16
夢のような時間だった。
ついさっきまで、確かに会場はひとつになっていた。
多々良くんたちの気持ちが、見ているこちらにまで伝わってくる。
彼らの感情を孕んだ風が、目の前を通るたびに体中を包んでいった。
こんなダンスは、ディズニーでも見たことがない。
すごく楽しくて、体の底から沸き上がる高揚感。
気づけば多々良くんたちに併せて手拍子を送っていて、表情をきらきらとさせた真子ちゃんを見て私も笑顔になった。
そんな時間が、この会場に流れていた。
そしてその空気は特にダンサーに強い影響を与えたようで、隣に座っていた兵藤くんは終始気もそぞろの様子で足を動かしていた。
「兵藤くん」
「…………」
「踊りたい?」
鳴り止まない拍手のなかでそう問うてみれば、長い睫毛の下からこちらを一瞥する瞳と目が合った。
手で口元を隠しているけど、その口角は心なしかつり上がっているように見える。
「当たり前だろ」
「だよね」
天井のライトが反射しているのか、それとも滾る興奮が表れているのか。
爛々とした双眸が、こちらをじっと見つめていた。
実のところ、私も体に籠もった感情のやり場に困っていた。
とは言え、私は踊れるわけではない。
わかることと言えば、女性側のホールドを知っているくらいだ。
家に帰ってから自室でこっそりと踊ってみようかな。
「富士田のああいうところがすごいと思う」
ポツリと呟かれた言葉に、多々良くんの"ああいうところ"を思い返す。
そして、すぐにやめた。
だって、多々良くんのすごい"ああいうところ"はたくさんあるから。
「三笠宮杯でも見た。
───アイツの、感情で踊るところ」
上手くなればなるほど、プロに近づけば近づくほど、完璧を求められる。
プロとはこうあるべきである。
プロとはこうするべきである。
そんな目に見えない要求が、時々、自分の道を暗くさせた。
さっきの私への蔑視もそうだ。
プロだから耐えなきゃいけない。
こういうこともあるんだと、飲み込まないといけないんだと。
兵藤くんにも、きっと同じ経験があるに違いない。
彼の母親は、兵藤マリサだから。
「俺はここまでやっていいんだって思わされた」
そうか。
兵藤くんは、多々良くんのこういうところに一目置いているんだ。
同じプロとして、目の前のことを見据えているからこそ。
私は兵藤くんの気持ちが解る。
"プロ"として、時に忘れてしまうことを。
自然と制限をかけてしまうことを。
解き放ってくれる存在なんだ、と。
だから、兵藤くんは多々良くんを放っておけない。
自分の相方である花岡さんを前にして、花岡さんに勝てというアドバイスができたんだ。
「いい関係だね」
「……そうなれば、もっといいんだろうな」
そう言いながら腕に松葉杖を装着した兵藤くんが、徐に立ち上がる。
どこに行くのかと視線だけで問えば、車に戻ると告げられた。
「送ってく」
「いいよ、駐車場遠いし」
「ううん、送らせて」
フロアを打見すると、踊り終えた選手たちが各々で挨拶をしているところだった。
熱気と歓声を掻い潜りながら、場内アナウンスが得点の集計に入ることを伝えている。
私は既に会場の出入り口に足を向けている兵藤くんの背中を追って、フロアを後にした。
つい先ほどまで大きな音楽や声援を聞いていたこともあって、扉を潜ると同時に感じる音も変わる。
慣れない感覚に耳を撫でていると、少し前を歩いていた兵藤くんの体がピョンと宙に浮いた。
踊っている。
「ひょ、兵藤くん!足!」
いくら私が慌てたところで、当の本人は全く気にしていない。
見ているこっちが冷や冷やさせられた。
すれ違う人が「兵藤選手だ」と口々に振り返っているけど、それにすら反応を示さない。
周囲の声や怪我を気にせずに軽快なステップを踏む姿に、兵藤くんの中に蓄積されていた欲求の重みを思い知る。
「名前も踊ってみるか?」
「えっ…い、いいよ!踊れないから」
会場を出て、一段と静かな駐車場に辿り着いたところで、兵藤くんがこちらを振り返ってそう訊ねてきた。
思いもしていなかった誘い文句に、私は慌てて両手を振って遠慮の色を示す。
私が知っているのはあくまでもホールドだけであって、足の運び方やそれ以外の細かい動きについてはなにも知らない。
無茶ぶりもいいところだ。
「踊る前から踊れないって決めつけるなよ」
「わっ───」
おしゃれなクラシックカーに松葉杖を立てかけた兵藤くんに腕を取られ、ホールドを組まされる。
相手のいる状態でホールドの形を取るのは実に2ヶ月ぶりだ。
気のせいか、前よりも随分と馴染んでいるような気がした。
「……すげぇ、完璧」
「ほ、ほんと?」
「ああ」
言うが早いか、兵藤くんはそのまま勝手に動き出してしまう。
まさかこんなことになるとは微塵も思っていなかったので、私は一度もダンサーの足の運び方を気にしたことがなかった。
ずっと姿勢だけを目で追っていて、どういう動きをするのが正解かも解らない。
兵藤くんの動きに合わせると言うよりも、兵藤くんの動きに慌ててついて行っていると言った方が正しい動きでついていく。
自分でも慌ただしい足下をしているんだろうなと思う。
それでも、姿勢だけは崩れなかったことは褒めてほしい。
「ワオ、名前ちゃん結構上手じゃない」
「!?」
背後から聞こえてきた声に、私はものすごい勢いで兵藤くんの正面から飛び退いた。
「マ、マリサさん…!」
「体幹は申し分ないし、姿勢もとても美しいわ。モデルだから魅せ方も解ってるだろうし、基本さえ整えたらすぐに伸びそうね」
穴があったら入りたい。
体のどこからそんな熱が生まれるのか、一瞬にして首と顔が熱くなって、額に冷や汗が滲み出す。
まさか、マリサさんに見られるなんて。
「どう?ウチでレッスン受けてみない?」
名前ちゃんなら歓迎しちゃう、とウインクを飛ばすマリサさんに、私は遠慮がちに緩く首を振った。
「モデルのお仕事を頑張りたいので、ありがたいのですが……」
「ああん、残念。まあ、本当に始めたくなったらいつでもいらっしゃいね。競技ダンスを始めるのに遅いも早いも関係ないから」
「あ、ありがとうございます」
そんなやり取りを交わして、私は夜のなかへと消えていくクラシックカーのテールランプを見送った。
マリサさんのお誘いは魅力的だった。
だけど私は、今はモデルの仕事に集中していたい。
───そうだ。
私はプロのモデルだ。
だからなんでもプロ目線で考えてしまう。
今回の発端であるカップル問題だって、そんな感情的な部分よりも、兵藤くんのプロとしての立ち居振る舞いを評価するべきだと思っていた。
だけど、花岡さんと会話をして、少しだけ見方が変わったのも事実だ。
ひとりでその場に立つモデルとは違い、競技ダンスは相手がいてこその競技だから。
だからこそ、そういう感情的な部分も尊重されるべきなんだと気づかされた。
そういう意味では、本来の私の性格はモデルよりも競技ダンスに向いているのかもしれない。
だけど、私はモデルを選んだ。
モデルの仕事を通して認められることを望んだ。
私はプロモデルでありたい。
モデルと競技ダンスを同じくくりで考えずに、ダンサーとしての彼らを応援しようと思った。
応援したいダンサーたちの結果を見届けるために、私は駆け足で会場へと再び踵を返した。