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こうしてこの道を二人で歩くのは、今日が最後かもしれない。相変わらずぺらぺら喋る及川に「はい」「へえ」「はあ」「そうですね」「そうですか」の五つを返しながら、どろどろに融けた脳でそう考えた。こんなにやる気のない相槌に何のつっこみも入らないことが、私たちの関係の終わりを暗示しているような気がしてならない。笑いながら話す及川の内面に、"辛抱"の二文字が大きく掲げられているような気がしてならないのだ。

今日が、きっと、最後。

家が見える頃には、その予想は確信に変わっていた。及川が今でも私と付き合っているのは、私を試合に行かせないためだ。別れてしまったら私を"彼女"の名目で縛れなくなって、私が飛雄の試合を見に行ってしまう。それを防ぐために私を"彼女"の位置に置いているのだ。ただそれだけのために、今、隣を歩いているのだ。

来週になれば、及川が私と付き合い続ける理由はなくなる。飛雄から奪うという当初の目的はおそらく、私が及川の傷をえぐったあの時点で消え失せただろう。きっと私は来週ふられる。来週を待たないかもしれない、飛雄との勝負が決着した時点で別れを切り出されるかもしれない。いつもと同じ日曜日、いつもと同じようにメールで一言、「別れよう」と。

私はそれを拒否しない。及川も、私が拒否するとは思っていない。だって私は及川が"好き"なわけではないからだ。及川自身にそう言ったからだ。好きでもない人を、引き止める理由なんてない。


「じゃ、なまえちゃん。ばいばい」
「さようなら」


軽く手を振る及川に、ぺこりと頭を下げた。さっと背を向けて門を開け、家への階段を上る。及川も早々に歩き出し、私たちの間には距離が開いた。あまりにもあっけない幕引きに、ぽっかりと胸にあいた穴を感じる暇もない。試合前に会う最後の日だというのに、私は、応援の声さえかけられなくて。だってバレーのことなんだもん。すかさず言い訳を挟む胸がずきずきと痛い。バレーのことには触れないって決めたから。応援さえも、あの人を邪魔してしまうかもしれないから。

これでいい。何も言わないのが正解。への字に折れていた唇の端を、無理矢理きゅっと持ち上げた。ごそごそとリュックのポケットを漁り、家の鍵を取り出す。ためらいなく鍵穴に差し込み、いつものように回した。


「なまえちゃん」


大袈裟すぎるほどに肩が震えた。心臓が飛び出るかと思った。動揺を悟られないように、ゆっくりと声の方を向く。私と別れた場所から何歩か歩いたところで、及川は私を見上げていた。


「なんか言うことないの?」
「…言うことって?」


応援でいいのか自信がなかったから、わざととぼけて聞き返した。及川の眉間にわずかにしわが寄る。声が少し萎んで、それでもちゃんと届いた。


「今週末何があるかわかってる?」
「……わかってます。試合、あります」


たどたどしくそう言って、門へと引き返した。抜いた鍵を握りしめたまま、門を開き及川の元へ駆ける。及川はそこで待っていた。じっと見下ろしてくる視線が、何かを期待していた。


「頑張ってください、応援してます」
「うん、ありがと。……あのね、なまえちゃん」


にこりともせずに及川は言った。さっきまでの饒舌さはどこへ行ったのか、やけに歯切れが悪かった。私は及川の意図するところがわからずうろたえる。欲しい言葉はこれじゃなかったのかと、不安になって両手をすり合わせた。


「……この前した約束、覚えてる?」


一瞬の沈黙。その間に、私の頭はすっと冷えた。「ああ」と感情のこもらない声で答え、私は小さく頷いた。


「もちろんです。試合の応援には行きません。大丈夫です」
「ありがとう。ごめんね」
「……謝ること、ないです」
「でも、飛雄を捨てさせちゃったからさ」


自らの前髪に触れ、そっと横に流しながら及川はすまなそうに言った。すまなそうに、言った。"すまなそう"に演じたのであろうその声には、かすかな歓喜の色が見え隠れしていた。


「……捨てる?」
「今年北一のバレー部から来た奴が言ってたんだよ。なまえちゃんは必ず、飛雄の出る公式戦の応援に来てたって。だけど今回は、俺を優先させてくれたわけでしょ?俺のために、」


ちろりと赤い舌が覗く。右手がそっと伸びて、私の頭を優しく撫でた。


「飛雄を捨ててくれたわけでしょ?」


今や嬉しそうに細められた目が、すまなそうな表情を台無しにしていた。私は瞬きもせずに及川を見上げ、柔らかい手つきで頭を撫でられながら凍りついていた。私に「試合を見に来ないのか」と尋ねた国見の表情が、脳裏に浮かんだ。責めるような目、呆れたような目。ねえ、待って。待ってよ。誰にともなく問いかける。

私って飛雄を捨てたの?

