▲26▽

「なまえ、もうやめなさい。近所迷惑だから」
「……はーい」


渋々鍵盤から指を離した。日はとっくに沈んだので、すでにカーテンを閉めている。あれこれ片付けてピアノを離れると、母がどこか心配そうな顔で私を見ていた。怪しまれない程度に目を逸らし、父がノートパソコンをいじるテーブルにつく。

私が飛雄の試合を見に行かないことを、この両親は喧嘩の延長だと思っているらしい。別に喧嘩してるわけじゃないと訂正したい気持ちはあったが、"喧嘩"はどうせ今週のうちに終わるのだからと口を閉ざした。

烏野と青城の試合は午前中には終わったはずだが、試合結果の報告は誰からも来ていない。飛雄がそれを寄越さないのは昨日と変わらないし、及川が送ってくれるとははなから思っていない。国見に関しては昨日の予告通りだ。

気を抜くと試合のことが頭をよぎって冷や汗が出る始末で、それが嫌でひたすらピアノを弾いていた。結果として、今日の練習時間はいつもより三時間ほど長くなった。

スキニーのポケットに押し込んだスマホを出して、画面を開く。やはり連絡は入っていない。当たり前だ、そもそもくれる人がいないのだから。

飛雄が結果を報告しないのは昨日どころか毎年のことで、その理由も私は知っている。バレーに向き合う飛雄の目に、私は映っていないからだ。私の応援はあくまで飛雄の外に立っての行為で、バレーに関して飛雄から私に何らかの働きかけをすることはない。"応援してくれたから結果を報告する"なんて考え方も、飛雄の中にはないのだ。

胸に詰め込まれた鉛の数が、時間とともに増えていく。いっそ結果を検索してしまえばいいんじゃという本日三回目の思いつきを早々に却下して、べたっとテーブルに頬をつけた。どうせ明日学校に行けば、誰かしらの口から聞けるんだから。そう自分に言い聞かせる。その姿勢のままスマホを操作し、国見とのトーク画面を出した。

及川の写真を開く。かっこいいなあ、と胸の奥が呟いた。かっこいいし、綺麗な顔だ。整った顔だ。はじめはそれしか思っていなかった。"かっこよかったから"、付き合った。それだけだった。それだけで良かった。

笑顔が眩しいなあなんて、思うようにならなくて良かったのに。

時間が経って、画面が暗くなる。暗い画面の中でも、及川の笑顔は輝いていた。この笑顔が好きだった。こんな風に笑える及川が好きだった。及川はいつも、"笑って"いる。私に笑顔を見せてくれる。でもそれは、私が好きな笑みじゃないのだ。私が眩しく思う笑みじゃないのだ。私が隣にいると、及川は心から笑うことができないのだ。

ついに画面は真っ暗になった。もう一度写真を開くことはせず、意味もなくその黒い画面を見つめる。息を吐くと、テーブルの表面が白く曇った。父の目がちらりと私を捉え、私も父を見つめ返した。

そのときだった。短い着信音を鳴らし、手の中のスマホが震えた。私の眼球は反射的に画面へと引き戻される。思わず息をのんだ。メールの受信を知らせる通知。そこに表示されている名前は、『及川徹』だった。


差出人:及川徹
件名:
――――――――――――――――
試合二つとも勝ったよ
これからそっち行くんだけど話せる?


頭がかっと熱くなった。震える指で"返信"を押す。半開きの唇から漏れる息が熱かった。


『大丈夫です。今どこですか』

『北川駅。家で待ってて』


「私ちょっと、出かけてくる」


勢いよく立ち上がると、椅子がガタンと音を立てた。両親が同時に私を見る。どこ行くのと問う母の声を背中で受けながら、私は玄関に急いだ。早口でコンビニとうそぶき、スニーカーに足を突っ込む。紐がほどけていたので焦りながら結んだ。


「どこのコンビニ?」
「そこの」


そこってどこよ、の質問を無視して家を飛び出した。静かな夜の田舎町を、不規則な足音を立てて駆けていく。一歩踏み出すごとに痣のできたももが痛むが、それでも足は止まらない。なまえちゃん走るの嫌いでしょ、と耳元で及川が笑った。そうです、走るのは嫌いです。でも先輩のことになるといつも、走らずにはいられないんです。


「先輩!」


五分も走ると、歩道の奥の奥に人影が見えた。その瞬間、それが及川かわかりもしないのに叫んでいた。近づく。近づく。その人は歩いていた。私の呼びかけに応じてわずかに首を傾げたのがわかった。声は返ってこない。

