08


話が膨らまなくてよかったと人知れず胸を撫で下ろしたところで、環さんがデジカメの設定を触っているのが目に入った。


「環さんは撮影係ですか?」
「そうなの。あとはスタジオのPR的な?あ、名前ちゃんも写る?」
「私はこのみさんに聞かないとなので、やめておきます」
「そっか、モデルさんだからその辺も色々あるもんね」


これは本当半分、嘘半分。

公的なものや不特定多数の目に触れる著作物に写ることは禁止されているけど、私的なもの───プライベートの写真であれば何も咎められない。
SNSに載せる写真を一緒に撮ってほしいと言えばその撮影も可能だったし、環さんだったら悪用しないことも判っているので、どんな形であれ私も一緒に写真に写ることは何も問題ではなかった。

ただ、私が写りたくなかっただけだ。
花岡さんや兵藤くんと一緒に、写りたくなかっただけ。

それだけのことだ。

また自ら距離を開けてしまったことに罪悪感を抱いていると、入り口付近が賑やかになる。


「来たぞー、兵藤!しずく!」
「いらっしゃーい!」


仙石さんだ。
その後ろには忙しなく視線を彷徨わせる多々良くんがいる。

環さんに親しげな挨拶をした仙石さんは、次いでその隣の───つまり私へと目を向け目を見開いた。


「ロティの名前サマじゃねぇか。こうして見るとやっぱり手脚長いなお前」
「え!名前ちゃんなの!?てっきり選手のどなたなのかと…!」
「お前はいい加減モデルの名前を覚えろよ」


仙石さんの大きな手が肩にまわって、ぐっと距離が近くなる。
多々良くんはまた私だと気づけなかったみたいで、目線をふらふらとさせて床に辿り着いたところで止まった。
その間、一度も目と目が合うことはなかった。

初めて私がモデルだと知った時はちゃんと目を見て話せたのに。
そんなことを思い出していると、ふと、更衣室の四方から視線がこちらに伸びていることに気づく。


「あの子もしかしてホットバック?」
「ロティのブースのお手伝いかしら」


気づかない振りをしながら会話を伺っては、その内容がネガティブなものではないことに安堵する。

それよりも、ホットバックって一体なんだろう。

ちらりと仙石さんを見上げてみたところで、彼は多々良くんに選手の情報を伝授しているところでこちらにはちっとも気がつかない。
環さんは仙石さんが1人の選手に威嚇しているところを撮影しているし、花岡さんはメイクの仕上げのために筆を動かしている。
唯一目が合った兵藤くんも、軽く肩を竦めただけだった。

そして、兵藤くんの背後に見えた時計に、もうそろそろ、という気持ちが起き上がった。


「環さん、ありがとうございました!打ち合わせに行ってきます」


無言で出て行くのも失礼だと思ったので、少しだけ声を張り上げて───もちろん、他の方の迷惑にならない程度に、だ───踵を返す。


「さすが早め行動の名前ちゃんね。また展示スペースにお邪魔するわね」
「しっかり新規ユーザー増やすんだぞ」
「頑張ります!花岡さんと兵藤くんも頑張ってね!」
「ありがとう、名字さん」


まだまだ余裕のある時間だけど、道中に何が起こるかわからないし、向こうで時間を持て余す分には問題ない。

挨拶を済ませて更衣室を飛び出し、行き交う選手を縫いながらサブアリーナを目指す。
メインアリーナの更衣室はすべて選手に貸し出しされていて、私たちにはサブアリーナの事務所が控え室として宛われていた。
サブアリーナの事務所には朝に一度訪れているので、行き方は覚えている。

警備の人に挨拶をして、朝に入ったばかりの事務所に入室する。
居心地のいい室温のなかで、へアイメイクさんがサンドイッチを囓っていた。


「おつかれさまです」
「あっおつかれさまです!ごめんね、サンドイッチ食べてて」
「いいんです。朝早くにお願いしてしまったので、ゆっくりしててください」


彼女の本来の出勤時間は8時半だったのに、私が早めに現地に入ってヘアメイクの下準備をしておくと申し出たところ、なんと彼女まで6時半に現地入りしてくれたのだ。
いくらお礼を言っても足りないし、私のわがままに付き合ってくれたことに感謝してもしきれない。

だけど、彼女のおかげでとても完璧なヘアメイクが施されたし、申し訳ないと思いつつもありがたいという気持ちが大きかった。

私はヘアメイクさんの隣の席に腰を下ろして、軟水のペットボトルに口をつける。


「会場の人、みんな名前ちゃんに驚いたんじゃない?」
「うーん…何人か気づいてはくれたみたいですけど」
「声はかけられてないの?」
「そうですね、残念ながら声はかけられてないです」
「うそ!みんなもったいないわね、名前ちゃんをこんなに近くで見られることなんてこの先どれくらいあるか」


私としては、ロティの知名度が上がればそれだけで十分に嬉しい。
けれどロティ側としては私の知名度も上げようとしてくれているみたいで、ヘアメイクさんも一緒になっていつも気にかけてくれていた。

やれやれと首を振りながらサンドイッチを食べ終えたヘアメイクさんに、私は苦笑いを零した。

このみさんの姿がまだ見えないので、ちょっとだけヘアメイク直そうか、という一言とともに彼女がまた魔法をかけてくれた。
まぶたの上を滑る筆の感覚、唇を押すリップのにおい、頭部の皮膚をなでるピンの先。
彼女の繊細な技術と感性が私をモデルだと自覚させる。

雑談を交わしながらヘアメイクを直してもらっていると、10時を10分ほど過ぎたところでドアの向こうからこのみちゃんが現れた。


「お待たせー……って、わ!ありがとうございます!」


まさか既に作業が始まっているとは思ってもいなかったのか、このみちゃんはテーブルに荷物を置くや否やヘアメイクさんにペコペコと頭を下げた。


「いいんです、私も動いてる方が楽しいので」
「今度絶対ディナーご馳走します」
「ほんとですか?やったー!今日は最後まで任せてね、名前ちゃん」
「はい、ありがとうございます」


あたたかくて、ホッとする、家族みたいな一体感がロティにはあると思う。
女を3つ書いて姦しいと読むけど、私はこの賑やかさが好きだった。

その後このみさんから詳細やメイク直しのタイミングについての説明してもらって、時計の針が40分を指したところで私とこのみさんはサブアリーナを後にした。
事務所を出て行く際、「頑張ってね」と声をかけてくれたヘアメイクさんにガッツポーズを返しておく。

スケジュールが進むにつれ会場の賑やかさも増し、メインアリーナ付近はまるでテーマーパークのゲートのように人の多さが確認できた。


「あ、最後にお手洗い寄ってもいい?」
「じゃあ展示ブース寄りのお手洗いに寄りましょう。私はロティのブースに向かうから、終わったらまっすぐ来てちょうだい」

その言葉通り、私とこのみさんは展示ブースからいちばん近いお手洗いで別々になり、手洗いのパウダールームでもう一度自分の姿を確認する。
滞在時間は3分もかかっていない。

時間は50分。
あと10分がなんだかとてももどかしかった。

背筋を伸ばして、顎を引く。

私はもうすぐ、ロゼ・ティコの名前になる。

高い天井から降り注ぐ光の筋は、まるでスポットライトのようだった。


「───わっ」


───十分に気を引き締めたと同時に、私は遂に人とぶつかってしまった。
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