07
頭の中まで溶かしてしまいそうな夏の余熱も過ぎ去り、澄み渡る空と前腕を覆う装いに秋の哀愁を覚えたのも少しだけ前の話。
「来るの9時半でいいのに、そういうとこほんと律儀よね」
「このみ様の教えですので」
「はいはい、撮るよ」
三笠宮杯 全日本ダンススポーツ選手権
看板を指差したポーズで、全身をこのみさんに撮影してもらう。
ロティから用意された衣裳は、少し背伸びをした気分になって心が弾んだ。
黒のチュールで薄らと覆われたベージュ色のサテン生地のフレアドレスは、前は膝丈、後ろはフィッシュテールになっていて可愛らしさと上品さが混在していた。
このみさんは私の背中を推したいらしく、刺繍があしらわれたシースルーのトップ部分は、背中が大きく空いている。
屋外では少し寒いけど、今日は殆ど室内なので大丈夫だろう。
それから、バストアップの写真を自分で撮影するのも忘れない。
早くから会場入りしてくれていたヘアメイクさんにばっちり仕上げてもらった顔をフレームにおさめて、2、3枚撮影した。
宣伝活動として、SNSに投稿するための写真だ。
売れっ子とは程遠いモデルだけど、こういう地道な活動が功を奏すこともあると力説されたことがあり、それ以来モデルとして何かに取りかかる際にはこうした公報的活動も欠かさないようにしている。
三笠宮杯でロティの出展を手伝うことを簡単に投稿して、スマホをポケットにしまった。
「三笠宮杯自体は20時以降まであるけど、ロティの展示は18時まで。名前に立ってもらうのは11時から12時までの1時間ね。打ち合わせは10時からにしましょ。
その後13時から14時…多めに見積もって14時半まではインタビューに同席。それが終わればフリーだから、兵藤くんのダンスでも見ていけばいいんじゃないかな」
「はい」
このみさんのスマホから送られてきた今日のスケジュールを眺めながら、必要そうな備考を追加する。
現在、朝の8時半を過ぎたところだ。
打ち合わせまで1時間半もある。
展示スペースの設営も終わってしまっているし、このみさんもこの後しばらくは展示に付きっ切りになってしまう。
どうしようかと心の中で首を捻っていると、このみさんが「あー!」と言いながら遠方に手を大きく振った。
「環さーん!」
「このみちゃーん!」
環さんだった。
いつもは下ろしている髪をポニーテールにして、服もよく見るレッスンウェアとは違って大人っぽい。
ヒールを慣らしながらこちらへと駆け寄ってくるそのバランス感覚に、私はさすが、と瞠目した。
「環さん、おはようございます」
「おはよ…って、わあ!名前ちゃん大人っぽい!一瞬誰だか判らなかった!」
「名前はロティの顔なので今日は張り切らないとと思って」
「確かに対面は大事よね。名前ちゃん、たくさんファンを作るのよ」
「頑張ります」
ぐっと握り拳でこちらを見つめる環さんに、苦笑いで返しておく。
「それじゃあ環さん、名前をよろしくお願いします」
「了解、任されました!お仕事頑張ってね」
そう言ってこの場を離れていくこのみさんの後ろ姿に、私は思わず「え…」と心の声を漏らしてしまう。
何も聞かされていない。
このみさんと環さんの間では既に話が取り交わされているようで、環さんは何の戸惑いもなくこのみさんの背中を見送っている。
おろおろとしているのが環さんに伝わったのか、環さんは私を振り返るなりハッとした様子で眉を下げた。
「もしかしてこのみちゃんから聞かされてない?」
「は、はい…」
このみさんは時々そういうところがある。
大切なことだけは漏れなくしっかり伝えてくれるけど、それ以外のことはサラッと伝えるか、もしくは伝え忘れるかのどちらかだ。
サラッとでも伝えてくれた方がありがたいと言うのに、残念ながら今日は後者の方だった。
「名前ちゃん、こういうの初めてでしょ?勝手もわからないと思うから、お仕事まで私と一緒でもいいかしら」
「え?いいんですか?」
「もちろんよ!後で多々良くんたちと合流するし、みんなで兵藤組を応援しましょ」
