07


マリサプロジェクトとは別の案件が入り、この2ヶ月は目が回るように忙しかった。
もちろんマリサプロジェクトと平行してのスケジュールだったので、頭の切り替えも難しかったし、自分の体作りもなかなか難航した。

マリサプロジェクトの方は、残す2日間が勝負の時だ。

日曜日にマリサさんとの打ち合わせがあり、その際に例の姿勢・・・・をチェックされることになっている。
出来映え次第では、泣きを見ることになるのだ。

やり残しのないように、悔いのないように、今日と明日の私は最後の追い込みに取りかかる。

学校帰りに向かったスタジオで、今日のタスクを一つひとつこなしていく。
体を動かして、鏡の前で花岡さんのフォームを思い描きながら再現する。
この3ヶ月で、自分が理想とする形にかなり近づいた。
仕事のための体作りを行う傍らで、フォームの練習ができるなんて贅沢だ。

そんなことを繰り返して、ふと時計を見れば、時刻はとうに9時半を回っていた。

このみさんには絶対に補導されるなときつく言われているし、この辺りは10時になる前から警察の目が光り出す。
私は慌てて帰り支度を済ませてスタジオを飛び出した。

汗も流さずに出てきてしまったので、夜風が一瞬にして皮膚の表面を冷やしていく。


「おい」


早足気味に駅舎に吸い込まれていく人たちを追い越して、人気の少ない脇道に入ったところで大きな手が手首を掴んできた。


「名前きゃ?」


相手の顔を確認するよりも先に聞こえてきた言葉で、手首を掴む正体が割り出される。
一瞬にして、体中から力が抜けるようだった。


「びっ…くりしました、賀寿さん……」
「それはこっちの台詞だんべ。どうしたん、こんな時間に危ねぇだろ」


まさに今、危ない思いをするのではと思い込んだところだ。
喉まで出かかったそんな言葉を飲み込んで、私は「そうですね」と苦笑いを浮かべる。

賀寿さんからはほのかにボディソープの香りが漂っていて、それだけで練習の帰りだということが窺えた。
その点私とくれば、シャワーの1つも浴びずに転がるように出てきたものなので、賀寿さんの元に汗のにおいが届いていないか不安で仕方がない───なんとなく、賀寿さんは鼻が利きそうな印象がある───。

捕まれた腕もそのままに体をもじもじとさせていると、賀寿さんが微かに呆れたそれで息を吐いた。


「今ぇりかい?」
「急いで帰ってるところです」
「……送るべ」
「え───わっ」


賀寿さんはくるっとその場で踵を返すと、私の腕を掴んだままずんずんと歩き出した。
揺らいだバランスは持ち前の体幹ですぐに戻せるけど、頭の中はいまだにぐるぐると混乱している。
私は濃紺の空の下にぼんやりと浮かび上がる後頭部を見上げながら、大きな手の甲に空いてる方の手を乗せた。


「賀寿さん、帰るところじゃ」
「女子一人で帰ぇらせる男がいるきゃ」
「でも……」
「それとも俺と一緒にいるのがやなん?」


そんな聞き方はズルい。
兵藤くんや真子ちゃんへの物言いはムッとするところがあるけど、だからと言って一緒にいたくないとか、それとはまた話が違う。

何も言い返せなくてぐっと押し黙れば、賀寿さんは声を上げて笑った。
日中でも夜でも、まるで太陽みたいな人だと思った。

何を言ってもきっとこの先の展開は変わらないだろうから、私はお言葉に甘えて賀寿さんに送ってもらうことにした。


「名前の腕細っえのぉ!おっかきそう折りそうだで」


そう言ってこちらへと視線を寄越す賀寿さんは、私の手首を握る手元を一瞥してから手を離し、その手で自分の手首を握る。
指の余り方が全然違うと可笑しそうにしたかと思うと、その手はすぐに私の手首に戻ってきた。
てっきりそのまま手が離れるのだとばかり思っていた私は、しっかりと、今度は手の平にくっついてきた賀寿さんの手から目が離せなかった。


