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電車の揺れがいつもより激しい気がする。一際大きな一揺れで、隣に立っていた女子高生がこっちに倒れかかってきた。重くて、しかめっ面になる。「国見くん、ごめん」と謝ってきたそいつの顔をよくよく見てみればクラスメイトの女子だったから、小さく頷いて返した。

なんだよこの電車、混みすぎだろ。

もしも金田一が隣にいたら、俺はとっくにそう言ってる。だけど今の俺は生憎ぼっちで、しかもそばにいるのは一刻も早く視界から消えて欲しい二人で。さっきからちらちら俺を見てること、気づいてないとでも思ってんの?

ちら。また一つ視線が流されて、苛立ちが膨らんだ。あー、早く駅に着いてくんないかな。



苛々の原因は、そこに立ってる元チームメイトの二人だ。二人の発した影山への悪口は、最後の部分だけ聞こえた。そこしか聞かなかったのが悪かったのかもしれないし、全部聞いてもやっぱり苛々したかもしれない。

『俺たちがバレーやめたのだって、あいつがチームにいたからっての大きいよな』

この言葉を聞いて、俺は足を止めたんだ。声の主にはすぐに思い至ったし、"あいつ"が誰を指しているかも簡単にわかった。だけど、おい、ちょっと待てよ。もう一人の相槌に、俺は目を見開いていた。

『ああ。セッターが影山じゃなけりゃ、こんな風に心折られることもなかったわ』

は?

と、声が出なかったのが不思議なくらいで。俺はぽかんと口を開けて奴らを見た。そこで、その後ろにみょうじが立っていることに気付いたんだ。だけどそんなことはどうでもよかった。二人の理解不能な言葉だけが、わんわんと脳内で響いていた。

え、お前ら、影山のトス打ったことないだろ?

言葉が口をついて出そうになる。二人は部内でも問題視されていたサボリ魔だった。サボり癖が出始めたのは二年の冬からで、つまり最高学年になってもベンチ入りさえできないとわかってから部活に来なくなったわけだ。同じような奴はいっぱいいたのに、あいつら二人だけが早々に逃げ出した。

あいつらにはあいつらの考えがあったんだろうと思う。辛かったのかもしれないと思う。だけど、中二の冬までの練習量を計算すると、「やる気がない」と監督や影山に散々怒鳴られた俺でさえ、奴らの倍にはなったはずだ。

影山のトスは、限られた奴しか打てないものだった。打てないどころか、打たせてもらえないもの、だった。ある程度の実力がないと、はなから影山のトスを打つのは不可能だと切り捨てられて、別のセッターのトスを受けることになっていたんだ。俺は何度、そっちのほうがいいと思ったかしれない。打てもしないトスを受け続ける練習より、打てるトスで練習したいと思うのは当然だろ?だけど今思えば、影山のトスを打つ場所に立てるっていうのは、きっと、それだけで大きな名誉だった。その場所を欲した仲間が、何人も何人もいたはずだ。

俺は、影山に折られた選手を大勢見てきた。あの二人のように口先だけでそれを語るんじゃなく、むしろ口をつぐんで、絶望の色で目をいっぱいにして去って行った奴を、何人も知ってる。影山のトスに合わせられないせいでスタメンを下ろされたり、キツすぎる非難に堪えかねて心を壊したり。俺や金田一のように最後までコートに立ち続けた選手もいるんだから、つまりはそいつらが弱かっただけの話だ。

だけど、そう言って切り捨ててしまいたくない。俺はそいつら一人一人を、仲間だと思っているから。ほんの少し何かが違えば、俺がそっち側だった。


「国見、……じゃあな」


突然呼びかけられて、俺は二人の方を向いた。俺の降りる駅はもうひとつ先だけど、こいつらはここで降りるらしい。二人は怯えるような目をしていた。なあ、お前ら一体、何に怯えてんの?俺が何を言うと思ってんの?

