゃいけないんだ。"飛雄と話"まではいいのだが、問題はその先をどうするかだ。

一番いいのは、昨日も考えた通り「彼氏ができた」と正直に明かすことだと思う。彼氏ができたから、たとえ飛雄でも他の男の子は家に呼べない。……とても真っ当な理由だ。でももし母にそれを言ったら。あのミーハーな母のことだ、どんな子なの、写真はないの、今度連れてきてよ、と大騒ぎするに違いない。

その未来を想像すると気が重くなった。及川をうちに?連れてこられるわけがない。来てくださいなんて言えないし、言ったところで来てくれやしないだろう。

面倒だ。絶対、そっちの方が面倒くさい。今ここで飛雄が来られない言い訳を考えることと、あとで及川が来られない言い訳を考えること。どう考えても前者の方が楽なはずだ。私は一人頷き、飛雄が来られないことにふさわしい言い訳はないかと考えを巡らせる。

ろくなアイデアが浮かばないうちに駅に着いてしまって、憂鬱な気分のまま電車を降りた。昨日は及川と歩いた道を、今日は一人で辿っていく。もう及川の隣を歩くことなんて絶対にないと思っていたのに、まさか今日まで「一緒に帰ろう」と誘われるなんて。これは本格的に落としにきてる。会いさえすれば落とせるって、そう思ってるの?実際その通りかもしれない、と流されやすい自分の今後を案じてため息をついた。

なんとなく手がスマホに伸びる。及川からの返信を求めて画面を開くと、及川ではなく飛雄から連絡が入っていて目を丸くした。


『ごめん、母さんに言っちまった。及川さんのこと』


中身を見て、目を丸くするどころじゃなくなった。思わず「えっ」と口走ってしまって、慌ててあたりをきょろきょろする。幸い誰にも聞かれていなかった、というより周りに誰もいなくて、きょろきょろしたことを恥ずかしく思いながら前に向き直った。『あと十五分くらいで家に着くんだけど、会える?』と送信する。既読はついたが、返事は来なかった。

なんとなく予想はしていたが、十分も経たないうちに前方から飛雄が走ってきた。制服を脱いで、ジャージに着替えている。おす、と手を上げられて、同じ仕草を返した。

飛雄と会うのは試合の前日に応援に行って以来はじめてなのだが、だからと言って何か特別な言葉をかけるわけでもなかった。お疲れさまくらい言うべきかなと思ったときには、飛雄は「わりぃ」と口を開いていたのだ。


「母さん、お前と及川さんが一緒に歩いてんの見たらしくて、言ってること全部当たってて、つい」


私は絶句した。昨日のことだろうか。それとももっと前?焦りに思考を占領されそうになって、落ち着こうと深呼吸する。大丈夫、見たのは飛雄のお母さんだから。私のお母さんに見られるよりずっとマシ。


「……それなら仕方ないよ。ごめんね、巻き込んで」


なんとか言葉を搾り出したが、それ以上何も言えずに二人して黙り込んだ。とりあえず帰るぞ、と促されて飛雄の隣に並ぶ。


「わざわざ来てくれてありがと」
「おう。……その、会いに行っていいのかなって迷ったんだけど、この時間に一人は危ねえし」
「別に危なくないよ」
「危ねえだろ。ピアノどうだった?」
「んー…普通だよ。怒られもしなかったし褒められもしなかった」
「ふーん。そういえば最近、なまえのピアノ全然聴いてねえな」
「飛雄が帰る時間には消音でやってるしね。今度来たとき聴いーーーー」


言いかけてはっと口をつぐんだ。そんな機会は来ない。私と及川の奇妙な関係のせいで、飛雄はまたうちに来られなくなったのだ。昨日母に責められたことを思い出して、私はおそるおそる飛雄に尋ねた。


