08
"名前"
その名前と容姿以外のことについては、何一つとして判らない。
名字も、年齢でさえも。
まこの目も大概デカいと思っていたが、名前の目もくっきりとした二重と豊かな睫毛に囲われてなかなかの大きさをしている。
平面でも見て取れるなだらかな鼻筋に、呼吸のしにくそうな小さな鼻。
その下でふんわりと膨らむ唇は、妙に胸をざわつかせる。
名前は競技ダンス用品を専門に取り扱うロゼ・ティコ───ロティの専属モデルだ。
汗に強い化粧品だったり、衣装に合わせる幅広いデザインの小物がメインなので、全身が見られることは滅多にない。
そのため、記念すべきロティ創刊第1号のカタログの後ろ2〜3ページを飾る名前の全身ショットはレア中のレア。
そこで判明したのが、存外エロい体型をしているということだ。
名前は身長が高いらしく、そのデカい胸も絶妙な主張をしている。
俺としては少し心配になるくらいに細い足も長く、いつか奈々緒ポーズでも披露してほしいくらいだ。
そして何よりも背中がエロい。
名前を通して、時には胸よりもエロく思える部位が存在することを知った。
一部のダンサーからは"ホットバック"と呼ばれるくらいに、名前の背中は最高だった。
できものも皺も脂肪も、余計なものは何一つとしてない。
これほど綺麗な背中を維持するために、一体どれだけの努力をしているのか。
しずくが頑張れば手の届く美女であれば、名前は頑張っても手の届かない美女。
俺の中での"名前"と言えば、そういう存在だった。
そんな名前と出会いを果たした矢先、まこも名前のファンだという事実を知った。
ロティはどちらかと言えば女性向けのブランドなのでまこがロティのターゲットに当てはまるのも納得だが、そうなってしまえば漫画やダンス誌の中に唯一キープしているカタログを紛れ込ませているなんてことは口が裂けても言えない。
まこには知られてはいけないのだ。
俺も名前をかなり好意的に思っていることを。
だから、小笠原であの名前と対面した時は衝撃的だった。
しずくと同じ制服を着て、何度も何度も見た"名前"とは違う、少しだけあどけなさを残した名前が。
あの時は咄嗟にまこを表に立たせてなんとか場をやり過ごしたが、正直とてつもなく緊張した。
密かに焦がれていた名前を目の前にして、誰が冷静でいられると言うのだ。
緊張して噛み倒すまこをからかいながらも、視線は名前から少しも外さなかった。
それからまこがサインを強請ったものなので、ここぞとばかりに名前の隣に座る。
今までずっと紙面の向こう側の存在だった名前だったが、洗練された印象とは違い、話しやすくて愛嬌のある女子だということに印象が塗り替えられていく。
ちょっとでもからかえばすぐ顔を真っ赤にするし、ころころ変わる喜怒哀楽の表情が賑やかな女子だった。
本当はずっと名前とだべっていたかったが、まずは競技ダンスの方で身を固める必要がある。
兵藤の話を持ち出して、しずくにパートナーになってほしいとあれこれ誘っていれば、鞄を持って入り口の方に向かう名前が見えた。
帰るのかと聞けば、帰ります、と短く答えが返ってくる。
忘れそうになっていたが、名前は現役のプロモデルだ。
普通の学生と違ってスケジュールも分刻みだろうし、俺は特に引き留めようとはせずその背中を見送った。
小笠原に通っていれば、また会えるだろう。
そんな根拠のない自信が、その時の俺にはあったのだ。
「ガジュくんさ」
名前が小笠原に姿を見せなくなって数日が経った頃。
休憩中、不意にしずくに呼びかけられスポドリから口を離す。
「名字さんのことはすぐわかったんだね」
「……は?」
何のことだ。
軽くストレッチをするしずくに首を傾げれば、ずっと無表情だったそれが少しだけ変化する。
「フジ田くんと名字さんって小学校からの付き合いでいつも一緒にいるんだけどね、そんなフジ田くんでさえ名字さんが"名前"だってことに気づけなかったんだって」
眼鏡をかけていない2つの目が、俺に焦点をあててくる。
「どうしてガジュくんはすぐに気づけたんだろうなーって」
俺には苦手なことがある。
試合用に繕った姿と、通常時の姿をイコールで結びつけることだ。
会場で声をかけられても「誰だっけな」という疑問で頭がいっぱいになるし、プライベートで話しかけられてもよっぽど親しいやつ以外は「誰だっけな」。
しずくは間違いなくそこを突いてきている。