電車がそろそろ止まる。俺が二人を代わるがわる見ると、二人は目を逸らした。

……なんなの?なんでもっと堂々としてられないわけ?影山に心折られたって、俺に真正面から言ってみろよ。

そうぶちまける代わりに、「ああ、バイバイ」と言って二人から顔を背けた。それ以上何も言う気になれなかった。だってつまりはそういうことだろ、こいつらだってわかってるんだ。自分たちが影山に責任を押し付けて、逃げてるだけだって。俺の中でそう答えが出てるのに、わざわざ文句を言う必要はない。

電車を降りていく二人の背中は俺が覚えてるよりも随分大きくて、時間が経ったことを感じた。俺の中で、あの二人は中二の冬のままだ。そのあとあいつらがどこで何をしてたか、俺はよく知らない。

俺が知らないくらいだから影山が知ってるはずもなくて、もしみょうじがあのまま口を開いていたらそのあたりを叫ぶことになった気がする。飛雄はあんたたちなんて眼中になかったよ、とかなんとか。みょうじなら、というより影山を貶されたみょうじなら、それくらい言いかねない。

懐かしい中学時代。あの二人のせいで、記憶がどんどん蘇ってくる。馬鹿馬鹿しいくらい、部活一色の中学時代だった。

あの頃は部活、辛かったな。

唐突な自分の声に驚いて、つり革を握る手に力がこもる。今俺、何、考えた。辛かった?部活が?

『……国見、辛くないの?』

みょうじの問いを思い出してはっとした。今の今まで忘れていた、それを言われたことを。あれは確か、中三の春だった。県予選会場の通路で、ばったりみょうじに会ってしまったんだ。二回戦、大勢の観客の前でこっぴどくアイツに怒鳴られ続けた俺に、みょうじはそれを聞いた。微妙にうつむきながらもその大きな目で俺を捉えて、色の薄い唇を動かしたんだ。

頭が真っ白になった。大袈裟かもしれないけど、ほんとにそうなったんだ。みょうじの言葉だけがそこにあって、何度も何度も繰り返された。

『毎日の練習が』辛くないのとか、『二試合連続は』辛くないのとか、いくらでも解釈はあったはずだ。それなのに俺の脳は、敏感にみょうじの意図を汲み取った。『あんなに怒鳴られて』辛くないのと聞いたんだと。俺は咄嗟に答えられなかった。答えようと思うのに口から声は出なくて、代わりにあちこちから汗が噴き出した。腹の底が震えるような感覚。あまりの激情に、鼻の奥がつんとした。

言ってやりたかった。辛いとか、辛くないとか、そんなことを気にしてられない場所に俺たちは立っているんだと。

みょうじという奴は、どうしようもなく部外者だった。スポーツも、バレーも、北川第一というチームも、俺も、おそらく影山さえも、何一つわかってないくせに、上辺だけ見て不要な同情を寄せる奴だった。辛いわけ、ないだろ。辛いに、決まってるだろ。どっちが俺の本音なのか。監督は多分知ってた。金田一も知ってた。その上で何も言わなかった。それなのに、あいつは、あいつは――――


「あ、国見」


ぱちんと回想が弾けた。今度は後ろから呼びかけられ、意識が今に戻ってくる。いつの間にか歩道を歩いていた。駅がとっくに見えなくなっている。

いや、そんなことはどうでもいい。今の声。今、俺の名前を呼んだ声。なんでよりによって、こいつがここに。


「……影山」


かなり迷った末に振り向いた。立っていたのは紛れもなく影山で、一体どこから現れた、タイムリーすぎんだろ、と思考がぐるぐる回る。同じ中学に通ってた俺たちはそれなりに家も近いわけで、帰り道で出くわす可能性はゼロじゃない。だけど、高校に進んでからこんな遭遇をするのははじめてだった。こっちは妙に緊張してるっていうのに、あっちはいつもと変わらないしかめっ面だ。


「…………」
「…………」


沈黙。金田一なら何か言ったかもしれないけど、生憎俺はそういうタイプじゃない。元々仲が良いわけでもなかったから、「久しぶり」とも言えないし、「元気か」とも聞けない。まあ仲が良かったとしても、そんな定番中の定番の言葉はかけなかった気がするけど。


「止まるぞ」
「……は?」
「このまま行くと追いつくだろ」
「誰に?」


影山が顎で指した先は、結構離れたところにある横断歩道だった。信号が赤く光ってるのが、真っ先に目にとまる。次に、人影が二つ、視界に入った。どうも、信号が変わるのを待ってるらしい。シルエット的に、たぶん男と女。遠い上に暗いから、顔が見えない。


