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五月十八日金曜日。いつもより早く目が覚めて、重い瞼を押し開きながらベッドを出た。カーテンを開けて朝日を浴びる。真向かいの玄関に視線を落とすと、ちょうど飛雄が出てきたところだった。

窓を開け、私に気づかず遠ざかって行く背中に向かって叫ぶ。「飛雄」と寝起きの舌ったらずな声があたりに響き、飛雄が振り返った。

飛雄はまず私の家の玄関を見た。そのあと二階の窓を見上げ、そこから顔を出す私に気づく。私はもう一度声を張り上げようとしたが、その前に飛雄が目を逸らした。母のある言葉を思い出して、喉に声が引っかかる。


「……朝練、頑張って!」


飛雄の視線が戻ってきて、右手がすっと上がった。私も手を上げて、ぶんぶん振って返す。飛雄が角を曲がるまで、私はその背中を見つめていた。

飛雄と顔を合わせるのは久しぶりだった。ビールを持ってきた日からずっと、つまり約二週間、飛雄はうちに来ていない。私もまた、飛雄の家に行っていなかった。飛雄とはしょっちゅう夕食をともにしているが、それは定期的ではない。一ヶ月に一度のときもあれば、週に三回のときもある。私の母と飛雄の母が二人とも、日によって帰宅時間の変わる仕事をしているからそうなるのだ。父親はどちらも帰りが遅い。

この程度離れていたくらいで寂しくなるような仲じゃなかったし、会えないことに疑問や不満もない。ただ、昨日母が夕食の席で言った言葉が、頭に引っかかっていた。

「なまえ、飛雄くんと喧嘩でもしたの?」

母はそう聞いてきたのだ。何のことかわからず首を傾げる私に、母は心配そうな顔で続けた。どうやら飛雄が私を避けているらしいと。



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「ミカ、今日の放課後、小道具係集まって欲しいって」
「うう〜ん、無理!部活ある!」
「だよねえ」


昼休み、顔の前で片手を立てながら困ったように笑うミカに、私も同じ笑みを返した。ミカはクラスで一番仲のいい女の子だ。ソフトテニス部に所属して熱心に活動しているのは知っていたから、この答えがくるのはわかりきっていた。


「なまえ行くの?」
「うん、私帰宅部だし。ミカの分まで働くよ」
「ごめんー!ありがとね。チーフの先輩にも謝っといてくれる?」
「おっけー」


頷いてミカから離れる。そしてちょうど廊下から教室に戻ってきた、同じく小道具係の国見に歩み寄った。

小道具係、というのは体育祭の係のことだ。体育祭は来月の第二土曜日で、あと三週間ほど時間がある。三週間という時間は長いとも短いとも取れるもので、大体の人は体育祭を意識していない。特に運動部員は、六月のはじめに行われる大会に向けての練習で手一杯のようなのだ。

この学校の体育祭は、クラスの数字ごとに連合が作られる。国見や私がいる一年六組は、六連合になるわけだ。各係のチーフは三年生が務め、四月から準備に取り組んでいるらしい。全体での顔合わせは先週したばかりで、そのとき私は小道具チーフとメールアドレスを交換した。一年生の代表として、チーフの連絡を受け取る役になったのだ。帰宅部であることを理由に引き受けた。周りの目も私を指名していた。

チーフと直接コンタクトを取ってしまうと、どうも呼び出しを断りづらい。他のメンバーが行かない分出席しなければという気持ちもあった。私だって本当は、早く帰ってピアノの練習をしたい。だけど、ピアノは夜でも弾ける。放課後や朝にしかできない部活が優先されることは当然だし、異議はない。


「国見」
「何」
「今日、小道具係の集まりあるけど」
「無理。部活」


素っ気なく答える国見に対しても、苛立ち一つ感じることなく「だよね」と笑うことができる。国見の眉がぴくりと動いたが、私は「チーフに伝えとくね」と言ってすぐにそこを離れ、タイミング良く隣を通った別の小道具係に声をかけた。



