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また、月曜日がやってきた。昨日届いたメールに従い、今日も私は生徒玄関で及川を待っている。十五分ほど経って、ようやく及川は姿を現した。


「ごめん!進路関係の配り物とかあって」
「大丈夫です。それより、先週はお世話になりました」


頭を下げる私に、及川は一瞬目を丸くする。しかしすぐに先週のことを思い出したらしく、ああ、と頷いた。


「ちゃんと治した?」
「はい。先輩は大丈夫でしたか?」
「もちろん」


指で丸を作って笑う及川と、校舎の外へ踏み出した。他愛ない会話をしながら駅まで歩き、ホームに立って電車を待つ。話がひと段落つき二人して口を閉じたところで、及川はごそごそと鞄を探りだした。


「はい、これ」


にっと口角を上げて差し出してきた紙の小袋を、両手で受け取った。可愛げのない白い袋だ。緑で書かれた文字は、もしかして地名だろうか。私は顔を上げ、及川を見つめた。


「なんですか?」
「ゴールデンウィークのお土産!ほんとは先週渡したかったんだけど、タイミングなかったから」
「どこか行ったんですか?」
「うん、合宿でね。県外に遠征」
「お疲れさまでした。……お土産、ありがとうございます」
「どういたしまして」


にこにこしたまま、私に視線を送り続ける及川。私はぱちぱちと目を瞬いた。慎重に視線を逸らし、線路に向き合う。リュックを前に持ってきて、お土産を中にしまおうとしたときだった。


「ちょっと待った」
「なんですか?」
「開けてよ!」
「……ここで?」
「そう!あのねえ、先週枕元に置いて帰れば良かったのに、どうしてわざわざ一週間待って直接渡したんだと思う?なまえちゃんの反応が見たかったからだよ」


そんなに楽しそうな顔をされても困る。私はうろたえ、小袋を掴んだまま目を泳がせた。ほら、と及川が急かしてくる。


「私、リアクション下手なんですけど」
「だろうね。上手かったらびっくりだよ」
「……」
「ダイジョーブ、素直な反応を見せてくれればいいよ」
「ろくな反応じゃなかったらどうするんですか」
「ふふ、及川さんからのプレゼントだよ?いいから開けてみなさい」


自信ありげに頷かれて、私はとうとう意思を固めた。リュックを背負い直し、指で小袋の開け口を慎重に摘む。ペリッとテープを剥がして、中のものを取り出した。


「……猫」


手のひらにちょこんと座る猫のぬいぐるみを、私はしばらく見つめていた。首のあたりにリングが刺さっており、それに太めのチェーンが通されている。ストラップだと一目でわかった。真っ白の体は柔らかい生地でできていて、触り心地がいい。手足と尻尾は描かれているだけで形作られてはおらず、耳付きの頭とぽっこりした体しかないその姿は、遠目には雪だるまに見えるかもしれない。中心だけ赤く塗られた水色の花がひとつ、背中に可愛らしく咲いている。

二重丸の内側を塗り潰しただけの簡単な目が、きょろりと私を見つめ返した。


「可愛い」
「でしょ!気に入った?」
「はい」


勢い良く顔を上げ、及川と視線を重ねた。力の入った左手が、くしゃりと小袋を潰す。


「ありがとうございます、嬉しいです」


及川が目を瞬いた。唐突に手が伸びてきて、私の頬を人差し指で押す。私はぎょっとして身を引き、何するんですかと目を見開いた。及川は私の頬があった位置で指を止めたまま、きょとんと私を見つめて口を開く。


「笑ったね」
「はい?」
「なまえちゃん今、笑った」
「……そうですか?」
「うん」


ゆっくりと、及川の唇が弧を描いた。目尻が下がって、温かい光が灯る。柔らかなその表情が、私の息を止めた。

ホームにアナウンスが流れ、電車が入ってくる。周りの人々が動き出した。私は及川から目を離し、流されるままに足を踏み出す。忘れていた呼吸が戻ってきた。そっと鼓膜を震わせた及川の声が、「うん」の一言が、何度も頭の中で繰り返される。

恐ろしい人だ、とあらためて思った。及川はたくさんの顔を持っている。楽しそうな明るい笑みだって、嬉しそうな柔らかい笑みだって、気遣うような優しい笑みだって、及川は簡単に作ることができるのだ。きっとそこに、感情はいらない。及川が本当に楽しんでいるか、本当に嬉しいと思っているか、本当に私を気遣っているのか。それを考えるのは無駄だ。だって私には、及川の本心なんてわからないから。

