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人生で初めて拍手の嵐を浴びたあの日から、僕はあの場所が恋しくて堪らなかった。


「僕は変わらなきゃ」


小学生の頃からいじめられていた僕は、いつも異性の女の子に守られてばかりで、男らしいところなんて何一つ持ち合わせていなかった。
何をやっても駄目で、将来の夢ややりたいことも特にない平凡以下の自分を心のどこかで嫌っていた。

僕をいじめから助けてくれた女の子───名前ちゃんは、中学2年生の時にモデルの事務所に籍を置くプロのモデルになったと聞いた。
昔からきらきらと輝いていた子だったけど、モデルになってからはさらに輝きを増した気がする。
生き生きとしていて、その大きな瞳の中に星を閉じ込めたような。
明るい未来だけを見据えた、そんな満ち足りた充実感が溢れていた。

それに引き替え僕は、中学3年生という瀬戸際に立たされても進路さえ決めることができずに途方に暮れていた。

そんな時に競技ダンスと出会い、仙石さんと出会った僕は、自分でも呆れるくらいに単純で短絡的な感覚で仙石さんのようなプロになりたいという夢の裾を掴んだのだった。


「お前出ちゃえよ」


まさか自分でもこんな形でフロアデビューを飾ることになるとは思ってもみなかった。

膝を故障した兵藤くんの替え玉として仙石さんに無理矢理フロアに立たされ、憧れだった花岡さんのリーダーとしてワルツを踊った。
正直、試合中のことはほとんど覚えていない。

だけど、踊り終えた僕たちに降り注いだ拍手の音だけは忘れられなかった。

替え玉がバレて兵藤くんと花岡さんは6ヶ月の謹慎を課せられていたけど、そのことについて申し訳ないと思う気持ち以上に、もう一度あの場所に立ちたいと思う自分がいた。
生まれてから一度も拍手をされたことのなかった僕は、フロアに取り憑かれていた。

あの、体の芯から燃え上がるような場所に。

その後花岡さんのリーダーを巡ってガジュさんと悶着があり、ガジュさんの本来のパートナーであるまこちゃんとカップルを組んで試合に出ることになった。
自分でも無謀な挑戦だとは解っている。
だけど、それさえも気にならないくらいに、ガジュさんのやり方に納得がいかなかった。
残されるパートナーの気持ちにもなれ、と思う側面で、当時の僕には突然現れたガジュさんに花岡さんの隣を横取りされたことへの不満があったことも否めない。

ガジュさんがすごいダンサーだということは解っている。
もちろん、花岡さんも。
そもそもダンスに費やしてきた時間が違うし、経験値だって何一つ足りていない。
僕にあるのは、土壇場で出場したあの一瞬きりなのだから。

カップル練が初めての僕は、仙石さんの協力のもとまこちゃんと猛特訓を重ねた。
フロアの使い方すらなっていないし、勢いのままに突っ込んでくる他の組からまこちゃんを庇う方法すら知らない。
仙石さんにも叱られたし、こんなど素人の僕と組む羽目になったまこちゃんにも申し訳なかった。

だけど、まこちゃんの一言で少しだけ目の前が開けたような気がした。


「たたらさんはもう少し自分のことを考えて下さい」


いつも誰かの顔色を伺って、名前ちゃんの影に隠れるしかできなかった。
自己主張や執着なんて、考えたこともなかった。

だけど、もう一度あのフロアに立ちたいと思ったあの日から、自分でも気づかないうちに抑圧し続けていた欲が限界を迎えていたのかもしれない。

そこからの僕は憑き物が取れたように練習に打ち込めたし、フロアの読み方も解るようになった。

まこちゃんの考えていることがわかる。
フロアに立ち続けたいという欲が体を突き動かす。
今まで自分の体に鎖でも絡まっていたのかと思うほどに、フロアを駆ける足が軽かった。


「なんか多々良くん、かっこよくなったなって」


名前ちゃんにそんなことを言われたのは、ちょうどその頃だった。

かっこいいなんて、初めて言われた。
それも、学校の男子生徒から神聖視されているあの名前ちゃんに。
まさか名前ちゃんからそんなことを言われる日が来るなんて、妄想はあれど思いもしなかったので酷く動揺してしまった。

それでも僕の単純な性格は直っていなかったようで、たったそれだけのことで次の試合は勝てそうな気がした。

そして試合当日。
まだ日が昇る前に起床して、首筋に切り傷を作りながら襟足を剃り落として慣れない手つきで髪を上げていく。
ジェルをつけすぎて途中で上手く纏まらなくなったり、変な形になってしまったりと大変だった。

開会宣言の間は、自分の心臓の振動で体がふらつきそうだった。
何度も試合に出場してきたであろうまこちゃんですら震えていて、その様子に緊張感がピークに達した。
以前、仙石さんがフロアここを戦場と喩えていたことを思い出す。
勝負の駆け引きが行われるこの戦場で、僕はそもそもまともに動けるのだろうか。
そんな心配事が、頭から離れなかった。

