▲17▽ 鍵盤に指を叩きつけた。不協和音とも呼べない汚い音が部屋に響き、私の鼓膜を攻撃する。普段こんな音を出せば親に叱られるのだが、生憎土曜の夕方、すなわち今は家にいない。 どんどん暗くなっていくリビングで電気も点けずに一人ピアノを弾いていたが、何度弾いても上手くいかなかった。精神面に問題があるのか、それともただ単に技術が足りないだけなのか。音が美しく奏でられない、そんな悩みはまだいい方だと思い知った。今の私は、"指が正確に動かない"。弾いても弾いても上手くいかず、こんなに調子が悪いのは久しぶりで正直戸惑っている。 再び指を乗せ直し、毎回引っかかる場所をゆっくり弾いてみる。……できた。もう一度。……大丈夫。少し速めてみる。……これもできた。今の速さでもう一度―――― ピンポーン。ピアノとは全く違う音が、家中に響き渡った。私は指を止め、立ち上がってインターホンのモニターを見に行く。両親が帰ってくるにしては早いから、宅配便だろうか。そう思いながらモニターを見てぎょっとした。画面に映っていたのは、及川だった。 ジャージ姿で、肩にはエナメルバッグの紐が見える。部活帰りだ、とすぐにわかった。話す覚悟はできていたはずなのに、こうして画面越しに顔を見ただけでそれはあっさり崩れてしまった。どうしよう、まだ心の準備が、なんてわがままを言い始める。 画面の中の及川が動いた。腰を折ってカメラに顔を近づけて、二度ほど瞬きをする。無駄に性能のいいモニターは、瞼の動きや唇の動きまではっきりと私に伝えてくれた。"なまえちゃーん"、だ。 私は通話ボタンを押し、「はい」と言った。ドアチャイムを鳴らされたことへの返事なのか、呼びかけられたことへの返事なのか、自分でもよくわからなかった。画面の中で及川が薄く微笑む。 『なまえちゃんですか?』 「はい」 『良かった。なんか、機械通すと声がヘン』 「……はい」 『突然押しかけてごめんね?今ちょっと話せる?』 「はい、大丈夫です」 大丈夫なんかじゃない。そう訴える胸を無視して通話を切った。廊下に出るとすでに真っ暗で、時間の経過に驚く。リビングにはわずかに夕日が差し込んでいたので、一応の視界は確保できていたのだ。玄関の電気を点けててきとうにパンプスをつっかけ、ドアを開いた。 昨日私が後頭部をぶつけた塀の前に、及川は立っていた。塀の上部から突き出た頭が、こっちに向いている。私はドアから手を離し、階段を下りて門を開けた。後ろでドアが閉まる音がした。 「すみませんでした」 開口一番にそう言った。頭を下げたいくらいだったが、目を逸らしてはいけないと思った。斜め上の及川の顔を見上げ、その顔色を探ろうとする。カメラの前で見せていた薄い微笑みがわずかに崩れ、目が丸くなっていた。 「昨日は失礼なことを言って、本当にごめんなさい」 「失礼なことって?」 「……バレーのこととか、言ったじゃないですか。よく知りもしないくせに」 「ああ」 「無神経でした。ごめんなさい」 「……無神経、ね」 及川の微笑みが復活した。目は依然として冷たいままで、弧を描く口元とのギャップが私の不安を増長させる。 「どうして謝ってるの?」 「……どうして?」 「何に謝ってるの、って言ったほうがいいかな」 「だから、昨日私が…失礼なことを」 「うん、それは聞いた。えっとね、なんで謝らなくちゃならないと思ったの?」 「……先輩が、」 適切な言葉が見つからない。怒ったから。傷ついた顔をしたから。答えはいくらでもあるのに、どれもこれもそれこそ"無神経"で、ますます及川を怒らせてしまうような気がした。怒るだけならまだしも、あんな顔をされたら。私がまた、させてしまったら。そう思うと、口が動かない。 「あのね、なまえちゃん。ちょっと違うんだよ」 及川は私の答えを待たなかった。そのことに安堵すると同時に、身勝手な寂しさが生まれる。昨日の帰り道、私の話が聞きたいと言ってくれた及川はもういないのだ。きっと私が、消してしまった。 「俺はね、妬いたんだ。飛雄にね」 「……え?」 思わず気の抜けた声を出してしまった。あまりにも突飛な発想で、驚きのままに目を見開く。及川の表情はいたって真面目だった。 「なまえちゃんがあんまりにも飛雄飛雄言うからさ。ほら、彼氏としてはそういうの嫌じゃない?」 「え、っと、え」 「ごめんね。器の小さい男だって思うでしょ」 「いいえ、思いませんけど……え、ちょっと待ってください、本気ですか?」 「うん」 及川は頷いた。澄んだ茶色の目が、夕日の光を浴びて赤く染まっている。それがまっすぐに私を見つめる感覚にさっきまでとは違う緊張が襲ってきて、ますます目を逸らしたくなった。 「バレーは、関係ないんですか……?」 「うん」 短い返事だった。