01


朝からどこか上の空だった多々良くんは、私の制止も聞かずに───むしろ何も聞こえていないみたいに真っ直ぐ小笠原へと向かってしまった。
今日は仕事の予定もなかったので一緒に行こうと思っていたのに、当番制の掃除がそれを許さずすぐに後を追うこともできない。

手早く掃除を終えた私は小走りで昇降口へと向かい、少しだけ乱暴にローファーへと履き替えた。


「名字、ちょっといいか」


聞き慣れない声に名前を紡がれ、思わず足が止まる。
呼び止められた方へと振り返れば、伸びた芝生頭の男子生徒が立っていた。

その顔を見るや否や、私は無意識に拳を握り締めてしまった。

多々良くんがダンスを始めたいと言ったあの日。
路地裏で、多々良くんに暴力を振るっていた人───室井くんだったからだ。


「あの、話って…?」


連れてこられたのは雑草の生い茂る校舎裏で、日があまり当たらない場所のせいかどこかおどろおどろしい雰囲気すらある。
正直、小笠原に走り出したい。

多々良くんとの間に割って入った時の仕返しでもお見舞いされるのだろうか。

胸の前で両手を握ることで恐怖を紛らわせていると、ようやく室井くんがその重たい口を開いた。


「お前さ……こないだの日曜───」


そこで不自然に言葉を止めた室井くんに、自然と首が傾く。

こないだの日曜日と言えば、三笠宮杯の日。
多々良くんや兵藤くんに色々と起こった日だ。

それにしても、どうしてこんなにも話しにくそうなんだろうか。


「……こないだの…日曜……学校の誰か、見かけなかったか」
「学校の誰か?えっと、多々良くんと花岡さんには会ったけど」
「それ以外は」
「え…会ってない、と思う……」
「思う?」
「あ、会ってない!会ってないです!」


室井くんは目つきが少し怖いから、ちょっと凄まれただけで恐怖が走る。
肩を迫窄させながらかぶりを振れば、チッという舌打ちが聞こえてきた。


「ならいい。悪かったな」


そう吐き捨てた室井くんが、踵を返して遠ざかっていく。
最後に見えた表情は、どこか安心したような色を浮かべていたような気がした。

それにしても、今まで会話の一つすらしたことがなかった間柄だと言うのに、突然どうしたのだろうか。

しばらく室井くんの後ろ姿を見送っていたけど、1人になった途端に薄暗い校舎裏がもの恐ろしくなって私は堪らずに駆けだしていた。

すっかり見慣れた景色を追い抜いて、見えてきたスタジオのウィンドウサインに胸が弾む。
三笠宮杯が終わってから、多々良くんと花岡さん以外の皆さんにはまだ一度も会っていない。
当日のお礼も言いたいし、今まで距離を取っていたことも謝りたい。
きっと「そんなこと気にしてたのか」くらいに言われてしまいそうだけど、そうでもしないと私の気持ちが晴れないのだ。

これからは、誠心誠意ダンスと向き合って仕事をする。

そう心に決めた私の階段を降りる足取りは、今までで一番軽かった。


「おはようございま───って、あれ……?」


シーン、という擬音が目に浮かぶ。
いつもなら多々良くんや花岡さんがとっくに練習を始めている時間なのに、今日のスタジオときたら誰もいない。
けれど耳を澄ませば話し声は聞こえてくるので、留守というわけではなさそうだ。

スリッパに履き替えて空っぽの受付カウンターに歩み寄ると、その向こうのスタッフルームに人の気配を感じた。

いくらスタジオの皆さんとの付き合い方を改めようとしたところで、私が部外者の立場であることには変わりない。
勝手にスタッフルームに入るのも憚られたので、環さんの携帯にメッセージを入れてみる。
いつも賑やかなスタジオなので、静かだと余計に心細く感じてしまう。


「気づかなくてごめん、名前ちゃん」
「ううん、こっちこそごめんね」


1分も経たないうちにスイングドアの向こうから多々良くんが出てきてくれて、思わず胸を撫で下ろした。
環さんが代わりに多々良くんを寄こしてくれたのだろう。


「どうしたの?何かあった?」
「うーん…それがね……」


どう説明しようか、と考えている時の多々良くんだ。
言わんとしたいことを待つために、首を傾げたのは今日で二回目になる。


「ハァ?たわし、おめぇ一丁前に彼女いるんきゃ?」
「か…!?ち、違います!友達です!」


馴染みのない言葉とともに、多々良くんの背後でスイングドアが勢いよく跳ねた。

仙石さんほどではないけど、兵藤くんよりも大きな体。
無造作に跳ねた短い髪の毛だけ、少しだけ仙石さんっぽいなと思った。

元気な大型犬を彷彿とさせる人が、スタッフルームの向こう側から現れた。
体を少しだけ傾けて、慌てる多々良くんの肩越しにその人を見つめる。
そこで初めて、その人と目が合った。
下睫毛がかわいい人だ。


「こんにちは」
「───!!」


口元に笑みを浮かべながら挨拶すれば、その人はさっきまでの威勢が嘘のように石みたいに固まってしまった。
かと思えばハッと目を見開いて、スタッフルームへと戻っていく。

多々良くんと目を合わせて疑問符を浮かべていると、今度は足音を立ててまた戻ってくる。
───小柄な女の子を連れて。


「まこ!ホレ!前にゆったんべぇ、この人!」
「っ……!!」


大きな目が4つ、一身に突き刺さる。
特に小柄な女の子は両方の目をきらきらとさせて、頬も真っ赤に上気していた。


「はぁ何かゆえやぁ」
「あ……そ、その……」
「ん?」


体の前で組んだ指をいじりながら、目線は私と床を行ったり来たり。
私は女の子の言葉をじっくり待つ。

睫毛長いなぁ、肩細いなぁ。
そんなことを考えていると、遂に、女の子の顎が持ち上がった。


「あ、あの…!わたし……名前さんのファンでちゅっ」


「噛んだ」とデリカシーのないことを言ったのは、この女の子を連れてきた本人だ。

私はと言うと、目の前の女の子の言葉に僅かに目を見開いた。

この子が私のファンだと言う。
あまり歳も離れていなさそうな女の子が、私のファンだと言う。

これは夢だろうか。
つい先日1人目のファンと出会えたばかりなのに、もう2人目のファンと出会えてしまった。
それも、同年代の女の子。
目頭が熱くなりそうだった。


「ありがとうございます!あのっすごく嬉しいです!」
「っ!!」


固く握られたままの両手を思わず取り、ぎゅっと握り混む。
シルクのリボンのような、女の子らしい手だった。


「お名前聞いてもいいですか?」
「あっ……あ、赤城、真子…です」
「真子さん!」
「あの、敬語、いらないです…!私、まだ中2なので…」
「じゃあ1つ下だね。ありがとう、真子ちゃん!」


同世代の女の子には悪意のある言葉を直接向けられることの方が多かったので、嬉しさ反面、戸惑いもある。
信じられないと言ってしまえば簡単だけど、それではあまりにも真子ちゃんに対してとても失礼だ。

どちらの方が適しているのか解らない。

本来の、人を信じやすい私なのか。
それとも、誰に対しても懐疑心を間に挟む私なのか。

ただ、次々に零れる笑みだけは、心からのものだと言うことは解った。
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