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マリサさんの口から衝撃的な言葉が飛び出してきて、飲みかけの紅茶で思わず火傷しそうになった。
「い、今…なんと……?」
このみさんの声が、動揺に震える。
兵藤邸で振る舞われる紅茶は、上品な味がして私の好物のひとつに組み込まれていた。
だけど、今はそんな紅茶の味さえもわからない。
体中の血液が足の方へと落ちていくようだった。
「だからね、ロティとの契約を一旦白紙に戻してほしいの」
そう言いながらなんともない表情で指を絡めるのは、兵藤マリサさん。
ロゼ・ティコと一時的な業務提携関係になろうと、3ヶ月前に契約を結んだ相手だ。
事務所に向かう旨をこのみさんに入れようと携帯を開いたところで、ちょうどそのこのみさんから一通のメッセージが届いていた。
急遽マリサさんからの招集がかかったという内容だった。
このみさんがラパンで学校まで迎えに来てくれて、そこから2人で兵藤邸へと訪れ今に至る。
まさか、こんな内容だっただなんて。
よっぽど私とこのみさんの顔色が悪かったのか、マリサさんは「落ち着いてちょうだい」と目元を緩めている。
ようやく掴んだ大きな仕事がなくなって落ち着いていられるほど、ロゼはそんなに大きな事務所ではない。
「そ、そんな……何か名前が粗相でも……?」
「名前ちゃんはよくやってくれたわ。この3ヶ月間で私の要求にもしっかりと答えてくれた。立派なモデルだわ」
「じゃ、じゃあ……なぜでしょうか……」
「だから落ち着いてちょうだいって言ってるの。───まあ、白紙という言い方は語弊があるわね」
ピシャリ、とマリサさんが言い放つ。
次いで猫足のチェストからひとつのクリアファイルを取り出して、その長い指先で私たちの目の前に広げた。
小刻みに震えるこのみさんの手がその資料を掬い上げ、私もこのみさんに肩を寄せて中を覗き込む。
「正確に言うと、提携内容の主旨に大幅な項目追加、もしくは変更をお願いしたいのよ。私の都合でスケジュールも少し変わってきてるところも既に出てきてるしね。
現状はロティが売り出すドレスを私がプロデュースするという内容だけど、ドレスだけじゃなくて、名前ちゃんそのものを私にプロデュースさせてほしいの」
綺麗にまとめられた資料には、ドレスのプロデュース以外に、モデル・名前のプロデュースについても細かく記載されていた。
「名前ちゃんのお仕事について、ちょーっと小耳に挟んじゃってね。来年の今頃は名前ちゃんの知名度は少なからず今よりも上がっているはずよ。
───競技ダンス界を盛り上げたい私が、そんな美味しい話を逃すわけないじゃない?」
マリサさんの算段はこうだ。
マリサプロジェクトとは別件のお仕事が終わる頃には私の知名度や話題性は今よりも上がっていて、そのタイミングにめがけてロゼ・ティコと兵藤マリサのコラボ商品を展開する。
そうすれば、若い世代が競技ダンスというものを知るきっかけ作りにもなるし、町興しならぬ競技ダンス興しに一役買える、ということだ。
私は初めて、随分とマリサさんに期待されているのだと実感した。
でも、もしその計画が上手くいけば、競技ダンスを応援する新しい方法が増えるということになる。
競技ダンスを始めて、多々良くんはすごく変わった。
競技ダンスを通して、色んな人と出会えることができた。
競技ダンスを知って、知らなかった世界や感動を知ることができた。
そんな競技ダンスに対して、私の力で恩返しができるなら───。
「あら、名前ちゃんは前向きな表情ね、メラメラしてる。そもそもこれは貴女がいないと成り立たない企画だから、嬉しいわ」
「私もこのお話は是非ともお願いしたいです!……が、形式上一度持ち帰らせていただいて、社内での再協議後のお返事でもいいですか…!」
「あらあら、ほとんどOKなものね」
「当たり前ですよ……!」
よかったねぇ名前…!と涙声で抱きついてきたこのみさんに、苦笑いが零れる。