「誰?」
「及川さんとなまえ」
「うわ」


勝手に口を突いて出たその声は結構大きくて、男――影山によると及川さんらしい――がこっちを見た。女はなぜか頭を抱えていて、周りの音を聞く余裕はないみたいだ。ボゲ、と影山が俺を小突く。俺はその手を払いのけた。

及川さんの顔がみょうじに向き直ると同時に、無駄に緊張していた俺ははあと息をつく。……いや待て、なんで俺があの二人から隠れなきゃならないわけ。影山につられていつの間にか止めていた足を、踏み出そうとしたそのときだった。

及川さんがみょうじの前に手のひらを差し出した。「ちょうだい」って、何かをねだってるみたいに見える。みょうじは固まってしまって、ちっとも動かない。俺の隣で影山が、そんな二人を凝視していた。俺の足はまた止まった。

スローモーション映像かとつっこみたくなるような速度で、みょうじは自分の手を持ち上げた。手の向かう先は、どうやら及川さんの手のようで。ゆっくり、じれったくなるほどゆっくり、みょうじの手は進んでいく。信号がぱっと青に変わり、俺の目は反射的にそれを捉えた。二人に目を戻したとき、すでにその手は繋がっていた。

及川さんがみょうじの手を引いて横断歩道を渡り始める。みょうじはなんだか頼りなさげな足取りだった。思わず「大丈夫かよ」と呟く。二人の関係が、恋人として手を繋ぐほどに良好だとはとても思えない。だってこの前、他でもない俺がうっかり言っちゃったんだから。よりによってコイツの話を。

俺はちらりと、苦虫を噛み潰したような顔で立ち尽くしてる影山を見た。


「……すごいショックみたいだな」
「あ?」
「やっぱ悔しいわけ?みょうじが及川さんにとられるの」


興味本位で聞いてみた。前々から気になってはいたんだ、影山がみょうじをどう思ってるのか。みょうじが影山をなんとも思ってないのは去年のあいつの行動から明らかだけど、影山のほうは。みょうじの元カレに対し、殴りかかるほどの怒りを向けた影山は。


「いや?別に」


すっと肩から力が抜ける。俺が脱力してしまうほどに、影山の返事は簡単だった。言い方から、ていうか影山だからっていうのもあるけど、嘘をついてるとは思えない。影山は本当にあの二人のことをなんとも思ってないんだ。…でも、それならなんでそんな顔してるわけ?

それを聞くと、影山はしばらく考えてから口を開いた。


「お前、親がキスするところ見たことあるか?」


あまりにもぶっ飛んだ質問に、思わず吹き出した。影山の口からキスというワードが出てきたことへの違和感がすごい。影山が真面目な顔をしてるもんだから、ますますおかしく思える。声を震わせながら答えた。


「あるけど」
「しょっちゅう?」
「いや、二回くらいしか見たことない」
「そのときどう思った?」
「…………"うわ、他所でやれよ"」
「それだよ。そういう気分」


……こいつはほんとに影山か?あまりにもわかりやすい例えで、正直驚いた。

影山は確か一人っ子だ。だから親という例えを使ったんだろうけど、俺には歳の近い姉がいる。その姉が彼氏と手を繋いで歩いているのを、この前街で見かけた。なんとも言えない気持ちになった。姉ちゃんもあんな顔するんだとか、うわー見たくなかったとか、人前で手なんか繋いでんなよとか。うん、悪い方の感情が大きいな。

影山は今、そういう気分なんだ。納得すると同時に、及川さんへの同情が生まれた。あの人は俺になんか同情されたくないと思うけど。

みょうじと付き合ったって、みょうじと手を繋いだって、たぶんそれ以上のことをしたって、影山は動じない。影山はみょうじを女として見てないから。いや、見てるんだろうけど、そういう対象として見てない。

さっき、及川さんがしたこと。俺たちを見てから、みょうじに手を差し出した。手を繋いで、歩いていった。たぶん、いや絶対、あれは影山に見せつけたんだ。影山を悔しがらせたかったんだ。……失敗してるけど。

