▲33▽

「お前、なんでここにいんだよ。彼女は?」
「メールの返事来なーい」
「メール?直接誘えよ、今日二回も会ってんだろ」


及川はぶーっと膨れた面をした。そしてポケットに手を突っ込んだまま振り返って校門を見たが、どうするでもなく俺の隣にまた並んだ。駅へ歩く青城生はもう俺たちくらいしかいなくて、少し引きずるような二つの足音が通りに響く。

頻繁にスマホを出し、メールが来てないかチェックする及川。いや、マナーモード切っとけば?そう言ってやると「電車ん中でまたマナーにするのめんどいじゃん」と返ってきた。あっそう。及川はまたポケットからスマホを取り出す。ちらちらチラチラうっぜえ…


「電話すればいいじゃねえか」
「やーだよ。返事ないの気にしてるみたいじゃん」
「気にしてんだろうが!」
「してないしてない。ぜーんぜんしてない」


及川はスマホをポケットにしまった。そしてすぐに口を開く。集演のダンスがいい加減にやばいとか、応援歌をようやく覚えたとか、後輩の女の子に大人気でどうしようとか。

お前は同輩に人気がない現実を冷静に見つめて謙虚になった方がいいと思う、マジで。そう言ってやりたいが及川のマシンガントークに飲まれて口を開く隙がなく、イライラしつつもてきとうに相槌を打つ。そのうち及川は自慢のレパートリーが尽きたのか、俺に話を振ってきた。


「岩ちゃんは?ダンス覚えた?」
「俺ダンスねえつっただろ。サメ持ってるだけ」
「サメ!?似合うー」
「お前何の役だよ」
「村人C」
「Cか。ドンマイ」
「いや別にCだからってAとBに劣ってるわけじゃないよ!?C位置にいる村人なだけだからね!?」
「ハイハイ」


及川はしばらくキャンキャン騒いでいたが、そのうち静かになってペアダンスの相手の女の子が可愛いという話をし始めた。なまえちゃん妬くかなー?って、今度は彼女の話だ。ふと今日の光景が頭に浮かんで、俺は及川の話を遮った。


「お前と彼女の関係ってどうなってんの?まだ彼女なのか?」
「そうだよ?」
「大嫌いだから別れるっつって、日曜家に行ったよな?」
「……そうなんだけどね」
「ほだされたってわけか」
「ほだされたっていうか…うーん…」


別に別れたくないって言われたわけでもないんだけどさ。そもそも別れようって言ってないんだけどさ。及川はそうボソボソ続けた。俺は呆れ顔で及川を見る。及川は気まずそうに目を逸らした。


「……家で待っててって言ったのに、走って会いにきてくれたんだよ」
「それで?」
「いや、今の凄い重要なポイントだったんだけど」
「はあ」
「走ってきてくれたの。あの子が」
「だから?」
「なまえちゃん、走るの嫌いなんだよ」


噛みしめるように及川は言った。だから?とまたつっこんでしまいそうな自分をなんとか抑える。


「それなのにあんなに必死に走ってきてさ、それで、言ったの。嬉しそうに」
「なんて?」
「聞く気なかったからちゃんと覚えてないんだよねえ…」
「ああ?」
「怒んないで怒んないで!おめでとうとかそんな感じだよ!たぶん!」
「おめでとう?」


勝手に眉が寄るのがわかる。いやそれ、おかしいだろ。だって、


「そいつ影山を応援してるんじゃねえのか?」
「そこ。そこだよ」


及川はぶんぶんと頷いた。


「あんなに熱心に飛雄を推してたくせに、こいつは何を言ってんだと思って。テキトーに返事したら、泣き始めたの」
「泣いたあ?お前の返事が酷すぎて?」
「違うっぽいんだよね。なんか、泣きながら…笑ってて」
「ホラーかよ」
「違うから!違うんだよ!なんかこう……」


