09
「だめ」


夜が明けて、高鳴る心臓を抑えながら紅覇様の元へ向かった私を、たった二文字が出迎えた。それ以上何も言おうとしない紅覇様と、衝撃を受けて固まった私の間に沈黙が流れる。


「………紅明様から、お話を、」
「されたよ。ちゃんと聞いた。で、決めた。だめ」
「どうしてですか」
「どうしても何も、僕の意見は変わらないよ。おまえは戦に堪えられない。死んでしまうのが目に見えてるしぃ。そんな部下を、僕が戦地に連れて行くと思う?」


ぷつんと切れた。これまで私の心を紅覇様の命令に繋いでいた糸が、ついにぷつんと切れてしまった。あまりにも唐突に離れた心は、止まることなく叫び出す。だって、それもう何回目?何回同じことを言うの?なんでそれしか言わないの?なんで、……いつまでも私への見方を変えないの?


「紅覇様は、いつもそうやって決めつけますね。行ってみなくちゃわからないじゃないですか」
「僕にはわかるの」
「私の可能性を潰すのはやめてください!」


飛び出した声は、広い廊下をこだました。紅覇様が目を見開く。なに言ってんのこいつ、と言いたげな目だった。「……可能性?」しばらくして発せられた紅覇様の声は、明らかに私を嘲笑っている。しかし、その馬鹿にするような声とは裏腹に、表情にはどこか影があった。


「僕は、おまえが戦死する可能性の方が高いと思うけど」
「戦死しない可能性だってあるでしょう」
「戦に出たこともないくせに、なに言ってるの」
「出してくださらないのは紅覇様じゃないですか!」
「おまえは死ぬだろうから連れて行けないって何度言えばわかるの!?」
「私、死んでも構いません!戦に行くことができるなら、紅覇様のためになるなら、死ぬことなんて怖く」


ぱん、と乾いた音が廊下にこだました。一瞬、何が起きたかわからなかった。目の前で手を上げる紅覇様を見、じわじわと熱くなっていく頬を自覚し、ああ、私は叩かれたのだと気づいた。


「死ぬことなんて、なに?死ぬことなんて怖くない?……ふざけるな」


紅覇様の見開かれた目が潤んでいた。私の胸倉を掴み、ぐっと引き寄せる。私はよろめきながら紅覇様に近づいたが、同時にその体を突き飛ばしたい衝動に駆られた。射抜くような視線から、逃れたい。今の私にとって、何よりも怖いのは紅覇様だった。


「死を恐れない者に戦に出る資格はないよ。少なくとも僕の軍に、そんな思考の奴はいらない。僕のために死ぬなんて、そんなの許さない」
「私は、」
「わかってるよ。僕の従者だろ。僕を守ることが役目なんだから、僕のために命を懸けることは正しい。命を懸けた結果死んだとしたら、それも従者としてあるべき姿だ」
「それなら、」
「でも、それを目指さないでよ。死を恐れてよ。僕はこんなに、おまえが死ぬことが怖いのに」


紅覇様の手から力が抜けた。私は解放され、一歩下がっておろおろと紅覇様を見つめた。紅覇様はもう、訴えかけるような悲痛な目はしていなかった。いつもと同じ冷たい目をして、じっと私を見下ろしていた。


「いい、灯杏。僕が必要としてるのはおまえみたいな奴じゃない。僕は、生きるために戦う奴と一緒に戦いたいんだよ」
「……私だって、生きるために戦います」
「僕のためなら死んでもいいとか、ふざけたこと言ったじゃん」
「私は戦えることが第一だと考えているから、そう言ったのです。戦えなければ意味がないでしょう?死に恐怖していて、戦えますか?戦った結果が死だとしてもそれはそれで、」
「死を恐れない者に先はないよ」
「……先がない?」
「死ぬのが怖いから人は強くなるんだよ。死ぬのが怖くて、誰よりも強く"生きたい"って思うから、頑張るんだ。兵士ってそういうもんでしょ。おまえにはそれがないから、先に進めないんじゃない」


紅覇様がふいっと私から顔を逸らすのを、私は呆然と見ているだけだった。私が先に進めない理由。それが、死に恐怖を持っていないからだというの?私はそれこそ兵士としてのあるべき姿だと考えてきたのに?

反論の言葉を探すうちに、紅覇様は私に背を向け黙ってその場から立ち去ってしまった。小さくなっていくその後ろ姿を、追いかける気力が沸かない。それどころか身動きさえ取れなかった。紅覇様の言葉が次から次へと思考を巡り、もともと私の中にあったものを揺らがせていく。

混乱の中で、気づいた。一際鋭く心に刺さり、思考を乱しているものの正体に。

『僕はこんなに、おまえが死ぬことが怖いのに』

……私が死ぬのが怖い?紅覇様が、私が死ぬのを恐れている?

確かに紅覇様は前々から、"私が死ぬことは目に見えてるから"戦には出せないと主張していた。決まり文句のようにそれを繰り返す紅覇様に、私は腹を立てたのだ。紅覇様が守ろうとしているのは、私の"役職"だと思ったから。紅明様も言った通り、第一従者は換えが効かない。私という"存在"を"失くす"と後が面倒だから、戦に出そうとしないのだと思っていた。

もしかしたら…そうじゃなくて、紅覇様はただ、純粋に、私が死んでしまうことを恐れているの?

私はまだ、紅覇様に大事にされている……?

叩かれた頬と潤んだ目が、じんじんと熱を発して痛みを訴える。そしてそれらと同じように、心までが熱く疼いて止まらなかった。

愛されたい、とは思わない。大事にされたい、とも思わない。紅覇様のために戦えればそれでいいから。紅覇様を愛し、大事にできればそれでいいから。それでいい。逆は必要ない。

必要ない、はずなのに。

どくどくと脈打つこの心臓が訴えているものは、紛れもない喜びだった。


14.04.25