▲18▽ 及川の訪問から一日経って、月曜日。学校のトイレで用を足していると、扉の外から女子の話し声がした。はじめは聞き流していたのだが、「及川」というワードに耳がぴくりと反応した。 「六月二日でしょ?私、自分の部の大会被っちゃってんだよねえ」 「えーそうなの!カワイソー」 「もう、他人事だと思って…」 「だって他人事だもん、私は応援行くよー」 「は!?抜け駆け禁止!差し入れとか渡しちゃダメなんだからね!」 「ざんねーん、もう渡す予定だから!」 「ええ!及川さんはあんたの差し入れなんて受け取らないよ!」 「渡せないあんたより可能性ありますうー」 困った、出るに出られない。水を流し終えてからも、私は立ち尽くしておろおろしていた。ミカが待っているだろうから早く出なければと思うが、及川の話をしている二人と顔を合わせるのも気まずい。二人が早く行ってしまえばいいのにと思ったが、その気配もない。 結局えいっとドアを開いた。鏡の前に女子が二人、その斜め後ろにミカが立っている。ミカは私を見て、心配そうな顔をした。私はそそくさと足を進め、手を洗ってハンカチで拭く。女子二人の話は及川に彼女がいるかいないかという議論に及んでいた。なんだ、私のことを知らないのかと拍子抜けする。警戒したのが馬鹿らしい。安堵とも脱力とも取れるため息をつき、ミカとその場をあとにした。 「大丈夫?」 「え、何が」 「だってあの二人……」 「あ、うん、大丈夫!私のこと知らなかったみたいだし」 「そうじゃなくて」 ミカは優しい子だった。懸命に口下手を隠しているとはいえ大して面白い話もできない私と一緒にいてくれるだけで優しいと思うのだが、それに加えて気が利く。今だって私のわずかな表情の陰りを読み取って、こうして声をかけてくれた。私はとぼけた笑顔を作ってミカを見たが、そこで待っていたのは怒りの表情だった。 「あの二人、及川さんのこと狙ってたよ」 「ね。モテるみたいだから、あの人」 「なんでそんなテキトーなこと言うの。彼女は私です、ヘンなことしないでくださいって言わなきゃダメでしょ」 「変なことって…」 「差し入れ渡すなんてヘンだよ。だって及川さん、彼女いるんだよ」 「でもあの子たちそれ知らないじゃん。仕方ないよ」 「だからなまえがちゃんと言わなきゃダメなんでしょ」 「んー、でもあの子たち先輩のファンじゃん?たぶん芸能人にプレゼント渡す感覚なんだよ」 「バッカじゃないの」 「ばっ…馬鹿?」 「バカだよ。何、ファンって。芸能人って。及川さんそこまでかっこよくないからね」 「ええー」 ずばりと切り捨てるミカがかっこいいやらおかしいやらで、思わず笑ってしまった。しかしすぐにキツく睨まれて、その笑みも萎む。 「狙ってるからクッキー渡すんでしょ。応援行くんでしょ。あの子たち、及川さんの彼女になりたいんだよ。なまえはもっと危機感持たなきゃダメだよ、いくら今及川さんに愛されてるからって、いつまで続くかわかんないんだからね」 「んー、今も愛されてはいないかな」 「本当に愛されてる子はみんなそうやって謙遜するの」 ミカは強い口調で言い切った。この子は私とは違って饒舌で、だからこそバランスがいい。気を抜くとうっかりクラスで霞んでしまいそうな私を、強引に引っ張ってあちこち連れ歩いてくれるのだ。私が今クラスのみんなと仲良くできているのは八割方ミカのおかげで、感謝してもしてもしきれない。 「なまえも応援行くんだよね?」 「先輩の?行かないよ」 「なんで!?」 「普通行くものかな?」 「普通がどうかはわからないけど……だって、凄いたくさんの女の子が及川さんの応援に行くんだよ?他校からも来るらしいよ?なまえは行かなくていいの?」 来るなと言われたなんて、とても言えそうになかった。きっとミカは、目を釣り上げて事情を聞こうとするだろう。私は小さく息を吐き、影のある笑みを作る。 「ちょっと用事があって、行きたいけど行けないんだ」 「ええ…そうなの……」 ミカはまた、心配そうに眉を下げた。