けど、俺にも理由は解らなかった。
「……わかんねぇ」
「そう」
素直にそう零せば、意外にもこの話題はそこで終わった。
考えたこともなかった。
あの時、なぜすぐに名前だとわかったのか。
何度も見た名前は試合の時みたいな濃いヘアメイクを施していたのに、実際に目の前に現れた名前は中学生らしいシンプルなそれだった。
体型で判断したわけでもない。
むしろ制服を着た名前を見て「着痩せするのか」と思ったぐらいだ。
あの背中だって、制服にすっぽりと覆われているから見ることもできない。
何をもってして名前だと気づいたのかはわからないが、とにかく改めて思えば俺自身にとっても不思議な現象だった。
そして、噂をすればなんとやら。
こうやって名前の話をしたからかは定かではないが、その日の帰り道に名前を見つけた。
女子が一人で歩くには遅い時間だったこともあり、俺は急ぎ足で名前の元に近づく。
当の本人は少しだけ下を向いていて、俺の姿には気づきもしない。
少々強く腕を掴んだところで、ようやくその大きな目が俺の姿をとらえた。
「今帰ぇりかい?」
「急いで帰ってるところです」
とは言っても不安だ。
俺は掴んだ腕もそのままに来た道を引き返す。
このまま見送るやつは男の風上にも置けない。
名前とまともに話すのは初めて出会った時以来だったが、道中は他愛もない話で盛り上がった───と思う。
掴んだ名前の腕の細いこと。
枝みたいな細さのそれは、俺の腕と同じ役割を果たせているのか疑問すら沸き上がる。
カタログ情報だと、確か名前は全身がほっそりとしていた。
骨と皮だけのような細さというわけでなく、ほどよく筋肉のついた女らしい細さと言うべきか。
それでも俺からしてみればちょっと突いただけで折れるんじゃないかと思うくらいで、俺たちのすぐ横を車が通り過ぎるのを見て今度は手の平の方を包み込む。
こっちの方が、何かあった時にすぐ助けられる。
手も意外と小さかった。
身長が高いと手や足のサイズも必然的に大きくなるのだと思っていたが、どうやらそういうわけではないことを知った。
色々と体の神秘に感動していると、不意に名前が俺の名前を紡ぐ。
「───……ごめんなさい」
そして、唐突に謝られた。
だけど俺からしてみれば謝られるような心当たりはなく、一体何に対しての謝罪なのか理解できずにいた。
しばらく頭を抱えていると、名前の声がぽろぽろと零れ出す。
どうやら初めて会った日に名前からぶっきらぼうな態度を取られたらしいが、正直俺としては「そんなことあったか?」という気持ちでいっぱいだった。
俺の記憶はこんな調子だと言うのに、名前があまりにも苦しそうに告白してくるので、なんだか申し訳なさすら感じる。
「……私、賀寿さんが兵藤くんのことを悪く言ったのが許せなくて……賀寿さんや花岡さんのこと何も知らないくせに、兵藤くんのことだけ知った気になってて……すごく失礼な態度とっちゃいました」
うんうんと相槌を打ちながら名前の言葉を聞いているなかで、なぜか"兵藤"の部分に酷い引っかかりを覚える。
名前はモデルで、ダンサーというわけではない。
ならばなぜ、こんなにも兵藤を庇うのだろうか。
兵藤のことを知った気になってた、ってなんだ。
そんな煮え切らない感情が漂うものなので、名前の最後の方の言葉は右から左だった。
そして、つい思わず言ってしまった。
「……名前は兵藤が大事なん?」
「え?」
まあるい瞳が、動揺に染まる。
いつか見た年上のダンサーが身につけていたジュエリーにも負け劣らない、きらきらとした水晶玉。
独り占めしたいと思った。
俺以外をうつしてほしくない、と。
いつも名前の目は俺だけを見つめていた。
だけど、それは紙面なのだから当たり前のことだ。
いつかこの目に見つめられたい、と思っていた矢先に本人と知り合うことができ、願望が叶ったと思っていた。
なのに、名前は違う男を見ている。
腹の底が気持ち悪い。
燃えるように熱くて、苛立ちを誘発する不快感だ。
それと同時に、この上ない悔しさが込み上げた。
「───悪ィ、今のナシ」
これ以上言うと本当に自分自身が惨めになるように思えて、俺は早々にこの話題を終わらせる。
兵藤清春。
この男に闘志を燃やすのは何度目だろうか。
久しぶりに感じた燃え上がるような闘争心を隠すように、俺は名前の小さい手をもう一度強く握った。