▲30▽

「まったく、練習熱心だねえみんな。体育祭は大丈夫?」
「お前がな」


熱気と汗のにおいでとても居心地が悪い部室で、及川さんが笑いながら言った。ツッコミはもちろん岩泉さんだ。今週は体育祭準備があるから部活には参加しなくてもいいことになってるんだけど、時間が遅くなるにつれて自主練のためにぞくぞくと人が集まって、結局いつもと変わらず部室は大にぎわいだ。体育館のモップがけもあっという間に終わった。

二日前は泣きに泣いていた人たちが、今ではけろっと笑っていることには驚いたし、ほっとしてもいた。思い出すのは中学最後の大会で、あの敗北は当日もその次の日もその一ヶ月後も尾を引く後味の悪いものだった。敗北は敗北なのに、この違いはなんだろう。考えようとしたけど、眠くて頭が回らなかった。

着替えながらあくびをすると隣の金田一に「寝るなよ」と注意された。さすがに着替えながらは寝ない、と言いたいところだが前例があるので言い返せない。わかってるよと頷いた途端にまたあくびが出て、金田一は信用ならないという目で俺を見た。


「あ、ねえ、国見ちゃん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「……なんですか」
「なまえちゃんって、思ってることを隠せるタイプじゃないよね?」
「え?」
「ポーカーフェイスっていうか」


ポーカーフェイス…ってなんだっけ…と一瞬思ってしまった俺はたぶん相当眠いんだと思う。ポーカーフェイスをポーカーフェイスとして認識してからも、頭の中でみょうじと結びつかず返事ができない。つまりそれが答えだと気づいたときには、及川さんは目の前から消えていた。あれ、と辺りを見回すがどこにもいない。


「金田一、及川さんどこ行った?」
「電話かけるって出て行ったよ」
「誰に?」
「知らねえよ」
「質問しといて答え聞かずにどっか行くってどうなの」
「いや、お前答えてたし」
「え。なんて」
「首傾げて、どうですかねって言ってた」
「…………いやそれ答えじゃないんだけど」


及川さんはそれをどう解釈したんだ。誰に電話をかけに行ったんだ。眠気のもやが徐々に晴れていき、俺はようやく目を瞬く。なんか前にも同じようなことがあったような。俺はまた余計な誤解をさせたんじゃ。あー…と苦い顔をしたとき、ちょうど及川さんが戻って来た。


「はい早く出て出て!校門閉まっちゃうよ!」


すでに制服に身を包んだ及川さんは、ドンドンと拳で部室の扉を叩く。部員たちはそれぞれのタイミングでそれぞれの長さの返事をし、着替えた人からさっさと部室を出て行った。まだ荷物をまとめてなかった俺は金田一に横から急かされ、及川さんに話しかける余裕がない。

部室を出るときになってようやく及川さんに歩み寄り、「あの、さっきの」と口を開いた。しかし俺がその先を言葉にする前に及川さんはにっこり笑い、ぽん、と俺の肩に手を置いた。


「大丈夫、自分で確かめることにしたから」
「……何を?」
「なまえちゃんの本性」


声を落とし、俺の耳に口を近づけて及川さんは言った。意味がわからず、俺はしばらく言葉を失う。


「本性って、」
「どれくらい上手に嘘がつけるのか。どれくらい上手に表情を操れるのか。どれくらい上手に、……俺に媚びられるのか、かな」


今度こそ俺は絶句した。え、これどういう状況?なんでこの人、そんなことしようとしてるんだ?そもそもみょうじと及川さんって今どういう関係なんだ?

そういえば俺は、みょうじが及川さんの前でどう振舞っているのか知らない。"本性"、つまり自然体でいるってことは……まあ、ないと思うけど。あ、でも前にこの人言ったよな、みょうじはわかりやすいって。教室でのみょうじは笑うばっかりで何考えてるか全然わかんないから、みょうじをわかりやすいと見なすってことはみょうじが及川さんの前で自分を偽ってないってことだ。いやでもそんなのありえるか?"よく思われたいから自分を偽ってる"って今日聞いたばかりだ。認めてないけどたぶんみょうじは及川さんが好きだし、去年と同じように最大限自分を偽って及川さんに好かれようとするはずで……

…………首突っ込むの、やめよう。

その結論にたどり着き、俺は及川さんに「頑張ってください」と真心込めた(つもりの)声援を送って部室を出た。今日の俺はどうも血迷っている。当事者から話を聞くのはともかく、当事者に話をするとろくなことにならない。寝ぼけてアイツのことを口走り、及川さんに余計な誤解をさせたのがいい例だ。