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小道具係の五人全員と話をしたが、誰も予定が空いてなかった。指定された二年六組の教室に一人でやってきた私を、四人の先輩が出迎えてくれる。真っ先に近づいてきたのはチーフだ。


「一年生、君だけ?」
「はい。みんな、部活で」
「そっか……。二年生も、二人しか来られなかったんだよね」


彼はすっかり弱った顔をして、後ろに立つ女の人二人に目を走らせる。どうやら二人は二年生のようだ。


「まあ仕方ないだろ、こんな時期なんだしさあ。やれるやつらでやろうぜ」
「そうだな」


チーフの隣に立つ男の人が、ぽんとチーフの肩を叩いた。きっと三年生だろう。チーフは励まされたように頷いて教壇に私たちを手招きし、指示を出し始めた。今日の作業は、応援で使うポンポン作りだ。ひっくり返した椅子の脚にすずらんテープを巻きつけ、中央を縛って両端を切る。そして裂くだけ、だそうだ。すぐに作業に移った。

二年生二人は、何やら楽しそうに雑談しながら手を動かしている。三年生二人も同様だ。なんとなく肩身が狭い思いで、私は黙々と作業を進めた。

一時間過ぎ、二時間過ぎ。三学年分のポンポンを作るのはなかなか大変で、今日中に終わらないことは目に見えていた。二年生二人は六時を過ぎると「家が遠いので〜」と言って帰っていった。そのときチーフは何度もお礼を言い、次もぜひと熱く頼み込んでいた。それはそうだ、この人数さえ集まらなくなれば、本当に作業が進まない。

さらに一時間過ぎ、退校時刻が迫ってきた。チーフの指示に従って、私たち三人は教室を片付ける。出来たポンポンをダンボールにしまい、床に落ちたすずらんテープの切れ端をゴミ箱に捨てた。


「おーやってるな。どんくらい進んだ?」


突然教室の扉が開いて、元気のいい声が飛び込んできた。私はびくりと振り返る。他の二人も同じ動きをしていた。入り口に立っていたのは、我らが連合長だ。チーフが疲れたように笑って返事をする。


「四分の一ってとこかな」
「んー、微妙だな。何人集まった?まさかこれだけ?」
「あと二人いたよ。途中で帰ったけど」
「うわ、やっぱこの時期人来ねえなー。衣装もパネルも全然だったって」
「みんな部活があるから…。お前はいいの?」
「わり、今日は俺も部活行ったわ。まだ応援練習始めらんねえし」
「そっか。大会近いんだろう?仕方ないよ」


今度はチーフが、"仕方ない"を口にした。隣でもう一人の三年生も頷いている。連合長は「サンキュ」と言ってからそばで突っ立っている私に目をとめ、にっと笑った。


「来てくれてありがとな!何年生?」
「一年です」
「じゃあ体育祭はじめてだな!楽しいぞ!」
「はい。今から凄く、楽しみにしてます」


私は微笑みを返し、タイミングを見て廊下に出た。お先に失礼しますと頭を下げる。チーフが扉から顔を出して、「次もよろしくね」と強い視線を送ってきた。はい、と頷き背を向ける。連合長の「じゃあなー」が背中を追ってきたので、私は一度振り返った。爽やかで明るい笑みが、私に向けられていた。

無邪気なその表情を、一瞬及川のそれと比べてしまった。彼の笑みもはじめは"爽やか"で"明るい"と捉えていたことを思い出して、形容し難い感情が胸を満たす。私は軽い会釈を返し、今度こそ玄関へ歩き出した。



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靴を履き替え、玄関を出て、校門へと歩を進めていたときだった。どこか遠くから「なまえちゃーん!」と呼ぶ声が聞こえ、私はぴたりと足を止める。及川の声だと、すぐにわかった。

きょろきょろと辺りを見回すが、暗いのと人が多いので全く見つからない。気づかなかったふりをすればいい、と思いつき、及川の声を無視して歩き出した。しかしたった三歩で、背後から肩を叩かれる。