次の授業までにはまだ時間があったので、ミカの机のそばで話の続きをした。始終笑っている私の頭を軽く叩いて、「へらへらしない!」とミカは唇を尖らせた。 四限の化学の実験で、偶然国見とペアになった。国見は露骨に嫌そうな顔をしたが、私は笑顔でそれをスルーした。机の前に立って液体を試験管に注いでいると、丸椅子に座ったままのろのろと試験管を揺らしている国見が唐突に話を振ってきた。 「試合来ないって聞こえたんだけど」 私はすぐには返事をしなかった。何しろ、手に持っているのは希塩酸だ。薄めてあるものとはいえ、怖いものは怖い。 「無視?」 「……集中してるの、見てわからない?」 「それくらい話しながらできるだろ。実際今、返事できたし」 「……」 高飛車な物言いに腹が立ったので無視を決め込んだ。作業に全意識を向ける。かなりの時間をかけた末にようやく試験管を置き、希塩酸の瓶をきっちりと閉めた。そして次に使う液体の瓶を取ろうと手を伸ばしたが、一歩早く国見がそれを掴んだ。 「俺がやるよ。みょうじに任せてたら終わんなそう」 「……ありがと」 もうちょっとましな言い方あるでしょ、と思いつつにこりと笑い、素直に引き下がった。希塩酸を取り分けた試験管に指示薬を入れる簡単な作業に移る。 「で、どうなの」 「……応援に行くか行かないか、って話?行かないよ」 「なんで」 「行かなきゃだめなの?」 「だってみょうじ、影山の出る公式戦必ず見に来るじゃん。今年、会場同じだよ」 「ああ……うん、そうだね。でも用事があって」 「二日とも?」 「え?」 「勝ち進めば六月三日も試合あるよ。四日は無理だろうけど」 「…なんで」 「三回戦でうちと当たるから」 「あ、そう」 なんともコメントしがたいので口を閉ざした。ここで話が終わればよかったのに、国見はぐいぐいつっこんでくる。 「二日とも用事あるの?」 「うん」 「みょうじいつも、影山の試合最優先させるじゃん」 「え、そうだったっけ」 「そうだよ。きもいなって思ってたもん」 「その一言、余計だよね」 私は試験管に向かって笑いかけた。透明なガラスの向こうに、国見の冷めた顔が見える。 「及川さんに何か言われた?」 「何かって?」 「来るな、とかそういうこと」 「あの人がそんなこと言うように見える?」 「見えるから言ってんだろ」 「え、あの人って、そういう人なんだ?」 国見に指示薬を手渡し、自分は希塩酸の試験管を振る。色は変わらなかったし、国見は返事をしなかった。 「ねえ国見、四月に言ったじゃん?あの人は私のこと好きじゃないって」 「言ったよ」 「どうしてそう思ったの?」 「だって、事実だから」 「国見はやっぱり、あの人が何をしようとしてるか知ってるんだね?」 国見はまた黙り込んだ。表情こそ変わらないものの、きっと内心迷っている。言うべきか、言わないべきか――私につくべきか、あの人につくべきか。 国見の視線は、指示薬のスポイトに注がれていた。ぽつ、と一滴、液体が落ちる。濃い色をしたそれは、待ち受ける液体に触れた瞬間透明になった。試験管を振るまでもない。国見は口を、開かない。代わりに私が、ぽつりと言葉を零していた。 「私、あの人の考えてること、全然わからないんだよ。あの人嘘ばっかつくし、本音隠そうとするし。でも、して欲しいことは言ってくれたの。それだけは言ってくれたの。だから、素直にそれを聞いてようかなって」 「そのして欲しいことが、試合に来るな?」 「うん、そう」 「みょうじはそれでいいの?」 「いいよ。だって、ただそれだけだもん。何かするわけじゃない。行かないだけ」 「中二からの習慣を変えちゃっていいわけ?」 「うん、別にいい。おかしいかな?」 あの人の邪魔をしてまで自分を貫き通す必要はない。私はあの人の望みを叶えたいと思うし、そのためなら自分の望みなんて押し殺せる。 それっておかしいこと? 私は真顔で首を傾げた。