それは純粋な疑問だった。そんなつもりは全くなかったし、飛雄だって私に捨てられたなんて思っていないはずだ。捨てるも何も、私は飛雄を"持っていた"ことなんてないから。もしも及川と出会う前に"持っていた"というのなら、私は今だって飛雄を"持っている"。

私は飛雄を捨ててなんかいない。

それは間違ってないはずだ。間違ってない。私は、間違ってない。何度も繰り返すが、胸を押しつぶすような圧迫感は収まらない。だって確かに、私は及川を選んだのだ。及川の願いを叶えることに決めたのだ。及川を選んで、"飛雄の応援に行く"習慣を捨てたのだ。捨てた。確かに、捨てた。国見はその言葉を使わなかったけど、そういう意味で私を責めていたのだろうか。所詮は偽物でしかない恋人を選んで、幼馴染を"捨てた"私に呆れていたのだろうか。


「なまえちゃん」


唐突に名前を呼ばれ、ぐいと腕を引かれた。流されるままに一歩、及川に近づく。さっきまで頭にあった彼の手はするすると私の腕を辿って、手のひらまで落ちた。私が好きだと言ったその手が、今、私の手を包んでいる。わずかに湿っているそれから緊張を感じ取って、私まで緊張した。もちろん及川の緊張している理由は、私のそれとはかけ離れているだろうけど。

私は及川を見上げた。空が赤く変わりつつあった。夕日を背にして暗く見えるその顔に、焦燥が浮かんでいることに気づいてしまった。私と目が合うとそれはすぐに消えたけれど、もう遅い。幸せそうににっこりしたって、もう、遅いんだってば。余裕ないですねと言ってしまいたくなる。本当に先輩は、バレーと飛雄が絡むと余裕がなくなりますね。


「俺ね、嬉しいよ。なまえちゃんが俺を選んでくれたことが、嬉しい」


そうですか、と答える自分の声の弱々しさに嫌気がさした。いかにもうさんくさいと思うのに、優しい口調に惑わされている。流されている。私が私じゃなくなっている。「俺を選んでくれたこと」なんてキレイな言い方をしたけど、それってつまり、私が飛雄を捨てたのが嬉しいってことでしょ?……ああ、なんだ、そっか。

今になって気づいた。及川は私を試合会場に行かせないことで、元々の目的も果たすことになるのだと。だからこんなに必死なのだ。だからこんなことをしているのだ。手を握って優しい声を出せば流せると、第一の目的も第二の目的も果たせると、そう思っているのだ。

悔しさや悲しみや情けなさ、様々な感情が胸を渦巻く。重力に逆らうのも限界で、及川の視線から逃げるようにうつむいた。


「私、飛雄を」


途中で声が出なくなった。落ちる視線のたどり着いた先で、包帯の巻かれた及川の指を見つけたのだ。包帯、というには硬い素材に見えるから、テーピングとかいうものかもしれない。とにかく何かが巻かれていた。左手だった。私は勢いよく顔を上げる。


「指、どうしたんですか」
「んー…ただの突き指。朝練でやっちゃって」
「大丈夫なんですか」
「よくあることだから。平気平気」


及川がこの話題を避けたがっているのは、表情と口調から明らかだった。笑みが強すぎて、無理しているのが見え見えだ。それに気づくと同時にひらめいたことがあった。今日の及川の不自然な行動。それらはすべて、左手を隠すためのものだったのだ。

キャラメルをその場で食べなかったのは、包み紙を両手で剥いてしまうと左手を私の目に晒すことになるから。電車の席で手前に座ったのは、奥に座ってしまうと私の目に左半身を晒すことになるから。

そうまでして及川は左手を隠し、指について私と会話することを避けた。当然紡がれるであろう「大丈夫ですか」から、バレーの話に繋がることを恐れた。あんなにも細かい注意を払ってまで、及川は私にバレーの話をさせたくなかったのだ。

「私、飛雄を」の続きは言葉にならなかった。私はそっと後ろに下がって、繋がったままの手をするりと抜いた。二つの手はあっさりと離れた。及川は私の手を追わなかった。


「……先輩」
「ん?」


頑張ってください、が、言えない。さっき流されてしまったその一言を、もう一度声にする勇気がない。だってどうせ届かない。どうせ、この人は私の声を受け取ろうとしない。他の女の子の応援には笑顔を返すのに。きっと笑ってありがとうと言うのに。理由はわかっている。私が"普通の女の子"じゃないから。私が及川を傷つけ、及川の邪魔をする女だから。

さようなら、と出し抜けに言って頭を下げた。「うん」とだけ返した及川に背を向けて、開けっ放しの門を通る。きっちり閉めて、階段を上って、すでに鍵のあいているドアをぐいと開いた。

体を滑り込ませてすぐに靴を脱ぎ、リュックを下ろすことも忘れて廊下を駆けた。洗面所に入ると同時に蛇口を捻り、激しく流れ出した水に両手を突っ込む。泡をつけて洗っても、及川の手の感触がそこに残っているような気がした。思わず唇を噛む。かさかさに乾いていたそれは唾液で湿り、同じようにどこか余計な場所までが潤うのを感じた。


14.09.13