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なまえちゃん先どーぞ、と促されて及川より先に改札を通る。後ろをついて来た及川が、ねえ!と突然声を張り上げた。


「これ、付けてくれたんだ」


改札を抜け、隣に並んでからも及川の視線は私の背後に注がれている。何のことを言っているか、すぐにわかった。月曜日に及川からもらったストラップを、私はリュックのファスナーに付けていたのだ。


「はい。気に入ってます」
「ね、さすが俺のチョイスでしょ」
「……そうですね」


小声で肯定すると、及川は満足そうに笑った。私は目を伏せ、さっさとホームに向かって歩く。青城生でごった返したそこに割り込み、頭上の電光掲示板を見上げた。電車が来るまで、あと十分。


「で、なんでこんな時間まで残ってたの?」
「あ、体育祭準備があって」
「なーるほど。なまえちゃん何係?」
「小道具です」
「ふうん、なまえちゃんっぽいね」
「どういう意味ですか?」
「目立った役じゃないデショ、小道具係って」
「……そうですね。確かにそれが、小道具に決めた理由のひとつです。あ、そういえば国見も小道具ですよ」
「国見ちゃんも!?うわ、小道具っぽい」


及川はおかしそうに笑った。そういう先輩は何係なんですか、と聞き返そうとしたとき、私たちの前に立つ青城生の会話が耳に飛び込んできた。


「昨日久しぶりに影山見たわー」
「影山飛雄?」
「そうそう、マックでばったり」
「うわーそれどうなったよ」


私は硬直した。及川のことが頭から吹っ飛んだ。目の前にいる二人が誰か、瞬時に認識する。北一でバレー部に所属していた二人だ。青城でも続けているかは知らないが、私が一度見に行ったあの日、体育館にはいなかった。

二人は万年、スタンド応援組だった。私がバレー部の試合を見に行くようになったのは飛雄が公式戦に出始めた二年からだが、彼らはそのときも、三年になってからも、ずっと私と同じスタンドにいた。メガホンを握って派手な音を立てている姿を、私は何度も見た。


「隠れた」
「隠れたのかよ」
「だって顔合わせたくねーじゃん?」
「まあそうだけどな。あいつぼっちだった?」
「いや、フツーに友達といたよ。びっくり」


何がびっくり、だ。中学時代だって、飛雄には"フツーに"友達がいた。バレー部内に仲間ができなかっただけで。あんたたちが仲間になってあげなかっただけで。


「部活仲間かな?」
「いやそれはなくねー?影山と同じ部活にいて友達になるとか、無理だろ」
「言えてる。あいつ今もバレーやってんのかな?」
「そりゃそうさ。天才の王様だぜ?」


天才。王様。一言一言に嘲笑を込める彼らが、心底飛雄を嫌っていることは伝わった。ここを離れたい、これ以上聞きたくないと思うのに、足に根が生えたように動けない。


「もうスタメンかなー」
「きっとな。三年からスタメン奪って、楽しく独裁やってんだろ」
「独裁酷かったよなー。打たせる気ゼロ」
「俺たちがバレーやめたのだって、あいつがチームにいたからっての大きいよな」
「それそれ。セッターが影山じゃなけりゃ、こんな風に心折られることもなかったわ」
「今チームメイトやってるやつらカワイソー」


気づけば爪が手のひらに食い込んでいた。不思議と痛みを感じない。私はさらに強く拳を握りしめた。そうでもしないと、手が動いてしまいそうだった。

賑やかな女子高生集団がホームに下りてきて、人が少し奥へと流された。私も彼らも例外ではなく、数歩足を動かした。二人のうちの一人が、不機嫌そうに後ろを見る。私と目が合って、彼は口をぱかりと開いた。


「みょうじ」


ああ私のことを覚えていたの、と他人事のように感心した。私はこの二人のことをほとんど知らない。二人もまた、私を飛雄の幼馴染としてしか認識していないだろう。私は飛雄の幼馴染だったから彼らと出会い、彼らはバレー部員だったから私と出会った。飛雄がいなかったら、私たちは知り合いですらなかったはずだ。

