17
負けた。
負けてしまった。
その事実が胸の内を巣食い、時間が経つにつれ大きくなっていく。
2組の組解消を賭けた天平杯は、賀寿くんと私の組が優勝という成績をおさめ、挑戦者であるフジ田組は7位───最下位という結果で幕を閉じた。
私たちが優勝するのは、当然だと思った。
優勝しかあり得ない。
この試合は、私たちの勝ちだ。
そう確信していた。
「ボールルームクイーン賞は……───背番号23番、赤城真子さん」
私は負けた。
総合的に優勝した事実は確かにある。
けれど私は、今日この場所で踊った女性の中から1番を決める賞を獲り逃してしまった。
それはもう、負けたも同然だ。
「しずくは相方だけど、ライバルだ」
昔、清春にそう言われた時、こんなに嬉しい言葉はないと思った。
清春はすごいダンサーだ。
少しでも気を抜けばあっという間に遠いところを走っていて、私がどれだけ走っても追いつくことすらできない。
だから一人でも練習して、少しでも追いつけるように足掻いてみるしかなかった。
そんな私のことを、清春はライバルだと言ってくれたのだ。
嬉しかった。
それと同時に、とてつもないプレッシャーを感じた。
自分の相方が競い競われの対象であるライバルだなんて、なんて恐ろしいんだ。
組になれば、自然と比較される。
どちらが足を引っ張っているのか。
どちらの技術が突出していて、どちらが埋もれているのか。
片方が追いつけていない。
片方がしんどそうだ。
自分でも痛いくらいに理解していることを、他人からも評価されるのだ。
気なんて抜けるはずもない。
だから私はこうして直向きに練習を重ねて、どんどん上手くなる清春に置いて行かれないように、清春との差が開かないように汗水を垂らしてきたのに。
負けたんだ。
今日の試合で、清春を意識しなかったと言えば嘘になる。
私のダンスに退屈しているように見えた時は頭に血が上って、スロー・フォックス・トロットでは持てる限りの力を出してしまった。
───それが、いけなかったのだろうか。
試合が終わった後の閑散としたパウダールームに、1人で足を踏み入れる。
物音一つしない静かな空間が、私の混乱した頭を冴え渡らせる。
「───下手くそっ…」
最後にダンスのことで悔しくて泣いたのはいつだっただろう。
心はずっと泣いている。
彼が帯びる空気すらも掴めないことに。
頭と体が直結しないもどかしさに。
悔しくて堪らない。
センサーに手を翳して、流れ出る冷たい水で指先を濡らす。
その指先を目元に押し当てるけど、そうすればそうするほど涙が零れてきた。
腫れた目で帰るわけにはいかない。
私は手の平まで濡れるのも構わずに、冷やした手で目蓋を押さえ続けた。
「見つけた」
突然聞こえてきた声に、思わずびくりと肩が跳ねる。
あんなに止まらなかった涙が、驚くほど一瞬で引いたのがわかった。
声の持ち主が誰かなんて、顔を見なくても判る。
冷たくなった体の内側を、じんわりと優しく温めてくれる声色。
思わずうっとりしてしまう澄んだ音吐。
どこか妙に大人びた、芯を感じられる声。
カツンカツンというヒールの音が近づいてくる。
少しでも顔を上げれば、目の前の鏡の中で声の持ち主の姿をとらえられる。
けれど私の体は縫い付けられたみたいに少しも動かなくて、水滴の飛び散った手洗い場に視線を落とすことしかできなかった。
足音がやんで、数秒の沈黙が漂う。
「───っ」
肩に柔らかさを感じた頃には、体に腕が巻き付いていた。
香水だろうか。
甘い花のような香りが、体中を包み込んでくる。
何を言われるのだろうか。
頑張ったね?
優勝おめでとう?
お疲れさま?
今の私にとって、どの言葉も慰めにはならない。
だけど、耳朶を優しく撫でていったのは、想像もしていなかった言葉だった。
「まだ踊れそう?」
簡単な問いかけだった。
その短い言葉から、数時間前の出来事がフラッシュバックする。
どんな言葉よりも、その問いかけが私に対する精一杯の応援で、慰めで、労りだった。
「っ……!」
体に回る腕に手を這わせて、振り返るままにその体に抱きついた。
背中に手が回り、柔らかく上下に動く。
嗚咽を噛み殺して、震える肺に空気を迎え入れる。
「絶対に上手くなってみせる…!」
「……うん、一緒に頑張ろう」
まさか、ダンサーでもない名字さんにこんな弱いところを見せることになるなんて、出会った頃は想像すらしていなかった。
だけど確実に言えることは、私にとっていちばん弱音を吐ける相手が名字さんになりつつあるということ。
名字さんのしっかりとした体幹はふらつくこともせず、涙に肩を跳ねさせる私の体を支えてくれている。
この子がダンスを始めたら、とても魅力的にダンサーになるんだろうな。
悔しさの片隅で、そんなことを考える。
しっかりしているのは、体幹だけじゃない。
こうやって私を支えてくれるきっかけになった言葉、考え方も尊敬に値する。
名字名前という存在が好きだ。
やっぱり私は、名字さんと友達になりたい。
「……また私が迷ってたら、相談にのってくれる?」
「もちろんよ。花岡さんがよければ、私の相談にもまたのってほしいな」
「うん、絶対に聞くよ」
顔を見合わせて、ふたりで笑い合う。
泣き腫らした顔をさらすなんて、恥ずかしいことのはずなのに。
どうしてだか、名字さんには何でも見せられるような気がした。
もう今更、彼女に対する遠慮なんて要らない。
「名字さん。あの……名前ちゃんって呼んでもいい?」
そう訊ねれば名字さんは大きな目を丸くさせて、すぐに破顔した。
「もちろんだよ、雫ちゃん!」
「───ありがとう、名前ちゃん!」
名前ちゃんの表情は、面白いくらいにころころ変わる。
大人びた表情はたくさん見た。
驚いている顔も、悲しんでいる顔も。
そして、年相応な無邪気な笑顔も。
彼女に向けられる笑顔が、こんなにも心地良いものだったなんて知らなかった。
なんでもっと早く気づけなかったんだろう。
「今日の雫ちゃん、すごく綺麗だったよ。スロー・フォックス・トロット…だっけ?あの時なんて私、息するの忘れちゃってたもん」
プロ顔負けの手つきで私の涙と依れた化粧を簡単に直しながら、歌うように感想を述べてくれる。
やっぱり名前ちゃんは優しい子だ。
彼女の手によって見られる様子に戻った私の顔を見て、うん!と満足げに頷く。
「帰ろう、雫ちゃん」
「───うん」
私の手を握るそれは意外と小さくて、思わず口元が緩んだ。
手元から伝わってくる体温に、言い知れない勇気が湧き上がる。
私はまだ大丈夫だ。
私はまだ、ダンスを踊りたい。
そんな思いを込めて、ほっそりとした女性らしい手を握り締めた。