03
城に運び込まれる死体たち。私は紅覇様を探して駆けた。戦に勝ったこと、紅覇様が生きて戻ってきたことは知っている。そして、今どこで何をしているかも知っている。紅覇様はいつも、戦死者たちの間を練り歩き、一人一人に声をかける。名前を呼び、慈しみの目で見つめ、精一杯の愛を与える。もう答えることのない彼らに、最後の愛を注ぐのだ。

案の定、運び込まれた死体の中を歩く紅覇様を見つけた。小さく動く唇の端に、痛々しく痣ができていた。足には包帯が巻かれ、腕を吊っている。私はおずおずと紅覇様に近寄った。跪いた紅覇様は目の前の戦死者しか見ておらず、私の足音も聞こえていないようだった。


「才傑」


消えてしまいそうな紅覇様の声がその兵士の名を呼んだ瞬間、私は足を止めた。苦痛に歪んだ紅覇様の表情にごくりと唾を飲み、その場に立ち尽くす。紅覇様はしばらくぴくりとも動かずにいたが、命まで吐き出してしまいそうな重い息を吐いて立ち上がった。その目が私を捉えて細くなる。


「……いたの、灯杏」
「今来たばかりです。怪我は大丈夫ですか?紅炎様の能力をお借りして、」
「炎兄は今、兵士たちの治療をしてくれてるから。僕はあとでいいの」
「……そうですか」


紅覇様は目の下に深い隈を作り、虚ろな顔つきをしていた。痣は額にもできていた。おそらく、激しい戦いだったのだろう。戦死者もいつもの倍は多い。


「戦死者の確認を頼んでもいい?」
「もちろんです」
「ありがとう。いつも通り、遺体の有無の確認もして。あるべきところに帰す手配も、任せていいよね?」
「はい」


珍しく、紅覇様が微笑んだ。それはとても疲れた笑みで、私は妙な胸騒ぎを覚えた。



□□□



戦死者とそれに関わる手配の要望をまとめて紅覇様の部屋に向かうと、鳴鳳が扉を警備していた。鳴鳳は私より五つほど年上だが、十年もの付き合いになるので気軽に下の名前を呼び合う中だ。灯杏、と手を上げた鳴鳳の顔も疲れていて、私はますます胸が痛んだ。今となっては、鳴鳳のそばでさえ息苦しさを感じる。

鳴鳳は紅覇様の部隊でも知性に富んだ頭脳派で、周りからの信頼も厚い。紅覇様の不在時には、部隊をまとめる役割を担っている。私と違って優秀なので、いつも紅覇様の出陣に同行していて、もちろん今回も例外ではなかった。


「紅覇様は中に?」
「ああ」


私は扉に歩み寄り、こんこんと叩いた。紅覇様、と声をかける。しかし返事はなかった。私は首を傾げる。


「紅覇様、報告書をお持ちしました」

「……返事がないな?寝ているんじゃないか」
「そうだね」


頷きつつ、私は扉に耳をつけた。第一従者としては当然で、自慢にもならない能力なのだが、私は人よりも目と耳と鼻がいい。主の危険をいち早く察知できるよう、幼少期から訓練を受けてきた。


「何の音もしない」
「じゃあ寝ておられるんだろう。疲れているようだったから」
「鳴鳳も、疲れてるでしょ」
「…それが何か?」
「紅覇様は、一緒に戦地に出向いて疲れてる部下が、まだ何かしら仕事をしているこの真っ昼間から、一人でお休みになったりしない」
「じゃあ湯浴みじゃないか?そういえば帰還するとき、早く汗を流したいと言っていた」
「……湯浴み?でも、中に女中がいる?」
「いや、紅覇様お一人のはずだ」
「あんなに全身に傷を負っているのに?それに湯浴みならどうして、なんの水音もしないの」


鳴鳳は困ったように肩を竦めた。私は扉を強く叩き、入りますと叫んだ。おい、と制止する鳴鳳を振り払って、扉を押し開けた。

鍵はかかっておらず、私は簡単に部屋に入ることができた。小走りで部屋を横切って、奥の浴室に向かう。すだれを押しのけると、広い浴槽に湯が張ってあった。透明で、何の特徴もない、本当にただの、湯。私はそれにたじろいた。紅覇様は、湯に何かを加えるのが好きだ。それは花だったり、果実だったり、染料だったり、香料だったりする。美容に良いとされているものを湯に入れ、長々と浸かるのが好きなのだ。

