03



夏らしいクリアネイルが広がったこのみさんの指先が、ちょいちょいと動いてその意思を示した。

私服に着替えてキットカットを囓っていた私は、呼ばれるがままにこのみさんが先に着席していた真っ白な円卓に腰を下ろした。


「お疲れ様です」
「うん、お疲れ様。ねえ、ウエストラインすっごい綺麗に出てたけどなんかやった?」
「あー…運動を頑張りました、かな…?」


撮り終えたばかりのデータが、次々とタブレットに表示されては流れていく。

今日は大一番だった。
それこそ、先日仙石さんに咎められた無茶なダイエットも、この日のためのものだと言っても過言ではない。

私は例のダイエット法を、自身のマネージャー兼カメラマン───他にも事務やアシスタントなど幅広い肩書きがあるけど、今は割愛する───であるこのみさんには伏せていた。
言うなれば部外者である仙石さんにすら叱られたのだ。
従姉という確かな血の繋がりのあるこのみさんにそんなことを漏らせば、大目玉を食らうのは目に見えている。
健全な方法で絞った、と伝えることが精一杯だった。

ふうん、と僅かに目を細めたこのみさんの視線が、氷の欠片のように突き刺さる。


「まあいいわ。おかげで今回はいいプロモーションになりそうだから。
 それより、2ヶ月分のスケジュール出たからそれの擦り合わせがしたかったの。撮影スケジュールとは別に新規の挨拶回りと、10月に出展が1件。どう?」
「私も行くってことは大きいやつ?」
「そりゃ、三笠宮杯だもんね」
「……ほお」


競技ダンス専門用品を扱うロゼ・ティコ───通称ロティの専属モデルの私は、競技ダンスの世界については到底知識不足であった。
ロティの・・・・専属モデルではあるけど、競技ダンス専門のモデルというわけではない。
競技ダンスという専門的な世界のモデルだとしても、私のなかではECサイトの着用モデルやヘアカタログのモデル、バッグやアクセサリー、化粧品みたいなくくりと同じだった。

ダンサーに顔見知りはいるものの、応援に駆けつけたり、追っかけをしたりするような関係ではない。
だから私が競技ダンスのことについてあまり明るくなくても、このみさんは頭ごなしに責めるようなことをしなかった。


「とにかく、10月9日、日曜日ね。設営はこっちでするから、名前は9時半に現地入りで」
「私も設営手伝うよ?」
「やーね、ロティの顔モデルにそんなことさせるわけないでしょ?あんたを売る機会も兼ねてるんだから、愛想良く。必要なのはそれだけよ」


必要なのは、愛想だけ。
愛想については得意分野だ。

鼻先にこのみさんの指が突きつけられて、私は無難な笑みを浮かべて返した。


「そう言えば多々良くん、ダンス始めたって?」


革のケースにタブレットをしまい込みながら、このみさんの目がこちらを見上げた。
私はちょうど椅子から立ち上がったところだったので、そのままの姿勢で一瞬きょとんとしてしまう。
けれどすぐに伝えようとしてそのまま忘れてしまっていたことを思い出して、軽く両手を叩いた。


「そう!そうなの!多々良くん、初めて自分で何かをやりたいって言ったんだよ!」
「あの多々良くんがねー…って言うのも失礼だけど、一体何があったんだろうね」
「仙石さん情報が本当だったら、女の子とボディタッチできるからとか…」
「……さすがにそれは嘘じゃない?」
「確かに多々良くんの熱意にはそんな下心なかったかも」


だよねー、と重なった2つの声が事務所を抜けて、ビルに併設された駐車場に響き渡った。
ブルーラパンの運転席と助手席のドアが同時に開き、車体が軽くバウンドした後バタンッとドアが閉まる。

エンジンがかかれば、スピーカーから音楽が溢れ出す。
このみさんが最後にエンジンを切ったところから再生されたけど、すぐにその曲の正体を掴んで鼻歌を合わせた。


「サントラのなかでこの歌がいちばん好き」
「私はタイトロープ派」
「派っていうほど派閥見ないよ。このみさんって意外とあれだね」
「あれって何よあれって。ちなみにyouは名前ちゃんのことだからね」
「やだあ、このみさん重い」