金田一と一緒に校門まで歩くと、そこでうつむいて立っているみょうじを見つけてしまった。黙って通り過ぎようとしたのに、みょうじはタイミングよく顔を上げて目を見開き、小走りで近寄ってくる。「国見」と俺を呼ぶ声は控えめだった。


「あの、今日は、色々ごめんね」
「何が」
「えっと…聞かれたわけでもないのに、自分のことばっかり話しちゃって」
「そんな真剣に聞いてなかったし、もう忘れたから」
「そっか」


みょうじは笑った。今の話のどこに笑う要素があった?冷たくあしらわれて、むしろ顔を歪めてもいいくらいなのに。まだ笑うのか、あれだけ言っても笑うのか。みょうじは俺への態度を変える気はないんだと、悟らざるを得なかった。別にいい。俺だって、こいつに心を開く気はないんだから。


「……誰か待ってんの」
「うん」
「及川さん?」
「うん。さっき電話来て、待っててって」


みょうじは笑みを消しながら言った。こういうときこそ笑えばいいのに。嬉しいくせに。不自然に目を逸らしてそれを告げるみょうじが、感情を隠すのが下手くそなことなんてわかりきってる。及川さんだってわかってるはずだ。みょうじがやってるのは"笑う"というただそれだけの動作。笑って、誤魔化すだけ。

怒ってないのに怒ってるふりをしたり、好きでもないのに媚びてみたり。そんな、それこそ及川さんみたいなこと、みょうじには絶対できっこない。


「あの、国見に聞きたいことがあって」


みょうじの視線が金田一に走った。金田一は途端にそわそわし始め、「俺、いない方がいい?」と緊張したように言う。そういえばこいつ女子に弱かったなと思い出して、ぷっと軽く笑った。みょうじは首を振り、俺と金田一を交互に見た。


「ううん、大丈夫。……大丈夫かは、国見次第だけど」
「俺?」
「うん。国見、中学のときに私に言ったじゃん、飛雄が嫌いだって」
「ああ」


笑いが一瞬にして消えた。空気がずんと重くなった。


「あれ、今でもそう?今でも飛雄が嫌い?」


みょうじはもう、金田一を気にしていなかった。俺だけをまっすぐに見上げ、不安げに瞳を揺らしている。俺は目を逸らしたかったけど、横から金田一の視線も感じていたせいでそれができなかった。俺次第って、こういうことか。俺次第じゃねーよ、どう考えても金田一はいない方がいいだろ。みょうじの気の利かなさに苛立つと同時に、金田一の目さえなければ「嫌いじゃない」と素直に答えてしまいそうな自分に驚いていた。


「……当たり前だろ」
「一回嫌いになったら、もう好きになることはありえない?」


俺はみょうじの意図に気づき、答えに詰まった。みょうじは及川さんに嫌われてる自分と、俺に嫌われてる影山を重ねてるんだ。そして、自分が及川さんに好かれる可能性はないかと聞いている。知るか。知らねーよそんなの。


「……俺に聞くなよ。俺たちの関係と、みょうじたちの関係は違う」
「私があの人にしたことと、飛雄が国見にしたことって同じじゃないかな」
「でも俺は及川さんじゃない」


はっきりとそう言うとみょうじは押し黙った。何か言おうと開かれた唇が、言葉を見つけないまま閉じてしまう。それを何度か繰り返して、とうとう重いため息をついた。


「そうだね、ごめん」
「及川さんに好かれたいんだ?」
「違う」
「なんでバレバレの嘘つくの?」
「嘘じゃない」


みょうじは逃げるように俺から目を逸らし、金田一を見てうっすらと笑った。ごめんね、待たせちゃってと眉を下げて言う。次の瞬間、みょうじの顔が凍りついた。"なんだ?"が"まさか"に変わるのと同時に、後ろから及川さんの声がした。


「あーあ酷いななまえちゃん。及川さんに好かれたくないって?」


今までに見たことがないくらい、みょうじは恐怖に震えていた。いえ、と呟く声はほとんど聞こえない。俺と金田一の間にずいと割り入ってみょうじの前に立った及川さんは、にっこりと笑ってみょうじを見下ろしていた。


「ほんとに俺のことどうでもいいんだね。あ、怒ってないよ?別に嘘つかれてたわけじゃないし。前々からちゃんと、好きじゃないって言ってくれてたもんね。それでもいいから付き合ってって言ったのは俺だ。酷いなあとは思うけど、なまえちゃんは悪くないよ。ぜーんぜん!」