確実に及川であるとわかるところまで近づいて、私は目を凝らした。及川の表情を知りたかった、望む表情が欲しかった。

しかしそこに笑みはなかった。当たり前だ。試合が終わってから何時間も経っているだろうし、何より彼は今、私の元に向かっているのだ。笑えるわけがない。それでも、笑っていて欲しかった。あの笑顔が見たかった。きっと私は夢見ていたのだ。笑顔で勝利の報告をする及川を欲して、起こるわけがない奇跡を求めていたのだ。

及川の目の前まで来て立ち止まる。いつもはほんのりとまとっている制汗剤の香りが、今は全くしなかった。代わりに汗の匂いが鼻をかすめる。それがどうしようもなく感情を煽った。膨れ上がる熱に押されて、荒い呼吸を整えることもせずに私は口を開いた。


「おめでとうございます」
「……ん。ありがと」


及川はあっさりと返事をした。笑ってはいなかった。もう、猫を被ることをやめたのだ。及川の本性は、おめでとうに笑顔を返すことができないほど私を嫌っているのだ。そのことが胸を貫いて、じくじくと痛みを発した。それなのになぜか笑みが零れて、同時に目が熱くなった。呼吸も頭の中もぐっちゃぐちゃだった。


「なまえちゃん?」


暗いから、うつむいたからといって誤魔化せないほどに涙が溢れていた。及川が戸惑うのも当然だ、私ですら戸惑っている。混乱のままに言葉を紡いだ。


「先輩が勝ったの、嬉しいです。私には関係ないことだけど、嬉しいです」
「……嘘つけ」
「嘘じゃないです。だって、勝ったんだから。先輩、勝って、嬉しかったでしょう?」
「当たり前じゃん」
「それが私も、嬉しいです。ほんとに嬉しいです」


私の前では見せなくったって、チームの前では見せたはずなのだ。昨日国見のカメラに向けたのと同じ、満面の笑みを、輝くような笑みを。嬉しそうに、幸せそうに笑って、及川は勝利を喜んだはずだ。

私の前で笑わなくったって、構わない。どうせ私はいなくなるのだ、及川の前から。私はきっと、そのためにここまで走ってきた。終わるために、ここに来た。

怪訝そうな表情で、及川は私を見下ろす。


「……なんで泣いてるの?」
「わかんないです」
「飛雄が負けたのが悲しいから?」
「飛雄は今、関係ないです。今私の前にいるのは、先輩ですから」
「……何それ」


及川の顔が歪んだ。失敗したかな。でももう、いいや。もう勝負は終わったんだから。先輩は勝ったんだから。

これでもう、私の言葉で先輩を傷つけることはない……?


「あのさ、なまえちゃん」
「はい」


涙を含んで、声は震えた。私は目を瞬いて及川を見上げ、その先に続く言葉を待つ。別れよう。私の待っていた言葉は、それだった。だけど。


「俺、なまえちゃんが嫌いなんだよね」


目に張った膜を落とそうとして続けていた瞬きが、一瞬にして止められた。私は目を見開き、真っ直ぐな及川の視線に貫かれる。半開きの唇から吐息が漏れた。それが嗚咽混じりでないことに安堵しつつ、私は意識がゆっくりと濁っていくのに任せていた。

生ぬるい液体が頬を伝っているのを感じる。透明なこれにもしも色があったなら、今この瞬間、寒々しい色に変わったはずだ。涙が透明で良かったと思った。嫌いと告げられて、とっくに知っていた事実を告げられて、悲しみの涙を晒すような自分は見せたくない。


「はい」


その二文字が何を意味しているのか、自分でもわからないままに口が動いていた。頷いたのだろうか。そうだとしたら、何に頷いたのだろうか。私は何を受け止めたのだろう。私は、今、何をーーーー

ずっと、ずっと張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れたような気がした。直接言われるとは思わなかった、甘かった。甘えていた。甘く見ていた。直接嫌いと言われることが、この人の口が私に向かって「嫌い」と動くことが、こんなに、こんなに苦しいことだなんて。私は自分がしたことの重さをわかっていなかった。それがどれほどの重みを持って自分に返ってくるか、欠片も理解していなかったのだ。


「なまえちゃん」


視界が曇って、及川の表情がわからない。声からも感情が読み取れない。そこにあるのは言葉だけだった。私の名前だけだった。私の名前を呼んでくれた。きっと及川がそれを口にするのは、一生のうちで、これが最後だ。

私は終わる瞬間を待ち望んでいるつもりだった。早く楽にして欲しいと思っていたはずだった。それなのに、今、この胸にある感情は。口を突いて飛び出そうな思いは。

涙の奥に、ゆっくりと口を開く及川が見えた。


14.10.12