及川は目を閉じて顔を片手で覆った。うーんと呻く。


「あの顔はちゃんと覚えてるんだけど、どう言っていいかわかんない」
「覚えてんのかよ」
「そりゃ覚えてるよ!だって」


"だって"なんなのか、及川はその先を続けなかった。それどころか、"だって"をなかったことにして話を進めようとしやがる。


「……まあ、うん、嬉しそうな顔だよ。さっき言ったけど。嬉しそうな顔して、嬉しいですって言ったの。俺が勝って嬉しいって。俺意味がわかんなくて、なんで泣いてんのって聞いたんだよ。そしたらわかんないとか言われてさあ。わかんないのに泣かれても困るよね」
「俺もわけわかんねえからもうその話いいわ。で、結局お前とその子のーー」
「待って、もうちょっと聞いて!」


及川がガシッと俺の腕を掴んできたので瞬時に振り払った。……つもりだったが振り払えなかった。畜生、この馬鹿力め。俺はわかったわかったとため息をつく。


「で?」
「……その顔見てたら、やばいなって思えてきて」
「やばいってなんだよ」
「やばいはやばいだよ」
「……お前、俺のこと馬鹿にできないくらいボキャブラリーねえよな?」
「岩ちゃんボキャブラリーなんて言葉知ってたの!成長したねッうげ!痛い!鳩尾は良くない!」


振り払った腕をそのまま鳩尾に叩き込もうとするとぎりぎりのところでよけられた。それでも腹には当てられたはずだ。俺はふんと及川を見下した目で見て(残念ながら見下ろせてはいないが)、で?とまた先を促した。


「うん…言うことちゃんと言わなくちゃって思って。"嫌い"って言った」
「ふうん」
「ふうんって。岩ちゃんもうちょっと興味持ってくれてもいいじゃん」
「あるある、興味あるよ。そんで?」
「……泣かせた」
「それまでも泣いてたんだろ?」
「そうなんだけど」


いつの間にか、及川の声は暗く沈んでいた。それに気づいた俺の眉がピクリと動く。


「傷つけたいって思ってたんだ」
「知ってる」
「凄く憎かった」
「それも聞いた」
「だけど言えなくなっちゃって」
「別れたいって?」
「うん。言えなかった」


駅に着き、改札を通る。駅にはまばらに青城生がいた。いつものこの時間より多い。体育祭準備期間で、遅くまで残る奴が多いからだろう。及川と一緒にホームに立ち、電車を待つ。及川が口を開いたのは、しばらく経ってからだった。


「次の日…火曜日だけど、朝なまえちゃんに会って、そこでもちょっとしたことがあって。……詳しくは言いたくないんだけど」
「じゃあ話に出すなよ」
「ごめん。とにかくそんなこんなで、別れられずに今に至ります。ハイ、終わり」
「ちょっと待て」
「うん?」
「別れられずにじゃねーよ。お前昨日、俺の前であの子に言ったよな。"お付き合い続行"、"俺と付き合ってて"、って。お前が引き伸ばしたんだろ」
「引き伸ばしたっていうか…」
「"好きにならせてみせる"?お前、あの夜自分が何言ったか忘れたのかよ。軽い気持ちで付き合ってられる相手じゃないっつったよな。あの子に泣かされてそう言ったよな」
「泣いてない!ちょっと待って、泣いてないよ!?」
「泣いてたよ。泣いてただろ」


俺は譲らなかった。確かにあのとき、及川の目に涙はなかった。だけど、あの顔は。あの声は。ぎりっと歯を食いしばる。


「お前、自分の状況わかってんのか。次、春高だぞ。春高行くっつっただろうが。よりによってあいつをそばに置いてどうすんだよ。またあの日みたいになったらどうすんだよ。お前、ちゃんとバレーに集中できんのか」