緊張していることもあり、目の前を流れる競技が一瞬で終わっていく。
自分の出番を待っている間に仙石さんが採点方法を教えてくれたけど、その内容はしっかりと入ってこなかった。

ついに僕たちのヒートになり、練習の間に仙石さんに言われた作戦を必死で反芻させる。
ベーシックで、堅実に。
姿勢は真っ直ぐに、腕の枠はしっかりと。

そして───


「(ワルツは笑え!!)」


楽しいことだけを考えろ。

真っ先に思い浮かんだのは、三笠宮杯で花岡さんと踊った時の記憶だった。

次のヒートではなぜかさっきよりも闘志を滾らせたガジュさんを目の当たりにして、忘れかけていた緊張がまた戻ってきてしまった。
だけど途中でなんともいえないハプニングが起こり───まこちゃんが胸に入れまくっていたパッドが散った───、なんとか調子を取り戻すことができた。
カウントと姿勢を意識して、惜しみなくどや顔を披露しておく。

おかげで無事1次予選は通過することができ、僕とまこちゃんは2次予選に駒を進めた。

出場選手が減った2次予選ではガジュさんと花岡さんと同じヒートになり、文字通り肩を並べての試合となった。
それが、とても致命的な結果になってしまった。
見ている人の視線はすべてガジュさんたちへと向かい、僕たちとまこちゃんはほとんど見向きもされないままに音楽が止まった。

悔しい。

悔しくて、自分に視線を集めたくて堪らない。

だから、次のクイック・ステップに賭けるしかなかった。

まだ誰も腕を上げていない3小節以内で、僕とまこちゃんはフロアの床を蹴る。
ホールドすら完全に組みきっていない状態でフロアのど真ん中を切り裂いて、踊れる場所の確保───審査員の目の前への陣地取りを踏み切った。
同じ場所を狙っていたガジュさんと背中から衝突してしまったけど、踊りをやめるわけにはいかない。

だって、フロアへの執着心が燃え滾ってしかたがないのだから。

おかげでガジュさんに頭突きをされるわ、まこちゃんがガジュさんと大喧嘩するわで大変だった。
挙げ句の果てに花岡さんにまで怒られてしまったけど、何一つとして後悔していない。

ただ、ガジュさんに「ダンスを舐めているのか」と言われたことだけは耐えがたい屈辱だった。

だから準決勝からは仙石さんの教えを守ったし、人の振り付けを真似するのもやめた。
僕の拙い技術で、準決勝進出は奇跡だ。
このチャンスを無駄にするわけにはいかない。

できることを、全力で。

少しでも審査員の目に留まるように、スイングは大きく。
一つひとつの動きに雑味を与えてはいけない。

曲が進むにつれ、息が上がる。
こんなにも呼吸が短くなることなんてあっただろうか。
額から滲んだ汗が滝のように流れるのがわかる。
照明すら熱く感じるようだ。

第1ヒートが終わってすぐに仙石さんにアドバイスをもらおうとしたのに、肝心な姿が見えない。
どうしようもないので、僕はタオルで汗を拭きながら第2ヒートに出ているガジュさんたちの姿を目で追った。

性格はむかつくけど、体の動かし方は本当に上手い。

悔しさに唇を噛んでいると、再び僕たちが出る第1ヒートが回ってくる。
息はまだ整っていないけど、出ないわけにはいかない。

そうして迎えたタンゴでも、次のスロー・フォックス・トロットでも、僕は自分のスタミナが尽きかけていることを嫌でも痛感することになった。

足が動かない。
ペットボトルの蓋すら開けられないほどに手が震える。
真っ直ぐ立っていることができない。
グラウンドを走りきった時みたいに、喉の辺りに鉄っぽい味を感じる。

僕にはまだ、仙石さんから教わった振り付けバリエーションが残っている。
これさえあれば、またあの時みたいに自信を持って思いっきり踊れるに違いない。
仙石さんを見つけられないまま、乱れた呼吸が整わないまま、僕は準決勝最後のクイック・ステップを踊るためにフロアへと足を踏み入れた。

ダンスを始めたら、僕も変われるんだと思っていた。

プロの世界に足を踏み入れた名前ちゃんみたいに、プロの世界で戦う仙石さんのように。
長いものに巻かれることもなく、自分の意思で何かを決めて、輝けるんだと思っていた。

なのに、どうして僕はこんなに不器用なんだろう。
どうしてこんなことができないんだろう。
こんなにも息ができないのに、まこちゃんからは疲労の様子さえ窺えない。

フロアの床がまぶしくて仕方がない。

視界の端で、大きな人が立ち上がる。
それは、ずっと探していた仙石さんだった。


「バリエーションはやめとけ!」


なんでこんなにももどかしいんだろう。
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