12
紅覇は屋敷の奥にある稽古場に足を運んでいた。昨日から降り始めた雨は未だに止まず、夜の屋敷を濡らしている。敷き詰められた雲の隙間から、わずかな月明かりが差し込んでいた。

稽古場は外と中に分かれている。紅覇は外の広場に目を凝らした。誰もいないし、雨音以外に何も聞こえない。

室内の稽古場の入り口まで来ると、ダンダンと細かい足音が聞こえた。扉の下から明かりが漏れている。紅覇はしばらくそこに立っていたが、足音が止まる気配がないと認めてとうとう扉を押し開いた。



□□□



稽古場を訪れる数分前、紅覇は灯杏の部屋の扉を開いていた。いくら叩いても返事がなかったため、いないのだろうとは思いながらも勝手に開いたのだ。窓が閉めきられていて真っ暗なその部屋で、紅覇は蝋燭に火を灯し灯杏の寝台に近づく。案の定、彼女はそこにいなかった。寝転んだ形跡すらない寝台から早々に目を離し、紅覇は部屋を出ようとした。しかしその前に、小さな机にのった鎖に気づく。

紅覇は蝋燭を近づけた。思ったとおり、鎖は指輪に通されていた。金属の輪に、躑躅(つつじ)色の宝石が一つだけ埋め込まれたシンプルな指輪。蝋燭の灯りに照らされて、宝石はきらきらと美しく輝いた。

紅覇は指輪を手に取り、まじまじと見つめた。それは紅覇が灯杏に渡したものだったのだ。十年前と変わらない光沢を持った指輪とは対照的に、鎖は所々錆びたり、奇妙に歪んだりしていた。

紅覇はここ数年、この指輪が灯杏の指に光っているのも、灯杏の胸元で揺れているのも見たことがない。正直なところ、この指輪の存在さえ忘れていた。いつの間に、あの子はこれを付けなくなったんだろう。いつの間に、僕はそれを気にも留めなくなったんだろう。

紅覇は指輪を机に置いた。鎖がじゃらりと音を立てた。



□□□



ぎぎーと鳴った扉に反応して、中央で剣を振るっていた灯杏がぱっと振り向いた。その身のこなしは鮮やかで、動きは悪くないのになあ、と紅覇はいつも思うのだ。

灯杏は稽古場に入ってきたのが紅覇だと気づくと、即座に剣を収めて胸の前で手を重ねた。頭を下げたまま動かない灯杏に近づき、紅覇はその顔を覗き込む。戸惑った表情で、灯杏はちらりと紅覇を見た。


「泣いたの?」
「いいえ」


嘘つき。目を逸らす灯杏が気に食わず、紅覇は眉をひそめた。灯杏の腕や足には重りの入った布が巻かれており、額には汗が光っている。蝋燭は壁際の二本だけで、とても十分な灯りとは言えない。


「暗くない?」
「慣れてしまえば、問題ありません。それに私は、夜目がきくよう訓練を受けてきましたから」
「ふ〜ん。今何時かわかってる?」
「十時くらいでしょうか」
「日付変わったけど」
「えっ」


灯杏の目が丸くなった。ぱちぱちと瞬きをし、こんな時間まで起きていてはいけませんと紅覇に言う。紅覇の苛立ちは増した。


「あのね、僕もう子供じゃないんだけど」
「でも、美容のためには早く寝た方が」
「はあ?おまえはどうなのさ」
「私は兵士ですから、美しくある必要はありません」
「なに言ってるの、汚らしい従者を連れ歩くなんて僕は嫌だよ。おまえはいつも綺麗でいてくれなきゃ」


灯杏は口をつぐんだ。突然の沈黙に、紅覇は気まずさを感じる。紅覇がこんなにも軽く灯杏に語りかけるのは、久しぶりのことだった。紅覇は、灯杏のまとう空気がいつもと違うことを敏感に感じ取っていたのだ。しかし気まずく思っていることをおくびにも出さず、あえてからかうような口調で続ける。


「そんな深刻な顔しないでよ。ちょっと言ってみただけに決まってるじゃん?おまえは今でも十分に綺麗だよ」
「いいえ、そんなことはありません」
「ん〜、髪の毛はもっと丁寧にまとめた方がいいかもね。それに、もうこの服ぼろぼろじゃん。だめになったら言いなさいってこの前言ったでしょ?」
「すみません」
「……だから、そんな顔しないでって」


今夜灯杏が暗く沈んでいる理由が、紅覇にはわからなかった。わからないことに、ますます苛立った。朝頬を叩いたからだろうか、それとも叱ったからだろうか、と色々考えたが、どうもしっくりこないのだ。

ジュダルはあの後、どれだけ紅覇に問い詰められても灯杏が涙した理由を話そうとしなかった。それによって紅覇を追い詰めることができると、わかっているらしかった。現に今、紅覇は苛立っている。まんまとジュダルの策略にはまって。

紅覇は灯杏を"強い"と見なしていた。泣き言を漏らさないという意味では、とても強い女だと。だから"従者として"認めたし、気に入ったのだ。同時に、弱っているときは助けてやりたいと思った。主の自分に弱みを見せて欲しいと思っていた。

それなのに、灯杏が涙を見せたのはジュダルだった。よりによってジュダルだ。ジュダルと灯杏は犬猿の仲だったはずなのに、そんな男の胸にすがって泣いて、主の自分には涙を隠す。気に入らない、ああむかつくーー。


「紅覇様、大切なお話があります」


灯杏が口を開いた。さっきまでとは打って変わって真っ直ぐに紅覇を見つめ、瞳を燃やしている。決然としたその様子に紅覇は嫌なものを感じたが、平静を装って軽く首を傾げだ。


「なあに?」
「……私は、紅覇様の従者を」


14.05.03