▲24▽


「あれっ、なまえじゃないか!久しぶり」


飛雄の家の前でしゃがみ込み、うつむいてうとうとしていた私は、突然声をかけられてびくっと体を震わせた。顔を上げると、大きな影が覆いかぶさるように私を見下ろしていた。


「おじさん!久しぶり」


慌てて立ち上がると、滞っていた血が一気に足に流れ込むような感じがした。気持ちの悪いそれと立ちくらみのせいでふらふらして、飛雄の家の塀に手をつく。大丈夫?と手を伸ばしかけたこの人は、飛雄のお父さんだ。私に届く直前でその手を引き、きょとんとする私に向かって真面目な顔で言った。


「いやあ、ここでなまえの肩に手を置いたりしたら、僕の身と心が危ないと思って」
「えっなんで?」
「なまえももう高校生だし。触らないでよおっさん!とか言うんだろ?」
「なにそれ。言わないよ」


おじさんは途中からにやにやし始めたので、私も釣られて笑みを浮かべた。この人は飛雄の父親とは思えないくらいに明るく気さくな人で、私はこの人への話し方を敬語に切りかえるタイミングを完全に逃していた。一応中学に上がるときに試みてはみたのだが、「どうしたの!?反抗期!?それとも思春期!?」「とうとうそんな年頃かあ…」などと騒がれることに嫌気がさして断念し、結局そのままだ。


「入らないのかい?」
「うん。飛雄を待ってるの」
「中で待てばいいのに。とうとう仲直りか」
「仲直り?」
「喧嘩したんだろう?」
「…飛雄がそう言ってた?」
「いいや。だけど、全く互いの家に行かなくなったから、きっと派手な喧嘩でもしたんだろうって四人で」
「四人で……」


親同士で頻繁にコミュニケーションを取っているのはわかっていたが、話題にされるのは恥ずかしい。しかも派手な喧嘩って。私の母と飛雄のお父さんを中心に勝手な妄想を繰り広げたんだろうなと思うとため息が出た。


「飛雄はぼーっとしたところがあるから、なまえをやきもきさせるんだろうな。ま、ほどよいところで許してやってくれ」
「……飛雄は悪くないよ」
「そうか。飛雄も飛雄で、なまえは悪くないと言いそうだな。ほら、さすがにもう一ヶ月になるだろう?飛雄がなまえの家に行くのを拒むなんてはじめてだったし、なまえもなまえで来ないし、一応心配してるんだ」
「うん…ごめんなさい」
「いや、僕に謝ることはないさ。それに今飛雄を待っているということは、仲直りするつもりなんだろう?」
「……うん」


この人に嘘をつくのは心苦しくて、視線を避けるようにうつむいた。そのあともう一度、中に入ればいいのにと誘われたが、私はそれを断った。私の予想では、あと十分もしないうちに飛雄が帰宅するはずなのだ。そう伝えるとおじさんは苦笑いを零し、じゃあ気をつけてと言って中に入った。

再び塀に寄りかかり、飛雄を待った。向かいの家に住んでいるのだから、自分の部屋で外を見張って、飛雄が帰ってきたら窓から声をかければいい。そっちの方が私にとって楽なのはわかりきっていたが、私はこうして飛雄の家の前で飛雄を待っている。そうしていたい気分だった。何か用事があったらチャイムを鳴らし、家に入れてもらって飛雄の部屋に向かうのが常だったから、こんな風に待つのははじめてだ。

小さく足音が聞こえて、私はそっちに顔を向けた。暗くてよく見えないが、きっと飛雄だろう。足音が飛雄のものだった。一歩一歩踏みしめるような、それでいてテンポの速い、私には到底真似できない足音。変わってない。

私は飛雄が歩いてくる方に一歩踏み出した。どんどん距離が縮まる。私を認識してぎょっとする飛雄に、久しぶり、と手を上げた。


「おう」
「明日試合でしょ?応援に来た」
「サンキュ」


元気?とか、そんな言葉は必要ない。飛雄と最後に顔を合わせてから、たった二週間しか経っていないのだ。久しぶりだという感覚はあったが、元気かと他人行儀な言葉をかけるような関係ではない。一呼吸置き、すぐに本題に入る。


「頑張ってね。私、今回は見に行かないんだけど」


それを口にしたとき、冷や汗が額に滲んだ。見に行けない、か、見に行かない、か。どう伝えるべきか頭を悩ませる私の中で、そこが最大の論点だった。行けないのも真実、行かないのも真実。迷いに迷って、結局「行かない」の方を取った。及川を言い訳にしたくなかった。飛雄に卑怯な誤魔化しをしたくなかった。行かないのは、私の意思だ。

飛雄が反応するまでの数秒間が、酷く長く感じられた。まっすぐに見つめてくる瞳が、私の内部を見透かしているように感じる。今は黒に見えるそれが光の下では綺麗な群青色に見えることを、私は知っていた。ごくりと唾を飲む。