とてもとても笑えそうにない激情を押さえつけ、顔に笑みを貼り付ける。久しぶり、と白々しく返した。私は何も聞いてない。何も聞いてないから、さっさと前を向いて。

相方の言葉を聞いたもう一人が驚いたように振り返り、その瞳に私を映した。にっこりしている私を見て、あからさまにほっとする。愛想笑いを浮かべ、軽く口を開いた。


「六組だよな」
「うん。二人とも、青城だったんだね」
「おう」


この世間話を、今すぐやめたい。溜め込んだ怒りが噴き出しそうだ。これだけ白熱した頭を抱えて、静かな声が出せるのが不思議なくらいだった。すっかり油断した目の前の男が、くだらない"世間話"を続ける。唯一の"共通の話題"を、間をもたせる手段として舌に乗せる。


「影山、元」
「元気だよ」


声の質が違うことに自分でも気づいていた。そいつが飛雄の名を口にした瞬間に抑えていた怒りが全身を駆け巡って、笑みを保つ余裕がなくなった。あれだけ酷いことを言っておいて、よくも平然と話のネタにできるね?私は自分の表情もわからないままに口を開き、燃えたぎる怒りを吐き出そうとした。


「みょうじ」


第三者の冷え切った声が飛び込んできて、私は口を開いたまま固まった。頭がすーっと冷えていく。いつの間にか私の横に立っていた国見が、氷のような目で私を射抜いていた。


「お前、部外者だから。余計なこと言わないでくんない」


余計なこと。余計なこと、って、何。国見はいつからここにいたの。どこから話を聞いていたの。私が何を言うと思ってるの?どの部分について、私を部外者だと思ってるの?たくさんの思いが一気に湧き出てきて、唇が動きそうになる。国見の冷たい瞳と、私の熱い瞳が互いを映しあった。


「…………飛雄は元気にやってるよって、言おうとしただけだけど」


ゆっくりと拳を開き、私は笑みを作った。少し首を傾げて、国見の反応を待つ。国見は無言で私を見下ろしていた。その目がすっと動いてそばに立つ二人を捉え、今度は彼らを凍りつかせる。三人は元チームメイトのはずだ。それなのに、この険悪な雰囲気はなんだろう。

沈黙を破ったのは、なんと及川だった。なまえちゃん、とこの場に似合わない明るい声で私を呼び、にっこり笑って少し離れたところにある自動販売機を指差す。及川の存在をすっかり忘れていた私は声をかけられただけで飛び上がって、ぎくしゃくしながら彼に顔を向けた。


「喉乾いちゃった。なんか買おうと思うんだけど、ついて来てくれる?」
「……はい」


じゃあね、と手を振って他の三人と別れた。人混みをかき分ける及川についていく。及川は自販機の前までたどりつくと、鞄から財布を取り出した。


「いいですよ、買わなくて」
「ん?」
「喉乾いたっていうの、嘘でしょう?わざわざお金出してまで、芝居してくれなくていいです」


及川は意外そうに私を見た。鞄に財布をしまう。


「キレたこと、認めないと思ってた」
「……キレてはいません。ちょっと腹が立っただけで」
「いーや、あの顔はキレてたね。びっくりしたもん。なまえちゃん、あんな顔できるんだなって」


私は目を逸らした。及川とともに、別の車両の列の最後尾に並び直す。


「どうせ誤魔化しても、先輩はずかずか踏み込んでくるから」
「誤魔化されてやろうと思ってたのに」
「……じゃあ誤魔化せば良かったです」
「そうだね。なまえちゃんはまだまだ、俺のことをわかってない」


からかうような口調。私はむっつりと前の人の背中を見続けた。狭いせいで、及川との距離がとても近い。顔を上げればすぐそこにいるとわかっていた。


「影山飛雄、なまえちゃんの知り合い?」
「……そうです。そういえば、先輩の知り合いでもありますね」
「うん。半年、一緒にバレーやってたよ」
「先輩も飛雄が嫌いですか?」