それなのに、今、紅覇様が浸かっている湯は。……いや、沈んでいる湯と言うべきだろう。紅覇様は、透明で何の香りもしない湯に頭を沈めており、その口元から気泡が上がってくる気配もなかった。紅覇様、と悲鳴のような声が漏れる。心臓がどくりと波打ち、目の前で起きていることの意味に慄きながら手を伸ばした。

その瞬間、ざばんと大きな音を立てて紅覇様が湯から顔を出した。湯に触れる寸前だった私の手に、盛大に湯がかかる。私は目を見開いた。

湯じゃ、なかった。これ、水だ。


「紅覇様、」
「なに勝手に入ってきてるの。なんの用」
「……溺れているのかと思って」
「それ入ってきた理由?」
「そうです」


紅覇様が心配で、と言いたいのに、言ってしまえばその目の鋭さが増す気がして、私は口をつぐんでしまった。紅覇様は浴槽の淵に腕をかけ、真っ赤に充血した目で私を見上げる。その赤さが水によるものなのか、涙によるものなのか、私にはわからない。


「報告書をお持ちしました」
「机にでも置いといて」
「わかりました」


紅覇様はふいっと私から目を背け、また水中に潜ってしまった。今度はぶくぶくと気泡が上がる。私はその場を動けなかった。いつかその泡が止まるのではないか、いつか紅覇様が呼吸を止めるのではないかと恐ろしかった。

紅覇様が水面から顔を出し、まだそこにいる私を見上げ、はあとため息をつきながら、額に張り付いた髪の毛を払った。浴槽の淵に寄りかかり、気だるそうに頬杖をつく。


「なんでおまえがそんな顔するのさ。早く出て行ってくれない?」
「私が出て行かなければ、泣けませんか」
「はあ?」
「私が出て行ったら、一人で泣くのですか」
「別に僕、泣いたりしないけど」
「嘘です」


私はぺたりと床に座って紅覇様と視線を合わせた。少し驚いたように目を丸くした紅覇様の唇から、痣は消えていた。腕の骨折も見られないし、紅炎様のフェニクスの癒しを受けたのだろう。良かった、と胸を撫で下ろす。


紅覇様の三回目の出陣のあと、紅明様が、私に話をしに来た。第二皇子直々のお出ましに緊張する私の肩にそっと手を置いて、紅明様はこう言った。


『あの子は一人で背負いこむところがあるから。涙と一緒に痛みも流してしまえるよう、あなたがそばにいてあげてくださいね』


紅覇様に背負いこみ癖があることは、私自身気づいていた。それは戦を重ねるたびに酷くなった。死んだ兵一人一人の名前を呼び、そっと手や額に触れて目を閉じる紅覇様は、今にも死んでしまいそうな顔をしていた。死んでしまいたい、とその身がまとう空気が訴えていた。それなのに、紅覇様は決して弱音を吐かなかった。決して涙を見せなかった。私にだけではない。誰にも、決して、本当の自分を見せなかった。

紅覇様のそんな部分を見抜いていたからこそ、紅明様は私にあの言葉をかけたのだろう。私がまだ、紅覇様に……愛され、信頼されていると思って。しかし、私はすでに紅覇様の足を引っ張り、その名を落とす飾り物でしかなかった。紅覇様は私に心を開かない。

何度こうして、話を持ちかけても。何度こうして、紅覇様の心に触れようとしても。

紅覇様は、私を、拒絶する。


「嘘、ってなに。泣きそうなのはおまえだろ」
「私は、紅覇様がそうやって、いつも一人で苦しんでいるのが嫌なんです」
「僕についてきてくれた仲間たちが死んだんだ、苦しいのは当たり前だしぃ。それだけだよ」
「でも、」
「いい、灯杏。僕はあいつらを背負って生きなくちゃならないんだ。生きなくちゃならないの。おまえが考えてるほど、僕は脆くないの」
「紅覇様が考えているほど、紅覇様は強くありません」
「灯杏」