「そうか」


飛雄の口が、とても短い三文字を私に刻んだ。飛雄は普通の顔をしていた。普通の声をしていた。当たり前のことを当たり前に口にしたという様子で、固まっている私に向かってほんの少し首を傾げた。


「もしかして、俺が気にすると思ってんのか?」
「……思ってない。思ってなかったけど、ちょっと、…揺らいだ」


息を吐き出すと、力んでいた肩から力が抜けた。緊張していたのだと、今更自覚する。そんな私を見て飛雄は顔をしかめ、口を尖らせて喋り出した。


「その場にいるだけが応援じゃねえだろ。直接見ないと応援したことになんねーなら、俺、なまえのコンクール毎回応援できてねえし」


怒っているような、拗ねているような、呆れているような、そんな声だった。うんと頷きながら、ピアノのコンクールとバレーの大会はちょっと違うんだけどなあと思う。私の出るピアノコンクールは地区予選から観客に人数制限があって、私の両親で私に与えられた枠が埋まってしまうのだ。だから飛雄は、行かないのではなく、行けない。それに対して私は、行かない。大きな違いだと思う。だけど、それを口にする暇を飛雄は与えてくれなかった。


「なまえはわざわざ言いに来てくれたけど、来なくたってなまえが俺の応援してるのはわかってた」
「……烏野と青城、当たるみたいだけど」
「そうだな。でもお前、どっちも応援するだろ?」


あまりにもあっさりと言われて、私は言葉を失った。穴があくほど飛雄を見つめる。


「なまえ不器用だし、わりきってどっちかの応援だけするなんて無理だろ」
「私一応、青城生だよ?」
「で?俺の応援しないでいられんのか?」
「それは…………無理だけどさあ」
「ほらな」


不敵に笑う飛雄に、頬の筋肉がひくひくした。笑っていいのかわからない。飛雄の言うことはすべて図星で、驚きから生じた戸惑いで頭がいっぱいだった。帰るぞと唐突に足を踏み出した飛雄にぶつかりそうになって、慌てて横によける。私が振り向いて隣に並ぶまで、飛雄はそれ以上進まずに待っていてくれた。特に意図することなく、二人で同時に一歩を踏み出す。久しぶりに、隣を歩く。飛雄がふいに口を開いた。


「それに俺、なまえの応援があろうとなかろうと勝つし」
「…そうですよね」


ずーんと背後に効果音でもつきそうな気分だ。飛雄があまりにもあっさりしているから、難しく考えていたのが馬鹿らしく思えてきた。肩を落としたとき、「あ」と飛雄がまた声を上げた。


「そういえば」
「何?」
「及川さんと付き合ってること、俺に隠してたのか?」


突然の問いに、ぎくりと体が強張った。しばらくためらっていたが、結局正直に答える。


「ごめん、言い辛くて」
「そっか。俺、なまえが及川さんと付き合ってるって、及川さんに聞いたんだ」
「みたいだね」
「そんとき及川さんに……ん?これ言っていいのか?」
「いいよ」
「いや、ダメな気がする」
「いいって。教えて」
「ダメだ」
「なんで」
「男の約束」
「……はあ?」


男の約束をするほどあなたたちは仲がいいんですかとつっこみたくなったが、飛雄は単純だから及川がそういえば律儀にそれを守るだろう。漫画にでも出てきそうなその言葉に、目をきらきらさせるところまで想像できる。


「詳しくは言えねえけど、俺がなまえの家に行かなくなったの、なまえが嫌いだからとかじゃないからな」
「……わかってるよ、そんなの」
「これからも行かないけど、なまえのことはちゃんと好きだ」


飛雄は首を回して私を見た。心配そうな目をしていた。思わず手を伸ばして、前髪のかかった額をぺちっと叩く。飛雄はのけぞり、何すんだと怖い顔をした。もちろんちっとも怖くない。私は大きく息を吸い込んだ。


「困らせて、ごめんね!」
「は!?謝るなら叩くな!」
「私も飛雄が好きだよ!」
「知ってるわボゲェ!」


あと数日で元に戻れるからね、とは言えなかった。さっき飛雄が言いかけたのは、きっと、飛雄が私と距離を置いている理由だ。及川が、飛雄に何か言ったのだろう。近づくな、とか、そんなことを。私と及川が別れてしまえばその約束を守る意味もなくなるわけで、私たちの生活は元に戻る。

しかしそれを今言ってしまえば、飛雄は血相を変えて私に詰め寄るだろう。どういうことだ?別れるのか?なんでだ?何かされたのか?ーーーー飛雄ならそう言いかねない。何も大会前日に、そんな不必要な心配をさせたくはない。

私と飛雄はしばらく意味のない怒鳴り合いを続けていたが、「うるさいよ、飛雄」「うるさいのはなまえだろ」のやりとりを機に二人して押し黙った。ちょうど家の前に着き、足を止める。