「ねえ飛雄、私の家で夕飯食べるはずの日、一人で何食べてたの?」
「あ?…あー……色々」
「色々って?」
「カップ麺とか、スーパーの弁当とか」


眉が下がる。申し訳なさでいっぱいになって、ごめんと謝った。育ち盛りの飛雄がたくさん食べることは知っている。軽く私の五倍は食べるのに、その食べるものがカップ麺やスーパーのお弁当って。飛雄はスポーツをしているのに。


「なまえも同じようなもんだろ。俺んち来れない日、何食べてた?」
「私、そんなに食べないから。ご飯にふりかけくらいでいいんだ。それに先月は、結構お母さん早く帰ってきて」
「母さんもそうだったから心配すんな」
「何回くらいうちに来るはずだった?」
「……五回くらい?はっきり覚えてねえけど、大した回数じゃねえよ」


飛雄はあっさり言った。五回は確かに大した回数じゃないかもしれない。月に二十回近くうちに来ていた時期だってあったのだから。でも、回数が少ないからといってこの落ち込んだ気分は消えない。悲痛な顔のまま足を進めた。


「あ、母さん」
「えっ」


飛雄が突然声を上げて、私はばっとそっちを見た。あと一分もしないうちに着きそうな飛雄の家。そのドアのそばに、黒い影が見えた。こっちに小さく手を振っている。その振り方が、飛雄のお母さんのものだった。

近づけば近づくほど緊張が高まり、心臓が早鐘を打つ。"彼"のことは母にもこの人にも話さなかったし気づかれなかったから、そういう存在ーーいわゆる彼氏がいると知られるのははじめてだ。近所のおばちゃんに知られて何の問題があるのかと思うかもしれないが、何しろこの人は私にとって母親同然なのだ。


「おかえり」
「ただいま」


飛雄が簡単に答える。私は返事をする代わりにぺこりと頭を下げた。すぐに姿勢を戻し、「お久しぶりです」と早口で言う。


「ほんとに久しぶり。なまえちゃん来なくなって、結構寂しかったのよ?うちには男しかいないから、楽しい話もできないし」


切れ長の目を上品に瞬く飛雄のお母さんを前に、唇が緩みそうになる。今の話が、私と彼女の関係を表すすべてだった。影山家には娘がおらず、だからこそこの人は私を特別可愛がってくれたのだ。娘の髪を結ぶこと、娘と服を買いに行くこと、娘と料理をすること、娘とケーキバイキングに行くこと。彼女が抱いた夢はなんでも、私が娘として叶えてきた。


「風邪は大丈夫?」
「風邪?………あ、大丈夫です。あのときは勝手にすっぽかしてごめんなさい」


約束を忘れて家で寝ていたことを思い出し、申し訳なさに唇を噛んだ。あれが先月で唯一、飛雄の家に行くはずの日だった。なんとなく空気が変わったのを感じて肩に力が入る。案の定、彼女が次に口にしたのは及川の話だった。


「飛雄から聞いたと思うけど、なまえちゃんが男の子と歩いてるのを見たのよ。それでピンと来て飛雄に聞いてみたの。私の勘、当たってたわね」
「……はい。そういうわけで、あの、飛雄と家で会うのは控えてるんです。やっぱり、…悪いかなって、思って」


言葉を選び選び話していたら片言になってしまった。飛雄のお母さんはそれをどう解釈したのか、納得したように頷いている。


「なまえちゃんと飛雄がこんなに喧嘩を長引かせるなんておかしいと思ってたのよ」
「ごめんなさい。……本当のことを言わなくて」
「いいのいいの。言いづらいのわかるわ、私もそうだったから」


目を細めて笑う彼女は、それなりの年になった今でもとても綺麗だ。学生時代はずいぶんモテただろうな。小刻みに頷く私の横で、飛雄は顔をしかめている。何言ってんだこの人、みたいな表情だ。


「お母さんにもまだ言ってないんでしょう?」
「はい。母は……知っての通り性格がアレなので」
「大騒ぎするのが目に浮かぶわ」
「ですよね」
「これからも言うつもりはないの?」
「んー……」