紅覇様が私の胸ぐらを掴み、ぐっと自分の方に引き寄せた。鼻先の触れそうなその位置で、紅覇様は口を開く。


「僕を心配する暇があったら、今度の軍事訓練の心配でもしたらどう?」


冷たい声だった。私は目を伏せ、それでもその場に留まっていた。しかし刺すような視線に堪えられず、結局失礼しましたと声をかけて逃げるように浴室を後にした。紅覇様が水から上がる音が、冷たく私の背中を追った。



□□□



扉の外で、鳴鳳が呆れ顔をして待っていた。大丈夫だっただろう?と聞いてくる。


「紅覇様は、たぶん、…泣いてた」
「泣くことだってあるさ。戦の後だ」
「鳴鳳は、紅覇様の本音を聞いたことがある?」
「ないよ」
「……心配じゃないの?紅覇様は、あんなに苦しそうなのに、誰にもそれを打ち明けないんだよ?」
「紅覇様は、強い方だよ」
「…どうしてそう言えるの。どんなに強い人の心だって、いつ潰れるかわからないのに。潰れてしまったその瞬間に、命まで潰してしまったらどうするの?」
「紅覇様は、男だから」


鳴鳳は微笑んだ。大人の笑みだと、そう感じた。鳴鳳だって軍の中では若い方で、それを気にしているとも聞いた。だが、こうして私と比べると、やはり鳴鳳は大人だった。昔から、そうだった。出会った頃の十二歳の鳴鳳も、考えがはっきりしていて、自分というものを持っていて。鳴鳳はいつも、私の先を進んでいる。


「男だから何なの?私は女だから、くだらない心配をしてるっていうの?」
「いつかわかる日が来るさ」
「今教えてよ」
「おまえはきっと、納得しないぞ?」
「何それ…」


そんな言い方をされる方が、よっぽど納得できなかった。女扱いと子供扱いを同時にされているようで、腹が立った。私の見えないものが見えている鳴鳳が、羨ましかった。


「私がもっと大人で、男だったら、紅覇様は私を頼った?私は紅覇様の苦しみを和らげてあげられたと思う?」
「そんな不毛なことを考えてどうする。おまえはおまえでいいさ。むしろ、変わってしまうなよ」
「でも私、紅覇様のために何もできてないんだよ」
「あの目標は、どうなった?もう諦めたのか」
「……まだ、目指してる」
「いいじゃないか。おまえにしか見えない夢だ」
「馬鹿にしてるの?」
「夢を見られるのはいいことだぞ?現実を知ると、……現実にとらわれてしまうから」
「紅覇様も?」
「そうだ」


私の"夢"のことは、鳴鳳にしか話したことがなかった。紅覇様にさえ話していないそれを、鳴鳳は微かに笑いながら聞いてくれた。その薄い笑みを見て、私の心は沈んだ。やっぱり、無理なんだ。私に叶えられるはずもないし、誰かが叶えることもできない。だって、きっと、戦とは…そういうものだから。

だが、あの日鳴鳳は、最後にこう言ったのだ。いいじゃないか、と。おまえらしくていい目標だ、とも。私はあのときも、「馬鹿にしてるの」と拗ねた。実際に、馬鹿にされているのだろうと思ったから。すると鳴鳳は、「馬鹿にされたくらいで諦めるような夢なのか」と、それこそ馬鹿にするような顔で笑った。


「鳴鳳」
「なんだ」
「今度手合わせに付き合って」
「もうすぐ軍事訓練だもんな。いいぞ、引き受けた」
「ありがとう。鳴鳳は、……いつになっても、私への態度を変えないね」


そう呟くと、鳴鳳は口をつぐんだ。体勢を低くして私の顔を覗き込む。


「おまえはおまえだからな」
「恩があるから?そんなのもう忘れてよ。私は何もしてないし」
「いや、それもあるが、おまえがおまえのまま変わらないからだよ。私の態度だけ変わるというのも変だろう。それに、私だけじゃなく、この部隊の誰だって、おまえを疎ましく思ったりしてない」
「紅覇様は……」


私が口ごもると、鳴鳳は少し困ったように眉を寄せた。もしかしたらおまえには一生わからないかもしれないな、と、それこそわけのわからないことを言われて、私の気分はますます沈んだ。


14.03.30