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一人きりの静かな家でリビングのソファに座り、テレビを点けてチャンネルを回した。少しでも気を抜くと、昨日の記憶が蘇る。傾いていく思考をため息をついて受け入れ、チャンネルを回す手を一旦止めた。

私はあの人にとって"何"なのか。それがわからないまま、一日が経ってしまった。昨日、私に向かってはっきり「嫌い」と告げたあの人は、なぜかその先を続けなかったのだ。確実に用意してあったであろう別れ文句に、なぜか、出番を与えなかった。

帰るよ、と、一言。それが、あのあと及川が発した唯一の言葉だった。それだけ言って私の横を通り過ぎ、私がついて来るか確認することもなくさっさと歩き出す。私は動く気力もなかったが、「帰るよ」を無視できずに後ろに続いた。一緒に歩いていると言えるか怪しい距離を保ち、目元を拭いながら足を動かす。それから十分間、及川はずっと私の前にいた。いつ視線を上げても、そこには及川の背中があった。

家の前を通り過ぎると、及川は歩くスピードを速めた。あっという間に遠ざかって行く背中を見て、あの人は私のペースに合わせてくれていたのだと気づく。振り向きも口を開きもしなかったけど、それでも、ここまで送ってくれた。

先輩、と、声をかける勇気はなかった。お礼を言わなくてはと思うのに、声を振り搾る力がなかった。声をかけてしまったら、せっかくの沈黙が破られる。聞きたくない言葉を聞くことになるかもしれない。私はそれを恐れたのだ。それを聞きたくなかったのだ。

私は及川と別れたくないのだ。

気づかざるをえなかった。それに気づいてからずっと、ぐちゃぐちゃに絡まった感情が胸に巣食っている。別れたくない、のは、どうしてだろう。"利用価値のある人間を手放したくないから"、そんなこじつけで納得してしまえるほど、私は自分の感情に疎くない。

わかっていた、自分が及川をどう思っているのか。だけど認めたくない。認めてはならない。認めてしまったら、本当に、本当に手放せなくなってしまうから。手放すのが辛くなってしまうから。

もうとっくにそうでしょ?

そう囁きかける自分がいることが、嫌で嫌で仕方ない。正論はいらない、私が欲しいのは正論じゃない。何が正しいか、どうすることが正しいか、わかっていても意味がないのだから。

気を取り直してリモコンを操作し、目当てのチャンネルに辿り着く。おばんドゥースだ。今日のニュースは、ある条約のこと、ある小学校のこと、あるイベントのこと。そして、


『昨日に引き続き、バレーボールのインターハイ宮城県予選の結果をお知らせします。本日は仙台市体育館にて、準決勝と決勝が行われました。準決勝では青葉城西高校とーーーー』


アナウンサーから仙台市体育館正面入り口、正面入り口からコートに映像が切り替わる。私は食い入るように画面を見つめた。呼吸が浅く、手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。

画面に及川が映る。緊張しているようだった。真剣な目。……追い詰められたような、目。ボールが画面の中を飛ぶ。唐突にテロップが表示され、そこに書かれていることとまったく同じ文句をアナウンサーが読み上げた。


『第1セット25-22、第2セット25-23で、優勝は白鳥沢学』


音もなく画面が真っ暗になった。自分の指がリモコンの赤くて丸いボタンに乗っていることに気づくのに、しばらく時間がかかった。



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「お前結局、泣かなかったな。中学んときはボロ泣きしてたくせに」
「それは岩ちゃんもでしょー」
「俺はボロ泣きじゃねえよ」
「いーやあれはボロ泣きだったね」


試合からの帰り道、からかうような口調で及川は言った。岩泉の視線が隣の及川を捉えているのに対し、及川は前を見つめていた。ふらふらと危なっかしい足取り。時折跳ねるエナメルバッグ。ピエロのようだと岩泉は思った。その横顔に涙は見えないし、口元は明るく笑っている。それなのに、涙のマークと真っ赤な口紅が幻想として岩泉の脳裏に浮かぶのだ。岩泉の奥歯がぎりっと鳴った。


「泣いてる暇、ないじゃん」


見計らったように及川が言った。前を向くその視線の奥に、本当に"前"が見えているのか。及川の頭の中を透かして見たとき、そこにあるのは壁ではないか。岩泉の表情が歪んでいく。後輩たちの前でも、同輩たちの前でも流さなかった涙が、今や岩泉の目を薄っすらと浸していた。赤く充血していくそれをちらりと見やり、及川はまた前を向く。

俺は泣かない。俺は泣かないよ、絶対に。

呟いた声はあっという間に宙に消え、歩き慣れた田舎道は沈黙で二人を包んだ。


14.10.17