▲15▽ 「なまえちゃんは爪が短いね。この前も思ったんだけど」 「あ、はい。長いのダメで」 たどたどしく答える。爪のことより、"この前"という言葉が脳内で強く響いた。この前とは、私が風邪を引いたあの日のことだろうか。私の手を自らの手で包んだあの一瞬を、及川は覚えているのだろうか。 聞いてみたいという気持ちと、聞けるわけがないという気持ちがぶつかった。勝敗は目に見えていた。私は口を開けず、成り行きに身を任せることになる。もしかして次は私が話さなくちゃいけないんじゃと不安になったとき、及川が「ねえ」と前を向いたまま言った。 「なまえちゃんって俺のどこが好きなの?」 「……好き?」 話がいきなり飛んだので、ついていけずに聞き返してしまった。私の爪の話をしていたのに、どうして急に先輩の話?しかも好きなところ?混乱して目を泳がせる私を、及川がちらりと見たのがわかった。 「あー今、"別に好きじゃないですケド"って思ったでしょ」 「え」 「そうだったね、なまえちゃんは俺の顔が良いから告白オッケーしてくれたんだった。今でもそれは変わらない?」 どうも回りくどい聞き方だった。脳内で反芻し、要するに"新たな感情は芽生えていないか"と聞かれているのだと気づいて、私は答えに詰まった。 週に一度しか会わない関係で、会う時間もほんの一時間くらいで。好きになんてなりようがないでしょう?……そんな風に言い切れたらどんなにいいか。実際の私は、ずいぶんこの人に気を許してしまっていた。この人の隣では無理に笑わなくていいし、上手く喋れはしないけれど、一応本心を曝け出せている。むしろ、上手く喋れない自分を曝け出せていると言うべきか。私を私で居させてくれる、ただそれだけの単純なことが、私にとってはとてつもなく大きかった。 先輩のどこが好きかって? ぼんやり口を開いたままでいるうちに、唇が乾いた。私は舌で唇を舐める。角を曲がると、家はもうすぐそこだった。 「手が」 ゆっくりと舌を動かす。この答えは逃げだ。でも、決して嘘ではない。ゆるく握られた及川の手の中で、私の手が揺れる。 「好きです」 ほんの少し声が震えた。アスファルトとぶつかって靴が立てる音のほうが、私の声よりよっぽど大きかった。その音は二人分より多いような気がしたが、それはきっと耳がおかしくなっているせいで。私の耳はさっきから、驚くほどに熱かった。 「手フェチなの?」 「……誰の手でもいいってわけじゃないです」 家の前まで来ると、及川は足を止めた。私は高い塀を背に立ち、繋いだままの及川の手に視線を注ぐ。 「この手でバレーをしてるんだなって思うと、惹かれるんです。指の硬さとか、皮膚の厚さとか、……えっと、たくさん練習してきたんだなって、伝わる手をしてるから。これまで何千本も、もしかしたら何万本も、ブロックして、トスして、サーブ打って……たくさんたくさんボールに触れてきた手なんだって思うと、この手がとっても、す、…てきに見えます」 "好き"は途中で迷子になった。一度それを言っただけで耳がこんなに燃え上がったのだから、二度目を口にしたらどうなるか。今の話だけでもいっぱいいっぱいなのに、「他には?」と続きを促してくる及川は意地が悪い。もうありませんと嘘をつこうとしたそのとき、さっき見送った"話題"を思い出した。 及川のサーブが好きなこと。セッターというポジションが好きなこと。 私は後者を話すことに決めた。好き、の焦点をポジションにずらせば、いくらか楽に口を動かせるはずだ。我ながら名案だと思った。 「先輩はセッターだから、好きです。私、セッターが好きなんです」 「……へえ」 なんで?と及川は静かに聞いた。私はもう一度唇を舐める。この質問には、すらすら答えられる自信があった。答えはずっと私の胸にあったからだ。飛雄について話すのと同じくらい自然に、私はセッターへの思いを言葉にできる。 「セッターの出すトスを見てると、わくわくするんです。攻撃によって、ボールは全く違う動きをするでしょう?ゆっくり放物線を描いたり、目で追えないくらい速かったり。きっとそのときそのときで、ボールへの触れ方が違うんですよね。やっぱり手に繋がっちゃいますけど、優しく掬ったり、強く叩いたり、たったひとつのこの手が、コートの上でどんな風に変わるのかを想像したら、セッターって凄、 ッ」 突然、及川の手が私の手を強く握った。痛いくらいの力に潰されて、私は目を見開く。顔を上げると同時にぐいと手を押され、勢いで体が傾いた。倒れないよう、反射的に片足を引く。背中と後頭部が塀にぶつかって、痛みに顔が歪んだ。 