年上の従姉に喜ばれたことで、逆に冷静になってしまった。
すごい話が決まってしまった。
さっきまでのことが夢現のようで、まるで地に足が着いていないような心地だ。
このみさんに小笠原まで送り届けてもらった私は、ラパンが進んでいった方向に背を向けて小笠原の階段を降りる。
最後にここに来た時の重たい足取りが嘘みたいだ。
「こんにちは」
「名前ちゃん!ひさしぶりじゃねぇか!」
扉を開けると、受付カウンターで携帯をいじる仁保さんと目が合った。
スクールの時間は終わったみたいで、鏡前には誰もいない。
「仕事、忙しかったのか?」
「そうなんです。前にお話ししたお仕事とはまた別のお仕事をいただけて」
「すげぇなー、もう売れっ子じゃん」
「ふふ、早くそう言えるよう頑張ります」
あまりにも自然にスタッフルームに通されて、通された私自身もその行為にあまり違和感を抱かない。
すっかり、小笠原に馴染んでしまっていた。
スタッフルームには備品を整理する環さんの姿があって、こちらも私の姿を見るなり飛び上がって駆け寄ってくれた。
「まあっ名前ちゃん!」
「環さん、おひさしぶりです!」
「きゃー!ちょっと見ない間にまた大人っぽくなった?背もまた伸びたんじゃない?」
「そう見えますか?」
座って座って!と促されて一人がけのソファに腰を下ろす。
ここでの最後の思い出もあまり思い出したくないものだったので、どことなく居心地が悪い気がした。
「番場さんと仙石さんは?」
「可憐ちゃんはここ最近お休みしてるのよ。仙石くんは上海ですって」
「あ、じゃあ2人とも不在なんですね……」
なんだ、2人も足りないのか。
さっきから煩い心臓が、ちょっとだけ大人しくなる。
「今日はみなさんにお話ししたいことがあってお邪魔しました」
「どうした、改まって」
仁保さんが用意してくれたお茶を睨み付け、深呼吸を繰り返す。
正面に座る2人の視線が、私に集中しているのが判った。
「私、競技ダンスのことを仕事のひとつにしか思っていませんでした」
自分が競技ダンスに関わるのは、あくまでも仕事の一環。
必要最低限の知識があれば、それでいい。
"仕事"を通して知り合った人たちとも、仕事だけの関わりを持てばいい。
そんな風に思っていたこと。
だけど、懸命にフロアに立とうとする選手の姿を見て、考えが変わったこと。
小笠原のみんなに寄り添ってもらえて、嬉しかったこと。
なのに、自分は壁を作ろうとしていたこと。
「ごめんなさい」
それらをすべて話して、深々と頭を下げる。
やっと、けじめがつけられた。
自己満足と言われても、私はみんなにこのことを言いたくて言いたくてしかたがなかったのだ。
番場さんや仙石さんはいないけれど、2人にはまた改めて別の機会に告げればいい。
今はとにかく、この場にいる2人に伝えたかった。
「名前ちゃんって真面目で義理堅い子なのね」
「俺たち大人はそんなことで怒るような子どもじゃねぇよ」
下げていた頭を上げると、環さんと仁保さんは笑っていた。
その笑顔を見た途端、情けないけど、心臓に絡まっていた鎖が一気に解けたような感覚がした。
「……何もなくても、遊びに来ていいですか?」
「当たり前じゃない!いつでも歓迎しちゃう」
環さんの一言に、ようやく緊張と言う緊張が体から離れていく。
今日まで何度も頭の中でシミュレーションを重ねて、こう言われた時はこう返そうだなんて用意した言葉はすべて不要なものだった。
安堵でソファの背もたれに沈み込んだ私を見て、仁保さんが快活に笑う。
「番場もお前に会いたがってたぜ。花の行方も気になるとかなんとか言ってたし」
「花、ですか?」
「仙石くんにあげたんでしょ?年上に憧れる年頃だもんねぇ」
「……え?」
番場さん。
花。
この2つのワードを繋ぎ合わせた時、私の頭には雫ちゃんに花を贈った時のことしか思い出せない。
───ん?
「……勘違いされてる?」
「何が?」
唯一答え合わせができる番場さんは、生憎この場にはいない。