軽い問いだったのに、考え込んでしまった。言わないのは、不自然だろうか。私が答えを出す前に、飛雄のお母さんは「よし」と言って温かく微笑んだ。


「私が上手く伝えておいてあげる」
「え?」
「なまえちゃんとここで話したことは内緒にして、なまえちゃんが男の子と歩いてるの見たのよ、彼氏じゃないかしら?って言うの。それで、きっと秘密にしたいのね、気づいてないふりをして温かく見守ろうか……みたいな方向に持っていく。どう?」
「そんなに上手く行きますかね?お母さん相当ミーハーですよ?」
「大丈夫、昔話でもして気持ちを女の子に戻せば」
「はあ」


お茶目な言い方がおかしくて笑ってしまった。女の子、に戻ったらもっとはしゃぐんじゃない?そんな考えが頭をかすめたが、せっかく助けを申し出てくれたのだから任せることにした。じゃあよろしくお願いします、と頭を下げる。そして顔を上げるなり、気がかりなことを聞いてみた。


「あの、今月はお仕事どうですか。飛雄の夕飯、大丈夫ですかね」
「うん。ちょうどこの前の土日に、結構大きなプロジェクトが終わったのよ。今月はちゃんと定時で帰れると思うわ」
「良かった…」


隣で飛雄が「俺もう高校生なんだけど」とか「ペットのエサの話かよ」とかごちゃごちゃ言っていたが二人して無視した。この三人が集まると大抵こうなる。


「なまえちゃんは大丈夫なの?」
「あ、はい。そろそろ料理の練習もしなきゃかな、とか思ったり」
「そうね。彼氏くんにお弁当作ったりしなきゃだもんね。うわあ、青春だなあ」


この人に会うこと自体が久しぶりだが、こんなに目をきらきらさせたこの人を見るのもずいぶん久しぶりだ。娘のような存在に彼氏ができたというのは、そんなに楽しいニュースなのだろうか。実際の私たちは"青春"とは程遠いことをしているなんて、とても言えそうにない。

飽き飽きした表情の飛雄が門を開いたのをきっかけに、私たちは話を締めくくり始めた。私はもう一度よろしくお願いしますを言い、それに彼女が笑顔で頷く。


「たまにこうやって話せたら嬉しいわ」
「私もです。良かったらまたケーキバイキングとか、行きたいです」
「本当?私と遊びに行く時間があるの?」
「ありますよ!」


彼氏と遊ぶので大忙しじゃないの?そんな意味が込められていると察して、誤魔化すためににっこり笑った。私と及川が遊ぶ機会なんて、絶対に来ないと言い切れる。気持ちの問題もあるが、その前にあの人は部活でいっぱいいっぱいだろう。

仕事の正確な予定が決まったら連絡すると言われ、私はまた頷いた。「じゃあね」に「はい」を返し、その隣の飛雄を見る。


「飛雄も、またね。ありがとね」
「お礼言われるようなこと、なんかしたか?」
「飛雄のおかげで上手く話まとまったもん。あ、あと、迎えに来てくれたこと」
「ああ…別に大したことじゃねえよ」
「でも嬉しかった。ありがとう。またね」
「おう」


手を振って二人と別れ、互いに背を向けた。自分の家のドアを開ける際に振り返ると、全く同じ体勢で飛雄がまだ私を見ていた。私はかすかな微笑みを浮かべて、最後にもう一度手を振った。



状況がひと段落したことにほっと胸を撫で下ろし、靴を脱ぎながらぱちっと廊下の電気をつける。洗面所で手を洗って、二階に上がりながらスマホを取り出した。及川からの返信を期待したのだか、私の目はまたもや別のものを捉えた。

国見から、たった一行のメッセージ。


『頼みがあるんだけど、明日の朝学校で会える?』


14.11.21