「あの、手……」
「あ?」
「繋がなくてもちゃんと歩けますよ?」


逃げるつもりも毛頭ないし、見知った道で迷子になったりもしない。

賀寿さんは長兄で妹がいるから、年下に対して面倒見が良さそうだ。
私もこのみさんによく世話焼きをしてもらっているけど、さすがにそこまでの間柄じゃない人相手に甘えきったりするほど子どもではない。

そんな意味を込めて首を傾げれば、賀寿さんは逆にきょとんとした表情を浮かべた。


「名前に何かあった時すぐに助けられるようにしてるだけだがんね」


なんでもないように、当たり前だと言いたげにあっさりと紡がれたその言葉に、私は自分の内側から激しく体を叩く心臓の音を感じた。

動揺が手の平を伝って賀寿さんの元に届かないことを祈る。
お願いだから、このタイミングで手汗なんて掻かないでほしい。
顔を撫でる空気の冷たさを指先まで伝達させるように、私は汗なんて掻く余裕のない寒さだと自分に言い聞かせる。

そうだ。
賀寿さんはこういう人だ。
初めて会った時も、自分の真っ直ぐな気持ちを花岡さんに告げていた。
自分の言葉に曲がらない信念を持っている、素直な人なのだ。

喧嘩なんてせず、お互いを信頼し合えれば心強い存在になるのだろう。

私は頬に集まる熱を隠すようにこれでもかと俯き、深呼吸を数度繰り返した。


「賀寿さん」
「あ?」
「───……ごめんなさい」


私の突然の謝罪に、賀寿さんはその言葉が示す出来事を思い返すように言葉を止めた。


「初めて会った日、賀寿さんにつっけんどんな態度とっちゃって……」
「……んー?そんなことあったかい?」
「覚えてないんですか?」
「覚えてないも何も、俺の記憶にはねぇで」


丸くした目で、賀寿さんを見上げる。
視線の先にいた賀寿さんは、本気で判らないと言いたげなそれで頭を掻いていた。

思い当たらない。

その状況がさらに罪悪感を植え付けてくるようで、目頭がカッと熱くなる。


「……私、賀寿さんが兵藤くんのことを悪く言ったのが許せなくて……賀寿さんや花岡さんのこと何も知らないくせに、兵藤くんのことだけ知った気になってて……すごく失礼な態度とっちゃいました」


あの場にいなかった兵藤くんが悪く言われることもつらかったし、自分の心が嫌な子になるのも耐えがたかった。
だから花岡さんと仲直りができた時はすごく嬉しかった。
そして、賀寿さんにもずっと謝りたいと思っていた。

いざ待ち望んだ機会が巡ってきたかと思えば、当の本人は全く気にも留めていなかった。


「……名前は兵藤アイツが大事なん?」
「え?」


宙ぶらりんになった気持ちのやり場を考えていると、不意に賀寿さんの歩みが止まる。
振り返って見れば、少しだけ眉間に皺を寄せた表情が目に飛び込んできた。
繋がれたままの手が、ぎゅっと握られる。

初めて見る顔だった。


兵藤アイツは特別きゃ?」
「え、と……」
「名前はダンサーじゃねぇのに、なんでアイツの肩べぇ持つん」


切に訴える。

そんな言葉が頭を過ぎったくらいに、賀寿さんの眼差しは強く私をとらえていた。

そんなの、決まっている。
兵藤くんの見ているものと、私の見ているものが同じだからだ。
ダンサーとか、モデルとか、そんな縛りは関係ない。
そこに辿り着くために藻掻く姿も、努力を惜しまない気持ちも、ミリもズレることなく綺麗に重なり合うからだ。


「───悪ィ、今のナシ」
「…………」
「あと敬語もさん付けもやめりぃ」
「……わかった」


そう言って賀寿くんは歯を見せて笑い、再び歩き出す。

妙な突っかかりだ。
中途半端に初めて見る賀寿くんの様子に触れたせいで、後ろ髪を引かれるような思いが私と賀寿くんの後を追いかけてくる。

少しずつ体の内側が冷えていくのに、繋いだ手だけは温かかった。
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