「一つ、聞きたいんだけど」
「どうぞ」
「及川さんのこと、好きか?」


私は無言で飛雄に向かい合い、真正面からその顔を見上げた。月明かりの影になって、表情はよくわからない。だが、きっと真剣な顔をしているのだろう。この質問をされることは私の予想の範疇だった。だから、答えを用意してきた。


「好きだよ、もちろん」


好きだから付き合ってるんだよ。そう続けると、飛雄は一言、「そうか」と言った。こんなやりとりを去年も交わした。同じことを聞かれ、同じことを返した。私は、こう言ってしまえば飛雄が黙るしかないことをわかっていた。飛雄がこの答えに満足しないことも、わかって……え?

飛雄は微笑んでいた。

暗がりでもわかるその顔の穏やかさに、私は唖然として目を瞬く。去年の飛雄は、私の答えを聞いて苦い表情をしたのだ。そうか、と言いながら納得していないのが、心配しているのが丸わかりだった。だけど、今の飛雄は。満足そうに、そして安心したように微笑む飛雄は。ねえ、


「どうして笑ってるの?」
「なんでもねえよ」
「なんでもないのに笑わないでしょ、飛雄は」
「良かったなって、思った。それだけ」
「……何が?」


わけがわからず混乱する私を家の方へ押し、飛雄はじゃあなと軽く言った。振り向いて「何が?」と繰り返す私を、シッシッと手で追い払う。扱いが雑すぎやしないかと思うが、もう慣れっこだ。めげずに三度目の「何が?」をぶつけた。


「良かったは良かっただ。早く家入れ、俺腹減ってんだから」
「教えてくれたら入る」
「……なまえが」
「私が?」
「……言わせんなボゲ!」
「は!?」


大声で怒鳴られて、私は顔を歪めた。何怒ってんの、それとも照れてんの?こっぱずかしいことも口にできてしまう飛雄が、こんな風に言葉を濁すのは不思議でしかなかった。飛雄はガッと私の家の門を開け私を中に押し込み、じゃあなと今度は叫ぶように言った。私は仕方なく諦め、ずんずん離れていく背中に声をかける。


「飛雄」
「なんだ!」
「試合頑張って」
「当たり前だ!」
「応援してる」


飛雄が急に足を止めた。ぎゅんと音でもしそうなほど勢いよく振り返り、私に向かって拳を突き出す。私もそれに応じた。私たちが大会会場で、いつもやっていることだった。

明日これをやるか、今日これをやるか。飛雄の勝利にそれは全く関係ないし、どちらにしても私が飛雄を応援していることに変わりない。私が飛雄の勝利を願っていることに変わりない。私は飛雄を捨てていない。会場から離れたこの家で、明日も、明後日も、明々後日も、私は飛雄の勝利を願っている。一つでも多くの試合ができるよう。一回でも多く、飛雄が笑顔を見せられるよう。

……それは及川に対しても、同じなんだけど。

飛雄に手を振って互いに家に入ってから、一気に重たくなった脳で彼のことを考えた。応援に"行かない"イコール、応援"していない"じゃない。少なくとも私にとっては違う。飛雄の勝利を願うのと同じぐらい強く、私は及川にも勝って欲しいと思っている。及川の努力が報われて欲しいと思っている。及川に心から笑って欲しいと思っている。

それを本人に伝えたことがあると、唐突に思い出してはっとした。及川の練習を見学に行ったあの日、私は確かにこれを伝えたはずだ。勢いで口から出たという感じだったし、まとまりもなく、自分でも何を言っているかよくわからなかった。だけど、一生懸命に伝えようとした。私が心からあの人を応援していると、わかって欲しい一心で必死に言葉を紡いだ。

そうだ、あの日だ。あの日、体育館で、及川のサーブを見たあの瞬間。

あの瞬間から私は、及川のバレーに心を奪われている。だからこそ邪魔をしたくないと思ったし、だからこそ別れようとした。だからこそ彼の手に惹かれたし、だからこそ彼を傷つけたことを悔やんだ。すべてはあの一瞬に始まったことを、どうして今の今まで忘れていたんだろう。どうして、どこが好きかと聞かれたときに答えなかったんだろう。

スマホを手に取って、指を震わせながら及川の電話番号を表示させた。あと一回指を動かすだけで、この箱は及川と私を繋ぐ。私の声を及川に届けてくれる。道具はここにある、あとは私の勇気だけ。






結局私はスマホを手放し、ベッドに体を横たえた。伝えたところでそれがプラスに働くかわからないし、マイナスに働くリスクを冒してまで伝えようとは思えない。勇気がないだけかもしれない。でも、ここで一歩踏み込むことが果たして"勇気"によるものなのかと考えたとき、私は答えを出せなかったのだ。


14.09.25