及川の返事が遅れた。私たちの沈黙を裂いて、周りのざわめきが耳に流れ込んでくる。


「嫌いじゃないよ」
「好きでもないってことですね」
「なんでそう思うの?」
「北一のバレー部にいて、飛雄を好きだっていう人に会ったことがないからです」


私は淡々と言い切った。これを口に出すのははじめてだった。


「国見も飛雄が嫌いです」
「そうなんだ」
「国見は私に、直接それを言ったんです。はじめは、酷いって思いました。飛雄はちゃんと頑張ってるのに、天才だからって僻んで、酷いって。でも、試合見に行ったら、何も言えなくなっちゃって」


及川は何も言わなかった。前を向いたまま、私はうっすらと微笑む。それは自然に顔に浮かびあがった表情だった。


「飛雄が私に言ったことがあるんです。国見はバレーが嫌いなのかもしれないって。点入れたって勝ったって、全然楽しそうじゃないって。私、呆れました。あれだけ頭ごなしに怒鳴り散らされて、楽しそうな顔できたらそっちのほうがおかしいじゃないですか。スタンドまで内容が聞こえるような怒鳴り方しておいて、飛雄にはその意識がないんです。どうしてチームのみんながついて来ないか、わからないんです」
「……飛雄らしいね。頭の中に、バレーボールしかないんだ。プレーする人のことまで、頭が回らない」
「そうです。さすが先輩ですね」


及川が私を見たのが、上半身のわずかな動きでわかった。きっと、意外そうな顔をしている。純粋に褒めることなんて滅多にないからだ。


「飛雄のトスが、"ムチャブリトス"って言われてたの知ってますか?」
「ああ、金田一がそんなこと言ってたかも」
「あれ、私は違うと思うんです。無茶なのはトスより、思考です。ぶっ飛んでるのは思考です。だからあんなことになる」
「あんなことって?」
「チーム内で孤立する、ってことです」


はじめてだ、本当に。口に出して認めるのがはじめて。ありのままの思いを、ずっと閉じ込めてきた思いを、今は素直に吐き出せた。


「国見の言った通り、私は部外者です。バレー部と何の関係もないです。だから、飛雄がどんな風にあの人たちを傷つけたのか知らないし、あの人たちがどんな風に飛雄を傷つけたのかも知らないんです。さっきみたいに影で交わされる悪口を聞いて、ああほんとに飛雄は嫌われてたんだな、って思うだけです」


そしてその度に、苦しくなる。もう済んだことだと、過去のことだとわかっていても、その事実が辛いのだ。飛雄は烏野でいい仲間ができたようだし、国見だって青城で"楽しく"やっている。国見については完全に予想でしかなかったが、及川が主将なのだからきっといいチームだ。あの日の体育館の雰囲気からわかる。

進めていないのは、部外者の私だけだ。私が進めないのはきっと、本質を知らないからだ。何も知らないからこそ情報に振り回されて、ただ不安になっている。国見や他のチームメイトが飛雄をどう嫌っていたのか、私は知らない。セッターとしての飛雄が嫌いだったのか、チームメイトとしての飛雄が嫌いだったのか、影山飛雄そのものが嫌いだったのか。私は知らないし、さっきのように当事者を目の前にしたって、聞いてみる勇気もない。


「なまえちゃんって飛雄とどういう関係?」
「あ、幼馴染です」
「フーン。なまえちゃん、飛雄のことめちゃくちゃ好きでしょ」
「……そう見えますか?」
「うん。俺の前でこんなに長く喋ったの、はじめてだし」


私は黙り込んだ。そういえばそうかもしれない。だが、それは元々溜め込んでいた思いだったからだ。ほとんど独り言のように、すべてを吐き出しただけ。その場その場で考えて話さなければならない及川との会話とは、根本的に違う。そう伝えようと思うのに、すぐには言葉がまとまらなかった。


「……えっと」
「飛雄が羨ましいなあ。こんなに愛してくれる子がいて」


おどけたように及川が言ったとき、電車がホームに入ってきた。人が動き、私たちも流される。私は最後の最後まで、及川の顔を見なかった。


14.07.10