02



隣に座った賀寿さんが、大口を開けてゲラゲラと笑っている。
膝を叩くたびにソファが揺れて、私の体も小さく跳ねた。


「これじゃあサインじゃーなくてただの署名だぃね!」
「お兄ちゃん!そんな言い方…!」
「いいの、真子ちゃん…事実だから……」


顔中が熱くて、俯きながら両手で覆う。

真子ちゃんからサインを頼まれて快諾したものの、今までに一度もサインなんて書いたことのなかった私は、自分のサインを持っていなかった。
テーブルの上で開いたロティのカタログの上空で、環さんから借りたマジックペンがふらふらと彷徨う。

散々迷った挙げ句に何の捻りもなく名前だけを綴った結果、こうして賀寿さんに大笑いされる羽目になった。
それでも真子ちゃんはただの署名が載るカタログを胸の前で抱きしめて、私の目を見ては柔らかく微笑んだ。
それだけで幸せに満たされるようだった。


「想像してた名前と全然違らいなぁ」
「そうかぁ?逆に俺はモデルの名前の方が馴染みないけどねぇ」
「仙石さんそれマウントっスか?」


赤城賀寿さんと赤城真子ちゃん。
正真正銘の兄妹で、ラテン部門ではかなり有名な兄妹カップルだそうだ。

控えめな真子ちゃんに反して、お兄さんの賀寿さん───名前で呼んでほしいと頼まれた───は人懐こい人で、私との距離も一瞬にして詰めてしまった。
それこそ、私が一歩下がって控える前に。

本来は群馬に住んでいるらしい2人が、どうして小笠原ここにいるのだろう。

そんなことを考えながらソファから立ち上がってペン立てにマジックペンを返したところで、その謎が明らかとなった。


「なぁ、兵藤の足悪いん?」
「……さあ」
「そおっけぇ。じゃ、俺ら組むっきゃ───」
「しつこい」


兵藤、足悪い、俺ら、組む。

このワードで賀寿さんがここにいる目的を理解した私は、思わず「え!?」と声を上げそうになった。
口に手を当てることで声は抑えられたけど、驚いたという態度はしっかりと体に出てしまい、傍にいた環さんにもしっかりと見られたみたいで苦笑いされた。

ついさっき、賀寿くんと真子ちゃんは兄妹カップルだと紹介をしてもらったばかりだ。
だけど賀寿さんは花岡さんとカップルを組みたがっている。
真子ちゃんとの間に何か問題でもあるのだろうか。
そもそも花岡さんには兵藤くんがいるし、賀寿くんと組む理由もないはずだ。

まるで修羅場。

昼ドラのような三角関係の図が、私の頭の中に浮かび上がってくる。


「しずく!必ず幸せにしてやる!」


仙石さんの牽制すら物ともせず、賀寿くんが真剣なそれで花岡さんを見つめている。
不謹慎だけど、少しドキッとしてしまった。
環さんも同じだったようで、「あら…」と口元に指先を押し当てている。
世界中の女子が憧れるシチュエーションだ。


兵藤しかばね捨てぶちゃって、俺の元へ───」
「ダメだよ!!」


白熱する賀寿くんの言葉を遮ったのは、仙石さんではなく多々良くんだった。
そんな多々良くん自身も弾みで発した言葉だったのか、特に二の句を続ける前に押し黙ってしまう。

それよりも、賀寿さんの一言は私の心臓に冷や水をかける程の威力を持っていた。
兵藤くんを"しかばね"と表現したことに、もやもやとした気持ち悪さが巣食う。

救護室で見た兵藤くんの目が、今でも忘れられないと言うのに。
私の誠意を理解してくれて、同時に、私に誠意を見せてくれた。
そんな兵藤くんが"しかばね"と呼ばれたことがつらかった。

花岡さんも、どうして何も言わないんだろう。
自分のリーダーをあんな風に言われて、何も感じないのだろうか。

花岡さんとは仲良くなりたいと思っていたけど、特に反論する様子のない彼女に少しだけがっかりしてしまった。


「環さん、急ぎの仕事が入ったので帰ります」
「あらそう?気をつけてね」
「なん、名前ぇるん?」


真子ちゃんではなく賀寿さんの方に呼び止められて、私は「帰ります」と少し素っ気なく言葉を返す。
その際に花岡さんと目が合ったけど、少し不自然なくらいに逸らしてしまった。

全く無視することができない辺り、私も臆病者だと思う。

時々、自分の心が狭くて嫌になる。
特に怒りの感情は押さえるのが難しい。
すぐに顔に出てしまうし、一瞬にして私を嫌な子にさせる。

プロだからこそ、外での振る舞いはよりいっそう気をつけないといけないのに。

スタジオの外階段を登りながら、頬を濡らす涙を乱暴に拭った。





一度家に帰ったものの、どうも落ち着かなかった私はトレーニングスタジオへと向かった。

運動をすると、頭のなかが真っ白になる。
特に普段から行ってるピラティスはヨガみたいに無心で取り組めるから好きだ。

マットトレーニングとマシーントレーニングをこなして、軽くストレッチをする。
帰りは走って帰ろう。

新しいブラトップに着替え直して、その上からウインドブレーカーを羽織る。
スタジオを出る頃はすっかり空の色も暗くなり始めていて、いまかいまかと街灯が準備をしているようだった。
両耳にイヤホンをはめて、再生ボタンを押す。
トレーニングを終えたところで止まっていた曲が、もう一度流れ出す。

以前、このみさんと車中で盛り上がったサントラだ。
その時は話題に上がらなかったトラック。
ピアノとアコースティックギター。
歌い手の力強い歌声。
少しずつ加わるカラーの違う歌声と曲の盛り上がりが、私の足を速めた。

また涙が溢れそうになった。


「名字さん」


膝に手をついて赤信号を待っていると、今はあまり聞きたくない声が私の名前を呼ぶ。

綺麗で、美しい女の子。
最近はそこに力強さも追加された。

イヤホンを外して、ポケットに押し込む。

信号が青に変わった。


「ちょっとだけ話せる?」


月の下で見る花岡さんも、やっぱり綺麗だった。
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