及川はぎりぎりと私の手を潰しながら、不自然に見開かれた目で私を見下ろしていた。熱い手のひらから震えが伝わる。 「もういいよ。もういい」 何が"もういい"のか、私にはわからなかった。これ以上喋るなということなのか、他の意味が込められているのか。普通に考えれば前者だが、及川の表情を見るととてもそれだけとは思えない。おそるおそる手を引くと、拍子抜けするほど簡単に彼の手から逃れられた。じんじん痺れるその手をもう片方の手で庇いながら、視線を斜め上に向ける。直視した先の彼は未だに目を見開いていた。そうでもしなくては目から何かが落ちてしまうから、その何かを堪えようとしているような表情だ。不安定に揺れる瞳、わなわなと震える唇。何もかもが、普段の及川とはかけ離れていた。 揺れる。及川の瞳と、私の心が、揺れる。 「……先ぱ」 呼びかけた瞬間、及川の手が蛇のように動いた。あっという間にそれは私の口を塞ぎ、それに動転しているうちに今度は顔が近づいてくる。ほとんど覆いかぶさるような体勢を取られて、私の視界は暗くなった。間近でゆっくり動く及川の瞼が、嫌悪に満ちた瞳を覆い隠す。次に及川が目を開いたとき、私を射抜くその視線の鋭さに私は肩を震わせた。及川の手のひらに自分の唇が触れていることなど、気にしていられないような毒々しい視線だった。 「このまま黙って家に入って。今日はたくさん話してくれてありがとう。楽しかったよ」 あまりにも皮肉めいた言い方に絶句する。元から凍りついていた口が、今の言葉で完全に機能しなくなった。及川の言葉は脳内で真逆の意味に変換されたが、そっちのほうがよっぽどしっくりくる。私が頷くと、及川はすっと手を離した。 混乱したまま家の門を通り、五段だけの階段を上る。鍵のかかっていないドアを開いて中に入り、後ろ手にそれを閉めた。その音を聞きつけてキッチンから叫ばれた母の「おかえり」の声が、とても遠く聞こえた。 は、と息をついて玄関に座り込む。混乱が頭に渦巻いていた。どうしてあんなに怒っていたんだろう、私は何を言ってしまったんだろう。会話のひとつひとつを思い出してみる。手の話。セッターの話。このあたりから、及川の様子が変わった。 及川に握られていた手を、もう片方の手でさする。一瞬、折られることを本気で覚悟した。実際あの人の握力があれば、私の手の骨など簡単に砕くことができただろう。 ……バレーの話をしたのが、まずかったのかもしれない。及川はバレーにプライドを持っている。セッターだって、誇りをもってやっているはずだ。それを私みたいな素人が、手がどうとかそういうつまらない話と繋げて、勝手な考えをぺらぺらと語って。それに腹が立ったのかもしれない。逆鱗に触れるようなことを、言ってしまったのかもしれない。 及川の練習を見学に行った日の帰り道で、及川が一度声を荒げたことを思い出した。あのときも私は、バレーの話をした。 「……ごめんなさい」 聞こえるわけがないのに、無意識に呟いていた。目を閉じると及川の引きつった顔が浮かび上がった。 あの人は私の心を読んでくれるのに、私はあの人の心が読めない。読めないだけでなく、察しようともしていない。その結果こうやって、傷つけてしまった。 傷つけて。 私は手で顔を覆った。その事実が、あまりにも重かった。私は正直、驚いたのだ。度胆を抜かれた。及川があんな顔をするなんて、あんなに傷ついた顔をするなんて、私は思ってもみなかったから。 なまえが家に入るのを見届けてすぐ、及川は踵を返した。月明かりに照らされながら、元来た道を足早に戻る。 「おっと」 角を曲がった先にいた人とぶつかりそうになって、及川はわざとらしく立ち止まった。真っ黒なその姿を瞳に映し、すっと口角を上げる。 「あっれートビオちゃん。いつからいたの?」 「……ずっといましたよ」 「えーじゃあもしかして、見てたかなあ。俺がなまえちゃんにしたこと」 何気ない口調で問いかける及川の目は、三日月のようだった。欠けて欠けて、今にも無くなってしまいそうな細い三日月。これは及川にとっても賭けだった。なまえに覆いかぶさったあの数秒の動作を、影山がどう捉えているか。及川の思惑通りに捉えられていなければ、わざわざここまで来た意味がない。 「さあ。暗かったので」 及川の手が拳を作る。強く握りすぎて、それはかすかに震えていた。 「お前もなまえちゃんも本当に……嫌になるくらい素直だね。可愛くってしょうがないよ」 及川は影山の隣を通り抜けた。そのまま一切振り向かずに歩いていく。眉間にしわを寄せた影山もまた、及川に目を向けることなく歩き出した。 14.07.31 |