コンパクトな車内に黄色い声が弾ける。
運転中なのでじゃれついたりはしないけど、このみさんの手が空いていれば間違いなく私はこれでもかと撫で回されていたに違いない。
小さい頃から実の姉妹のように育った従姉妹同士だからか、事務所や現場から離れて2人だけになった時は、こうして本来の関係性が姿を現した。


「このみさん、兵藤マリサさんってどんな人?」


このみさんが事務所から持ち出した一式の中のバインダーを手にして、何気なく問うてみる。
曲が変わり、今度は口ずさむ代わりに指先でリズムを刻んだ。


「超美人。何考えてるのかだけが解んないけど、良いと思ったものは素直に褒めてくれる人だから、そこは自信持っていいよ」
「それ小笠原ダンススタジオの皆さんも言ってた」
「じゃあ私に聞かなくてよくない?」
「よその人のことなんてズカズカ聞けないよ」
「うーん、あとは名前と同い年の息子さんがいるって言ってたかなー。その子も競技ダンスやってるんだって。私はまだ一度も会ったことないけど、動画とか写真で見たら美少年だったよ」


私は、可能な限りクライアントに添いたい性分をしていた。
相手の好む性格や身形、話し方を操って、相手に不快感を与えないよう細心の注意を払う。

最後の情報は特に必要がなかったので生返事を返しながら、このみさんが収集した資料を次々に捲っては、時折じっと内容を読み込む。


「この曲聴くとピラティスしなきゃってなる」
「何それテンション上がるじゃん」


そんな他愛もない話が交わされるラパンが、東京の街中を流れていく。

暫く進んだところで車が大通りを逸れて、周りの風景も商業ビルやマンションから一戸建てに様変わりする。
フロントガラスの上を滑る、閑静な住宅街。
次第に、長閑な景色の中から一際大きな建物が見えてきた。

兵藤ソシアルダンスアカデミー。

私たちの目的地だった。

車を降りた途端、ヒールを置いた地面から立ちこめる熱気が足首に絡み付く。
暦上ではもう秋だと言うのに、この暑さは一体いつまで残るのだろうか。

コンクリートの外壁に打たれたプレートを一瞥して、私はこのみさんの後ろに続く。
側桁の外階段を上がり、辺りの住宅をやや下に見下ろせる3階の高さにプレートのスタジオはあった。
このみさんの指がインターホンに触れる直前、私はショルダーバッグから名刺ケースを取り出して両手の平に握る。
インターホン越しにこのみさんが挨拶をすれば、入室を許可する言葉が返ってきた。


「こんにちは」


失礼します、という言葉と共にスタジオへと足を踏み入れれば、その正面に1人の女性が佇んでいた。

豊かな金色の髪。
これでもかと色気を蓄えた唇と、その口元を飾るビューティーマーク。
"真っ直ぐ立つ"というだけの所作は洗練されていて、細くとも必要な筋肉がしっかりとついた脹ら脛がスカートスーツから覗いている。

臆することもなくその女性───兵藤マリサさんの傍まで歩み寄ったこのみさんは、普段の・・・このみさんにしては随分と可愛らしい仕草でぺこりとお辞儀をして見せた。


「お世話になっております、マリサさん」
「このみちゃんごめんね、急遽こっちに呼びつけちゃって」
「とんでもありませんよ」


おや、と目を見開かずにはいられなかった。

このみさんの声が高い。
表情も普段と比べて明るさ三割増しだ。
指先も落ち着きなく動き続けている。

いつも落ち着き払っている従姉の新たな一面を観察していると、このみさんの向こう側に立つ人物の視線に気づいた。
兵藤マリサさんの眼差しだ。
兵藤マリサさんは私の双眸と絡んだことを確認すると、その涼しげな口角を持ち上げた。


「はじめまして、ティーンモデルさん」
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