国見の眉間に、しわが寄った。 「……みょうじらしいって思うよ。お前、アイツのときもそうだったじゃん」 咄嗟に意味が理解できず、私はきょとんとした。アイツのときも、そうだったじゃん…?次の瞬間凍りつき、唖然として目の前の国見を見つめる。見返してくるその眼球の温度に頭の奥が震え、私は逃げるように視線を下げた。額と手のひらに汗が滲む。 「……よく知ってるね」 「噂で聞いただけだけど」 「……その噂って、どれくらいの人が知ってるのかな」 「それ前も聞いてきたよね?北一で俺たちと同じ学年だった奴らは、大体知ってんじゃない」 「……どこまで、知ってるのかな」 「お前が何やったか?んー、それはさすがに」 「知らないよね。普通、知らないよね」 指示薬をスポイトで吸い上げる国見の手が止まった。しかめっ面で私を見る。 「俺は知ってるけど?」 「細かくは知らないでしょ」 「やれること大体やってるってことは知っ」 「やめてよ」 バンと机を叩いた。周りは騒がしかったので、反応したのは両隣のペアだけだった。大丈夫?と聞いてくれるクラスメイトにごめんと苦笑いを返し、声を落として国見に向き直る。 「なんでこんなとこで言うの」 「言わせようとしたのはそっちじゃん」 「そんなつもりじゃなかった」 「あっそ。わがままだね」 そっけない言い方にぐっと声が詰まった。唇がぐにゃりと曲がる。ねえ、と搾り出すのにずいぶん時間がかかった。 「あの人は……私がしたこと、知ってると思う?」 「及川さん?知らないだろ」 「そうだよね」 国見はこっちを見もせずに言った。私は胸を撫で下ろし、無意識に握りしめていた試験管を再び揺らし始めた。国見は次の作業に移っている。私何すればいい?と聞くと、何もしなくていいよ邪魔だからと返された。酷い言いようだと思ったが、大人しく丸椅子に座る。 「みょうじ、及川さんのこと好きなの?」 「え?」 「前とずいぶん反応が違うから。好きになったのかなって」 「それはないよ。それはない」 「ふーん。でも金曜、手え繋いで帰ってたじゃん」 「……見てたの?」 露骨に狼狽してしまった。国見はちらりと私を見、すぐに意識を試験管に戻す。きっちり指示薬を入れ終えたあと、「はいこれ振って」とそれを差し出してきた。私はもともと持っていた試験管を試験管立てに刺し、国見から試験管を受け取る。 「それは成り行きで……」 「みょうじは成り行きで好きでもない男と手を繋げる奴なの?」 「……私あの人の彼女なんだよ。手ぐらい繋いじゃだめ?」 「手ぐらい、ね」 国見は馬鹿にしたように言った。 「そうやってずるずるはまっていくんでしょ。気をつけなよ、みょうじは流されやすいから」 私は目を見開いて国見を凝視した。国見はこっちを見ない。それが酷くもどかしく、同時に悔しかった。 流されやすい?私が?私が去年あんな状態だったのは、私が流された結果だっていうの?違う、違うよ。私は自分でそうすることを選んだ。だって何一つ、嫌じゃなかったから。全部、自分で決めたこと。 私の心を読んだかのように、国見が言葉を紡ぐ。私を突き刺す、言葉を紡ぐ。 「普通なら嫌だって思うことが、嫌だって思えないのはおかしいことなんだよ」 「……だって好きなんだもん、仕方ないじゃん」 「それは誰の話?アイツ?及川さん?」 「あ」 「はーいそこまで!あと十分だから片づけ始めてー」 どこかで先生が声を張り上げ、私は口を閉じた。急いで液体の色を記録し、国見に一声かけてから教卓のビーカーに試験管の中身を捨てに行く。国見はそれ以上口を開かなかったので、私もわざわざ国見の問いに答えようとはしなかった。互いに目も合わせず実験器具を片づけ、黙ったままそれぞれ教室を出た。 一昨日及川が言った「キスくらい」と、さっき私が言った「手ぐらい」が重なる。 ーーーーそうやって、ずるずるはまっていくんでしょ。 国見の言葉が、何度も頭の中で繰り返された。 14.08.11 |