百八十度の見当違いに私はうろたえ、とうとう目を泳がせる。待って、え、待って、妬いたって…?妬いた?飛雄に?やきもち? 確かに昨日は飛雄の話をたくさんした。駅でも話したし、帰り道でも少し話したような気がする。だけど及川は特に何も言わなかった。表情だって変えな……かった? 記憶の糸を手繰り寄せる。学校近くの駅で電車に乗る直前、この人はなんて言ったっけ?飛雄が羨ましいとかなんとか…言ったような。どんな表情をしていたかは思い出せない。確かあのときはとっても距離が近くて、顔を上げられなかったんだ。 混乱する思考の中に、突然国見が現れた。及川との交際を知らせたあの日、国見ははっきり言った。及川は私のことが好きじゃないと。私もそれに同意した。及川は私に恋をしていない。 「嘘……ですよね」 「嘘じゃないよ」 「だって先輩、私のこと好きじゃないでしょう?」 「それ前も言ってたよね。なんでそう思うの?俺、結構なまえちゃんに尽くしてると思うんだけどな」 「尽くして?」 思わず及川を見上げ、あんぐりと口を開けた。及川に関して、尽くす尽くさないという発想がまったくなかったのだ。だって、尽くすというのは私が"彼"にした行為だ。好きで好きで堪らなかったからこそした行為だ。及川は私が好きなわけじゃない。及川が私にしてくれる行為は、"尽くす"とは言わない。……そうじゃないの? 「なんでそんなびっくりした顔するの。俺、優しくなかった?」 「優しかったです。優しいって思ってましたけど……」 「愛されてる気がしない?」 おずおずと頷くと、及川は目を細めた。指先でそっと私の顎に触れる。凍りついた私に微笑みかけ、声を甘くして囁いた。 「こんなに愛してるのに足りないなんて、なまえちゃんは欲しがりだねえ。これ以上何が欲しいの?」 「は……?」 鳥肌が立った。顎を持ち上げる指の温度や、耳にまとわりつくような声の質にぞっとする。なんとなく、次の言葉が予想できた。 「じゃ、キスしよっか。なまえちゃんがいいなら俺、キスくらいしてあげるよ」 顎に触れる指の数が増え、優しく輪郭を包んだ。制汗剤の爽やかな香りが鼻をくすぐる。近づいてくる唇をよけようともせず、私はその場に突っ立っていた。脳が麻痺したような感覚で、自分でも無意識のうちに口が動いた。 「"キスくらい"、好きじゃなくてもできるでしょう?そんなものは気持ちの証明になりません」 及川の唇が止まった。意外そうに私を見るその目は、相変わらず温度が低い。手が静かに離れ、だらんと垂れ下がった。 「じゃあどうしたらいい?」 「わかりません」 「……困るんだけど」 「なんで困るんですか?」 「なまえちゃんにお願いがあるの」 「何ですか」 「俺の前で、飛雄の話をしないで」 落ち着いた口調、落ち着いた表情で及川は言った。その声に速度はなく、ゆっくりゆっくり近づいてきて私の胸に届いた。私は及川の視線に真正面から射抜かれる。重い視線だと感じた。今の言葉には、今日この人が言った言葉の中で唯一、真実味があると感じた。 「……わかりました」 「約束してくれる?」 「はい」 「ありがとう。もうひとつ、大事なお願いがあるんだけど」 「何ですか」 ただの会話にしては近すぎる距離で、私と及川は向かい合っていた。及川が体を起こす様子はない。私はと言えば、金縛りにあったようにその場から動けなかった。 「試合、見に来ないで」 「……先輩の?」 「俺のも、飛雄のも。会場同じだからさ。見に行くつもりだったんでしょ?飛雄の試合」 「はい」 「俺、嫌だから。飛雄を応援するなまえちゃん見るの、堪えられないから」 だから、と及川は繰り返す。焦燥の響きがある声だった。何をそんなに焦っているの、どうしてそんなに辛そうなの。目元は確かに歪んでいるのに、最後まで笑みを作ろうとしている口元が哀れだった。その顔をさせているのが私だと思うと、胸が疼いて弱々しく鳴いた。 「来ないで。絶対に」 言い終わる前に、頷いていた。そもそも私は、この人にこういう顔をさせたくないから謝ったのだ。昨日の一件を後悔したから謝ったのだ。この先またこんな顔をさせてしまっては、意味がない。 ほっとしたように笑う及川の顔を見ていられずうつむいた。及川は体勢を起こし、なぜかその大きな手のひらを私の頭に乗せた。硬いそれが柔らかく動く感覚に、心が震える。 もしも、もしも及川の言っていることが本当で。私が好きだからこそ昨日あんな風に怒って、あんな顔をして、今日こんなお願いをしてきて。もしそうなら、もしもそうなら、それはとっても、幸せなことなのかもしれない。 私はどうしようもなく愚かだった。私の頭を撫でる及川の表情も、目の前にある胸の内部も、何も何も知らないまま、ありもしない幸せの中で一人まどろんでいたのだ。 14.08.03 |