「行きましょ」と踵を返した環さんの後れ毛見つめながら、私は一人で思い耽った。
環さんから願ったり叶ったりのお誘いをもらった反面、一緒にいて邪魔にならないかと不安になる。
所詮私はロティの人間で、小笠原ダンススタジオの生徒でもなければ、出場する兵藤くんや花岡さんの友達でもない。
このみさん辺りに頼まれたんだと思うけど、はっきり言ってしまえばお世話をしてもらう義理なんてこれっぽっちもないのに。
「清春くんと雫ちゃんね、シードだから出場は2次予選からなの」
「2次予選……」
三笠宮杯では、スタンダード───恐らくディズニーのことだ───とラテンでそれぞれ1次予選、2次予選、準決勝、決勝と勝ち進んでいくのだと教えてくれた。
相変わらずこの手の話題に明るくない私は、環さんからもらったパンフレットのタイムテーブルを眺めながら「へえ」と小さく呟いた。
人でごった返すエントランスは、色んな香水の匂いと、熱気。
見えない火花がそこかしこで散っていて、肌がビリビリするようだった。
環さんとの距離を少しだけ詰めて追いかければ、一際賑やかな場所へと辿り着く。
"スタンダードシード選手更衣室"
部屋の表側には、確かにそう書かれた紙が貼り付けられていた。
「選手更衣室!?だ、だめです環さん!私、入れません…!」
「あら、どうして?清春くんも雫ちゃんもきっと喜ぶわよ」
「試合前なのにそんな…!」
「試合前だから、でしょ?ほらほら入りましょー」
時々、環さんのこの力強さはどこから出ているんだろうと考えることがある。
足を踏ん張りたいところだけど、借り物の靴を駄目にするわけにもいかず、大した抵抗も見せられないまま私の足は更衣室の床を踏んでしまった。
こんなところ、軽い気持ちで来てもいい場所じゃないのに。
「2人ともお疲れさま」
「あ、たまきさん───と……名字、さん?」
環さんから解放された手を胸の前で握って、爪をお互いの手の甲に軽く突き立てる。
そうでもしていないと、エントランスなんて比じゃない闘争心に飲み込まれてしまいそうだった。
首を傾げておずおずと私の名前を口にした花岡さんは、わあ、と目を見開いている。
その感嘆符をそっくりそのままお返ししたい。
遠くからでも色濃く判るメイクに、しっかりとアレンジされた髪。
学校で見る花岡さんとは随分とかけ離れたその姿に、綺麗な子だと思った。
メイクの仕上げをしている花岡さんの傍らで、髪を撫で付けた兵藤くんがジャージ姿でストレッチを行っている。
ジェルとスプレーで固められた髪は、手で撫でてみればさぞ心地が良いのだろう。
そんな兵藤くんの視線がこちらを向いても、理由の解らない居心地の悪さに私は小さく会釈をするので精一杯だった。
兵藤くんはストレッチをしたまま数秒固まって、その口が「ああ」という形になったところでストレッチの動作を解いた。
「誰かと思ったらお前か」
「2人とも、試合前にお邪魔してごめんなさい」
「どうして?名字さんが来てくれたおかげで元気もらっちゃった」
「だといいんだけど…」
メイクのせいだろうか。
いつもの花岡さんと違って、今日の花岡さんは少し勝ち気な女の子に見える。
とりあえず邪険にされなかった安堵に気持ちが少しだけ解れて、私は今よりも少しだけ2人との距離を詰めた。
「販促物ではよく見かけてたけど、名字さんのモデルモード、生で見るとオーラすごいね。圧巻されちゃった」
「今日はロティの名前を売るチャンスだって、マネージャーも張り切ってて。花岡さんもすごく綺麗。誰にも負けない気がする」
同じ学校に通う同級生と話していると、不思議と饒舌になってしまいそうだった。
次々動きそうになる口をグッと噤んで、慌てて兵藤くんへと話を振る。
彼は口数も少ないので話題が膨らむこともないだろう。
「兵藤くんもすごくかっこいいね」
「…………どうも」
「今日はさすがにボタン掛け違えてないよね」
「大丈夫だと思う」
2回の手短なキャッチボールで終わった。