わかっているのは、彼が私に恋をしていないということだけ。

告白してきたときのあの表情を、私は忘れていない。自在に笑みを作れる及川でも、頬の色までは操れないのだ。緊張も照れもないあの顔は、絶対に、恋なんてしていなかった。

騙されるな、と私はまた自分に言い聞かせる。及川の表情を、及川の心だと思うな。頬の色を、体の強張りを見ろ。声の震えを、言葉の速さを聞け。

そうすれば、あんな風に息を止められることもないはずだ。

足元に視線を落として、及川との会話を避ける。小さく、それでいてはっきりと鼓動を刻む心臓に、気づかれたくなかった。握りしめた手の中で、猫がくにゃりと潰れた。



▲▽




火曜日。俺は眠い目をこすりながら学校に来て、朝練のために部室でサポーターを付けていた。


「なまえちゃんって可愛いねえ」


俺は顔を上げる。声の主は及川さんで、同じくサポーターを付けている最中だ。誰も反応しない。というより、床に座ってるのは俺と及川さんだけで、その声は俺にしか届いてない。一応確認する。


「俺に言ったんですか?」
「そうだよ!国見ちゃんしか聞いてないでしょ!」
「ああ、うんと、まあ…顔だけなら、そうなんじゃないですかね」
「中身も可愛いよぉ」


表情を緩ませながら及川さんは続ける。可愛い?みょうじの中身が?俺は自分の知るみょうじについて考えてみたが、どう頑張っても可愛い部分が見つからない。


「わかりやすいし、裏表ないし、純粋だし。さっすが飛雄の幼馴染っていうか」


右足のサポーターを付け終わり、今度は左足に黒のそれを付けながら及川さんは言った。俺は思わず及川さんを凝視する。目線を足に落として静かに話す及川さんの顔は、よく見えなかった。どんな表情でそれを語っているのか、わからない。だけど、みょうじを馬鹿にしているのはその言い方から伝わった。わかりやすくて、裏表がなくて、純粋。キレイな言葉を選んではいるが、要するにこの人は、みょうじが単細胞だと言いたいのだ。


「……及川さん、みょうじに似てますね」
「えっどこが!?」
「なんでも自分の思い通りになると思ってるところが」


俺は立ち上がり、タオルとドリンクボトルを持って及川さんの横を通り過ぎた。視線が追ってくるのがわかる。俺は立ち止まり、くるりと振り向いて忠告した。


「油断してると痛い目見ますよ」
「どういうこと?」
「及川さん、みょうじに惚れてるんですか?」
「飛雄の幼馴染に、惚れてるよ。なまえちゃんじゃなくて」
「……じゃあ、結構見る目ないんですね。あいつ全然純粋じゃないですよ」


純粋な人間はきっと、利用目的の交際なんてしない。みょうじが純粋に見えるなら、それは及川さんはみょうじの本性を見抜けてないってことだ。惚れてるから目を瞑ってるんじゃなく、この調子じゃほんとにわかってない。


「みょうじの頭ん中にはいつだって別の男がいるんですから」


それだけ言って部室を出て、眠気にふらふらしながら体育館に向かった。間違ったことは言ってない。及川さんとみょうじが付き合ってる限り、みょうじの頭にはきっとあいつが居座ってる。みょうじはあいつのために及川さんを利用したいんだから。あいつのために、及川さんと付き合ってるんだから。

みょうじが俺にそう言ったわけじゃない。だけどそのことは、俺たちの間で暗黙の了解になってた。「忘れてないよ」と微笑んだあの日のみょうじは、そんなことバレても構わないって目をしてたんだ。

朝練を終え、一限を睡眠に費やし、一限と二限の間の休み時間になるとようやく思考がはっきりしてきた。そのときになって、俺はふと考えた。及川さんはあいつの存在を知らない。みょうじが及川さんの告白を受け入れたわけも、きっと知らない。

何も知らない及川さんは、俺の言った"別の男"を誰だと解釈する……?

答えはすぐに出た。できることなら思い出したくない王様が、脳裏に浮かぶ。

もしかして俺、煽った?

及川さんとみょうじの奇妙な関係を悪化させる発言をしてしまったことに気づいたが、数分後には「言ってしまったものは仕方ない」と開き直った。スミマセン及川さん。ゴメン、みょうじ。心の中でてきとうに詫びて、さっさと気持ちを切りかえる。二限もやっぱり眠かった。


14.07.07
14.10.20 加筆修正