電車がホームに入ってくる。風が吹き抜け、自分の髪に襲われて及川は目を細めた。


「……あの子の嬉しいって言う顔が、本当に嬉しそうで」


電車の轟音にかき消され、及川の声はほとんど聞こえない。あ!?と怒鳴ったが、及川の声の大きさは変わらなかった。


「もう一回見たいとか、……見せて欲しいとか、思っちゃって」


一言一言、胸に刻みつけるように及川は言葉を口にした。視線は斜め下に落ちている。唇のかすかな動きを、俺は目で追った。


「あの子が飛雄を好きなこととか、俺を好きじゃないこととか、そういうことも気にはなるけど、一番大きいのはそこじゃない。あの子が俺に向ける笑顔が、あの子の本心から来るものなのか。そこが気になって、知りたくて、……嘘ついて、今日、呼んで」
「嘘?」
「うん、凄い馬鹿馬鹿しい嘘なんだけど、なまえちゃんは信じたみたい。ちゃんと笑顔で会いに来てくれた」
「なんかすっげえにこにこしてたな。昨日の今日なのに」
「あれ演技」
「演技?」
「俺の指示に従っただけ。本気で俺に笑いかけてたわけじゃないんだよ」


つまり、と俺が呟いたときにちょうどドアが開いた。俺は及川と並んで電車に乗り、反対側のドアに寄りかかる。


「演技であれだけ笑えるってことは、お前に泣きながら見せた笑顔も偽物の可能性が高いってことか?」
「そう思ったんだけど」


及川はいったん言葉を切った。突然鞄に手を突っ込み、ごそごそ漁って何かを取り出す。それは飴だった。コンビニとかスーパーとか、どこにでも売ってるやつ。俺はそれを及川から受け取り、首を傾げる。


「なんだよこれ」
「あげる」
「サンキュ。……で?話は終わりか?」
「終わってない。辞書渡して、そのあと廊下でこれあげたの」
「へえ。喜んだか?」
「うん」


即答だった。俺は飴から目を離して顔を上げ、そこにあった及川の表情の真剣さに驚いた。え、わけわかんねえんだけど?今の話はどういう意味なんだ?


「それまで見せてた笑顔が消えて、固まって、……そのあと凄い嬉しそうに、笑って」
「はあ」
「あの顔だよ。あの顔なんだよ、俺が好きなのは。日曜に見せてくれたのもあの顔だったし、合宿のお土産渡したときもあの顔した」


どの顔だよ、とつっこんだところできっと及川は答えを出せない。俺にはそれがわかったから、悶々としながらも黙っていた。及川の顔は真剣を通り越して厳しいものになっている。


「あの顔も演技なのかな?コントロールして、あの顔ができるのかな?俺を騙そうとしてるのかな?ねえ、どうなの岩ちゃん」
「知らねーよ」


及川の目が久々に俺を捉え、唇がむっと尖った。いや、知るわけねえだろ。逆になんで知ってると思ったんだよ。それを問う代わりに、俺はさっきからずっと胸の中にあった疑問を吐き出す。


「お前さ、なんだかんだ言ってその子のこと好きなんだろ」
「いや、それはない」
「さっき好きって言ったべや」
「顔ね?顔は好きだよ、可愛いし」
「あのな…」
「忘れてないから。あの子が俺に言ったことも、そのとき俺が思ったことも」


俺の目を見て、及川は言った。ちゃんと目を見て言った。今、及川が言ったことは……及川の本音だ。嘘でも誤魔化しでもない。

俺は頷いた。頷くしかなかった。これだけ長く話を聞いても、二人の関係がどういうものなのかちっともわからなかった。きっと及川も、あの子も、誰も理解できてない。

理解するのを避けてんじゃねえか?

ふと沸いた考えを舌に乗せようとした。だが、こいつと過ごした長年の経験が警告を発する。これ以上踏み込むなと。こいつの表情をよく見ろと。


「及川」
「ん?」
「………いや、なんでもない」
「えー何さー」


俺は口を閉ざした。及川の目が不満そうに尖る。とぼけた顔。アホみたいな面。きっと、目を背けてることにさえ気づいてない。再開されたくだらない雑談の途中で何度もスマホを覗く及川を横目で見ながら、俺は固く唇を結んだ。


14.11.08