「気づいたくせに行っちゃうなんて酷いなあ」
「……こんにちは」
「もうこんばんはじゃない?どうしてこんな時間まで学校にいるの」


答えようとしたとき、及川の両隣にずらりと背の高い人たちが並んだ。その威圧感に驚いて、思わず一歩下がる。ちょっと、怖がってるでしょ!と及川がぐいぐい押して私から遠ざけた三人は、みんな私をじっと見下ろしていた。そのうちの一人が"岩ちゃん"であることに気づいて緊張が走る。追い打ちをかけるように、端にいた男が私に向かって口を開いた。


「一年生だっけ?」
「はい」
「あーまだ若いのにねー。大変じゃね?こいつといるの」
「え、っと、少し」
「だよなあ。よく頑張ってるよ、君は」


うんうんと頷くその人は随分前髪が短い。真面目な顔を作ろうとしているようだが、悪戯っぽい目の光は誤魔化せていなかった。今度はくるくる髪の男の人がずいと進み出て私に言う。


「こいつ性格悪いからな。基本女の前では猫かぶってるけど、本性めんどくさいから気をつけた方がいーよ」
「ちょちょちょちょちょ」


及川はくるくる髪と私の間に立って、小声で言い争い始めた。及川の背中が目の前にあるので、及川とその人がどんな顔をしているかはわからない。だが、前髪の短い人が相変わらずにやにやしていることからして、ふざけあっているだけのようだ。二人とも、及川をからかうつもりで私に話しかけたのだろう。私は意味もなくにこにこして、黙ったまま成り行きを見守っていた。

この時間帯に"岩ちゃん"と歩いていることから、二人がバレーボール部員であることは検討がついた。及川との仲は良好らしい。前髪の短い人が時折口を挟み、及川をさらにあたふたさせる。しかしその声は弾んでいて、後ろ姿だけでも、及川が会話を楽しんでいることが伝わった。あの日体育館で、及川がバレー部主将の及川として見せた笑顔を思い出した。

ふと"岩ちゃん"からの視線に気づき、私はそっちを向いた。私をじっと見ていた"岩ちゃん"と目が合う。何を考えているか、全く読めない無表情。私は戸惑った。隣で笑っている三人とは、明らかに温度差がある。どうして私を見ているのかも、わからない。


「ごめんねなまえちゃん!帰ろう!」
「……あ、はい。え?今日金曜日ですよ」
「金曜日は一緒に帰っちゃだめなの?」
「だって、お友達が」
「あーいいよいいよー俺らは。及川うるさいし、ちょっと静かに歩きてえわ」
「松つん…ありがとうって言いたいけど素直に言えない。俺、別にうるさくなくない!?」
「ほらー今のとかうるさいってー」
「マッキーその目やめてもっと冗談っぽい顔して及川さん心折れちゃうから。ていうかさっきから全く喋らない岩ちゃんが心配なんだけど」
「あ、俺もそれ思ってた」
「どうした岩泉」


"岩ちゃん"こと岩泉の視線がようやく私から外れた。別に、と彼は簡単に答え、校門を顎で指す。


「行こうぜ、閉まんぞ」
「そうだな」
「じゃーな及川。と、なまえちゃん」
「うわ、なんでマッキー名前知ってんの!」
「お前がなまえちゃんなまえちゃんうるさいからだろ」
「そんなことないし!てかうるさくないってば!」


さっさと歩き始めた岩泉に続き、"松つん"と、"マッキー"が私たちから離れて行った。もーうと頬を膨らませた及川に促されて、私たちも歩き出す。彼ら三人と私たちとの間にはあっという間に距離が開いた。そこで気づく。いつも及川は、私のために随分歩くペースを落としてくれていたのだ。

及川は飛雄より背が高いように思う。つまり、百八十センチ以上ということだ。それに見たところ、人よりも足が長い。そんな及川が普通に歩けば、今は遥か遠くにいるあの三人と同じくらいの速さになるはずなのだ。歩幅が私とは違いすぎる。

だけど、及川は私の隣にいる。私と並んで歩いている。

松つんはね、マッキーはね、とチームメイトについて語る及川の声は弾んでいて、彼らへの愛がうかがえた。私は下手くそな相槌を打ちながら、じわりと熱を発する心臓をこっそり押さえつけた。


14.07.09