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電車内はすいていた。及川の後ろに続いて、空いている二席に向かう。及川は手前に座った。前を歩いているのだから奥に座るだろうと勝手に思っていて、私は一瞬戸惑った。しかし「何?」という顔の及川に見上げられ、無言で目を逸らして奥に座る。がっしりした及川の右腕に肩が触れそうになって、体を縮めた。

そのあとはひたすら相槌を打った。私が相槌を打つということは及川が喋っているということで、今日の及川はいつも以上に饒舌な気がした。思い返してみれば、先週もこんな調子だった。よっぽど私に話す隙を与えたくないんだろうなあと、頷きで誤魔化しつつため息をつく。顔を上げていることに疲れてきて、うつむき、スカートから覗く膝に視線を落とした。

電車を降りても、それはほとんど変わらなかった。ぺらぺらと口を回す及川の話の尽きなさに舌を巻く。今や私は、及川と及川の周辺についてかなり詳しくなっていた。部屋は畳。布団で寝ている。両親と三人暮らし。年の離れた姉がいる。たまに甥っ子の面倒を見ている。担任の先生の教科、癖、今日のネクタイの柄。クラスであった不思議な出来事。そして、先週の火曜日の話。


「去年から付き合いのある子でね。たまに差し入れしてくれたり、バレンタインにチョコくれたり。俺のこと好きなのかなって、思ってはいたんだけど」
「そうですか」


他に返しようがないのでそう口を動かした。あの日及川の隣にいた女の子は二年生で、案の定屋上で告白してきたそうだ。及川はそれを断ったと言ったが、これにも「そうですか」としか返せなかった。「本当ですか?」なんて聞くわけにはいかないし、「当たり前ですよね」なんて本心を晒すわけにもいかない。気持ちがないとはいえ私たちは恋人関係にあるのだから、他の人からの告白を断るのは当然だ。わざわざそれを報告して、どんな子かまで伝えて、私の胸をざわつかせてーーーーそうか、それが狙いか。

納得すると同時に、苛立ちがふつふつと湧いてきた。もちろん、はじめに悪いことをしたのは私だ。及川を傷つけたのは私だ。だけどこんな面から、よりによってこんな面から反撃しなくったって……。こっそり歯を食いしばる。

ふと顔を上げた先の向かいの席で、おばさんがうとうとし、女子高生がスマホをいじっていた。二人の背後にあるガラスに、及川が映っている。私は二人に隔てられてガラスに映らないが、及川は背が高いせいで頭一つ抜き出ているのだ。私は、食い入るようにガラスに映る及川を見つめた。そこにある笑みは、離れていてもわかるほどに冷たい。思わずばっと首を回して、隣にいる本物の及川に目を向けた。


「どうかした?」


私を見るその目が、蛇のように細められる。怒りの目で見られたときとはまた別の恐怖が、私の中で声を上げていた。怖い。隙を窺うような、心を読もうとしているような、抜け目のないその目が、怖い。それと同時に……腹立たしい。ごくりと唾を飲んだ。一見交わりそうにない二つの感情が、思考をかき乱していた。


「先輩ってどんな恋愛をしてきたんですか?」
「ん!?びっくり、なまえちゃんそんなこと気になるの?」
「あまりいい噂は聞かないので」


固い声でそう言った。"バレー"に触れてはならないなら、別の場所に触れればいい。及川が私の心を揺さぶるように、私だって及川を動揺させたい。私ばかりが唇を噛んでいるのは、悔しい。


「……噂に振り回されちゃうの、なまえちゃんは」


さっきはからかうようだった及川の声が、少しだけ落ち着いたように聞こえた。無意識のうちに、膝の上のリュックを掴む手に力が込もる。胸に生じた感情は、満足感と呼べるものだった。


「そうやって誤魔化す気ですか」
「厳しいな〜。なまえちゃんこそ、誤魔化さないでよ」
「私は噂に振り回されます。だって、……何の根拠もなく噂が立つことなんてないですから」


去年の私がいい例だ。そう自嘲しながら、及川の答えを待った。及川が誤魔化そうとしたことで、私の好奇心に火がついた。及川の恋愛事情については、短いスパンでとっかえひっかえしてきたとか、相手は誰でも良かったとか、色々な人に色々なことを聞いた。全てを信じたわけじゃないけれど、全てを嘘だとも思っていない。

及川の視線がすっと私から逸れ、床に落ちた。む、とわざとらしく尖っていた唇が、次の瞬間きゅっと弧を描いた。


「俺が女タラシだって聞いたんでしょ?まあモッテモテだし、間違ってないけどさ」
「……はあ」
「ちゃんと相手は選んだよ。ダメそうな子は断ったし、上手くやっていけそうな子と付き合った」
「上手くやっていけそうな子っていうのは」
「話してて楽しい子」


ずん、と心が重くなった。視線が勝手に及川から離れていく。私も及川と同じように、視線を床に落としてうつむいた。


「どの子もちゃんと好きだったよ。優しかったし、可愛かったし、一緒にいて楽しかったし。まあ優しくない子もいたけど、それはツンデレってやつだよね。みんな俺のことが好きで告白してきたわけだから、俺に優しいし、甘いわけ。普通にカップルやって、普通にうまくいかなくなって、別れちゃう。それだけ。人より人数は多いかもしれないけど、それだけだよ」
「……先輩から告白したことはないんですか」
「ないなあ。どうせうまくいかなくなるのは目に見えてるから、自分からしようと思わないんだよね」
「好きな子はいても、ってことですか」
「気になる子はいても、自分からは好きにならないようにしてるの。どうせだめになっちゃうから」
「じゃあ私はなんなんですか」


声が震えていた。頭が酷く熱かった。今の話が本当なら、私は及川が告白した唯一の相手になる。だけど今の話が本当なら、及川は誰かを好きにならないし、告白もしない。どう考えても矛盾している。ねえ、先輩、それ私に言っていいんですか?思い切ってそう聞いてしまいたくなる。聞いたのは私のくせに。だけど、いくらなんでも、……隠す気がなさすぎて。リュックを掴む手が、じとりと湿った。

私は及川がヘマをしたのだと思っていた。うっかり口を滑らせてしまったのだと。顔を見たら、きっと、強張ってるーーーーそう思ってゆっくりと目線を上げ、隣にいる及川を見た。

顔を強張らせたのは、私の方だった。


「なんなんだろうね?」


及川は笑っていた。さっきと同じ目をして、楽しそうに私を見ていた。私の反応がおかしくてたまらない、そう思っているのが伝わる。

半開きの唇が震えた。ぎゅっと引き結んで、前を向く。及川が私の横顔を見ているのがわかったから、目を潤ませることさえ許されなかった。鼻で息を吸う。肺が膨らむ。深呼吸がバレないように、リュックを胸に押し付けた。


14.09.10