すっと後ろに下がると、誰かにぶつかった。やべ、とその人を見るとなんと岩泉さんで、謝ろうと開きかけた口が止まる。岩泉さんは強面の顔をさらに厳しいものにしていた。たぶん、俺がぶつかったことに気づいてない。

いつの間にか校門前はがらんとしていた。及川さんとみょうじを中心に発せられる緊張感が、ぴりぴりと俺をむしばむ。みょうじの顔には、"どうしていいかわからない"とはっきり書いてあった。もういいんじゃないですか、と言おうか迷って当然のように言わない選択肢を取ったとき、及川さんが畳み掛けるように爆弾発言を放った。


「俺に好かれなくてもいいって思うのは当然だよね、なまえちゃんの本命は俺じゃないんだもん。ね、国見ちゃん?」


思わず顔を手で覆いたくなった。口を閉ざしたことをここまで後悔するのははじめてだ。及川さん、アンタ余計すぎるよ。それ言わなくても良かっただろ。俺はごくりと唾を飲む。さっきまで及川さんだけを見ていたみょうじの目が、見開かれて俺を捉えた。

言ったの?とその口が動く。声は出てないのにそれが正確に伝わって、俺は首を横に振る。みょうじの目が泣きそうに細められた。信じてない。そりゃ信じられないよな。


「違うんです、アイツは本命とかじゃなくて、」
「いいよその言い訳は」
「でも本当に違うんです。好きじゃないから、嫌いだからこそ私は先輩と」
「ちょっと待って?」


及川さんの声のトーンが変わった。今までより、いつもより低く、そして恐ろしい。俺と金田一は身動きできず、みょうじは口をつぐみ、岩泉さんの表情は相変わらず厳しい。


「なまえちゃんが俺と付き合ってるのって、あいつのためなの?」


みょうじは答えを出せなかった。沈黙が重い、重すぎる。この状況はやばいと焦る自分がいる一方で、もうどうにでもなれめんどくさいと放り出す自分がいるのも事実だった。たぶん今の俺はげっそりした顔をしてる。俺が蒔いた種だけど。俺のせいで、こんなややこしい誤解が生まれてるわけだけど。


「あの」


さっきの後悔もあって、今度は良心が勝った。しかし誤解を解こうと口を開き切る前に、みょうじがこくりと頷いてしまった。俺の「あの」は誰の耳にも届かず、心の中で呻きながらやっぱりみょうじは馬鹿で不器用でどうしようもないやつだと再認識する。肯定することないだろ、嘘つけばいいだろ。そっちの方が円満に付き合っていけるってわかんないのか?


「……決めた」


及川さんが呟いた。みょうじの視線がおそるおそる及川さんを求める。及川さんは相変わらず笑っていた。みょうじ以外眼中に無い様子で、満面の笑みを顔に貼り付けている。


「なまえちゃんが俺を好きになるまで、お付き合い続行。それでいいよね?俺と付き合ってることで、なまえちゃんにも利があるみたいだし。なまえちゃんは今まで通り、あいつに集中してくれてていいよ。あ、集中するつもりでいてくれればいいよって言うべきかな。言ってることわかる?」
「……わかりません」
「最初の日に言ったのと同じだよ」


及川さんの声は明るかった。みょうじの目が泳ぐ。岩泉さんが低い声で「国見、金田一」と言うのと、及川さんが次の言葉を口にするのが同時だった。


「好きにならせてみせる、って言ってるの。なまえちゃんが心から、俺に好かれたいって思うようにしてみせる。だからそれまで俺と付き合ってて」


ぐいと服の袖を引かれ、「帰るぞ」の一言を遠くに聞いた。それは目の前の岩泉さんが発した言葉だったのに、なぜか遠くぼんやりと聞こえたんだ。岩泉さんは金田一の袖も掴んでいて、ぐいぐい引っ張って俺たちを二人から引き離した。すれ違いざまに及川さんの顔と、みょうじの顔を素早く見る。対照的な表情をしていた。二人とも互いの目に互いしか映してない。俺たちが離れていくことに、ちっとも気づいちゃいない。


「私が先輩を好きになったら、…どうするんですか」
「さあ。質問ばっかしてないでちょっとは自分で考えたら?」
「……先輩は私のことどう思ってるんですか」
「それはちゃんと言ったじゃん、この前。変わってないよ」


声が遠ざかっていく。前を向いている俺には、二人の顔はもう見えない。だけど、みょうじは泣いてるんじゃないかと思った。あんまり心が強くないから。及川さんに嫌われてる、と打ち明けながら、泣きそうになってたようなやつだから。


14.10.30