ふと、ひとつの考えが浮かんできた。みょうじを恋愛対象として見ていない影山への、唯一の攻撃手段。


「みょうじが傷つけられたら、どうするんだ?」
「あ?」
「前の奴みたいなことを及川さんがしたら、お前、やっぱり怒んの?」
「当たり前だろ」


即答だった。どうやら聞くまでもなかったようで。影山はギラギラした目で俺を射抜き、いつもよりドスの利いた声で言う。


「なまえが誰と付き合おうと俺には関係ない。だけど、そいつがなまえを傷つけるなら、俺が絶対に許さねえ」
「……及川さんは、」
「あの人は大丈夫」
「は?」
「及川さんは、大丈夫。ちゃんとなまえに惚れてるから」
「なんでそう言えんの?」
「俺に、なまえに近づくなって言ってきた」


俺は口を半開きにして影山の視線を受け止めた。そんなこと直接言ったのか、あの人。みょうじと付き合うだけじゃなく、色々手を回してたんだな。……じゃねーよ、ちょっと待て。

俺がつっこみを入れるより早く、影山の話は続いた。


「他の男に近づいて欲しくないってことは、相当惚れてんだろ。及川さんは、大事なものはとことん大事にする人だから大丈夫」


本当に"他の男"なのか?そう聞きたくなったけど、影山は答えを知らないだろう。むしろそれを知っているのは俺の方だ。及川さんがみょうじに近寄って欲しくないのは影山だけで、他の男はどうでもいい。これが答えだ。

影山が歩き出した。並んで歩きたいとはちっとも思わないけど、進む方向が同じだから結局一緒に歩くことになる。金田一には絶対見られたくない、と思った。こいつと仲良く喋ってるところなんて、見られたら死ぬ。もちろん仲良く喋ってなんかいないけど。

……"仲良く"喋ってはいないけど、喋ってはいる。歩調が合うのは身長が変わらないからだろうけど、横に並んでいる。

不思議な気分だ。影山と、こうも気楽に話ができるなんて。それこそはじめは緊張したが、今は別にどうってことない。影山は俺のことを嫌ってるわけじゃなかったんだな、なんて柄にもないことを考えた。それと同時に気づく。

俺も、影山を嫌っていない。

「あ」の形に口が開いた。声は出なかった。吐息だけが漏れて、空気を震わせないまま消えた。足元から何か大切なものが崩れていくような感覚が、俺の中にあった。

気づきたくなかった。気づかなくてよかった。影山を、嫌いでいたかった。

蘇る声の数々、かつての部活の記憶。何度も叫ばれた「もっと速く動け」、動かなかった俺。仕方ないだろ、無理に決まってるだろ、お前の命令になんか従うか。俺はお前が嫌いなんだーー言い訳して、諦めて、逃げた。影山から逃げ、挑むことから逃げたんだ。

こんな結論に、辿り着きたくなかった。逃げたのは自分だなんて、思いたくなかった。


「国見、じゃあな」


駅で出会った元チームメイトと同じことを、同じく元チームメイトであるこいつが言う。横断歩道を渡り終えて、影山は直進、俺は左折だった。手を上げることもなく、にこりと笑うわけでもなく、会話の一部のように別れの挨拶をする影山。

俺は口を開く。影山の目を見て、単純な言葉を搾り出す。最後にこいつにこの言葉をかけたのは、いつだったっけ。思い出せない。思い出せないほど、昔のことだ。


「バイバイ、影山」


影山の口角が、ほんの少しだけ持ち上がった。

影山が俺に背を向けるより早く、俺が影山に背を向けてやった。ポケットから取り出したイヤホンを耳に差し込んで、黙々と足を進める。イヤホンからは確かに音楽が流れているのに、今俺の頭を埋め尽くしているのは、四月の練習試合のあとに金田一が影山に言った言葉だった。あのときの金田一の思いが、今は痛いくらいに理解できる。「何話してたの」なんてとぼけてみたけど、ほんとは扉の向こうで聞いていたんだ。


「……謝んねえよ、俺も」


呟きは俺の耳にさえ届かず、春の空に吸い込まれて消えた。


14.07.30