06




どういう反応をしようか困っていると、背後から肩をポンと叩かれる。
反射的に振り返れば、柔らかな笑みを浮かべた花岡さんが立っていた。


「名字さん、清春のことありがとう」
「う、ううん。咄嗟に助けてあげられなくてごめんね」
「どうして?名字さんモデルでしょ。そんな危ないことしなくて逆に安心しちゃった」


ふっくらとした唇から"モデル"という単語が飛び出た途端、一瞬にして私の体に冷たい緊張が走る。
筋肉という筋肉にピクリと電流が走って、目を動かすだけで精一杯だ。

花岡さんとは中学2年生の時に同じ委員会だったこともあって、初めて会話をする相手というわけでもない。
お互い「下の名前は確か…」───そんなくらいの、曖昧な間柄。
仲がいいわけでも、悪いわけでもない。
そんな振り分けすらできないくらい、簡素な関係だった。

花岡さんは私の強張った笑顔に気づかない様子で、そのまま更衣室へと吸い込まれていった。
その後を、兵藤くんの練習着を譲り受けた多々良くんが追いかける。

花岡さんの怒声と、何かが壁に激突した鈍い音すら、ずっと遠くから聞こえてくるようだった。


「名前ちゃん、どうかした?」
「あ……いえ、なにもないです」


少し眉を下げた環さんに顔を覗き込まれて、咄嗟に作り笑いを浮かべる。
筋肉を動かして無理矢理作った表情なのに、周りから見れば普段と何一つ変わらない心からの笑顔。
嘘に見えない笑顔には慣れた。

なんでもないふうに首を振れば、環さんは「そう?」と少しだけ腑に落ちない様子で上体を戻した。


「───きゃっ」
「なんだァ?やっぱり生理止まったか?」
「コラ仙石くん!清春くんもいるんだからそんなこと聞かない!」


ぐんっと旋毛の辺りが重たくなって、首ごと頭が沈み込む。
私からしてみると丸太みたいに逞しい腕に頭を弄ばれたので、必死に体を捩って仙石さんの戯れから逃れた。

椅子から飛び退いた先で練習に取りかかり始めた兵藤くんと花岡さんの姿を見つけ、私は手の平で拳を叩かずにはいられなかった。

花岡さんの背中を食い入るように観察してみる。

パッと見て活発化が判断できるところは、背筋と腰元、ハムストリング。
日常で動かすには癖付けが必要な筋肉ばかりだ。
いくら基礎値が高いとは言え、見慣れない動作は理解に苦労する。


「名前も多々良アイツと一緒に始めるか?」


花岡さんの真似をして姿勢をもぞもぞと動かしていたことがバレたみたいで、仙石さんが多々良くんを親指で示しながらこちらへと歩み寄ってきた。
分厚い胴体の向こう側を覗き込めば、多々良くんが番場さんと仁保さんに見守られながら踊っている───スタジオの前で踊っていた時よりも下手に見えるのは気のせいだろうか───様子が覗える。

何のブレもない統一された所作で踊る兵藤くんと花岡さん。
その傍らで、仁保さんに指導されながらも目はその二人を追っている多々良くん。

スタジオの壁際に立ち尽くしながら、私も花岡さんの姿勢を目蓋に焼き付けていく。
兵藤くんに教えてもらったホールドを控え目に試して、ピンと伸びた彼女の細い体が動かしている筋肉と同じところが連動するよう意識した。


「え、まじで始めんのか?」
「違います。ダンサーの姿勢を盗んでるんです」
「ほう、そりゃまたなんで」
「……ロティの沽券に関わるので」


詳細を言う必要はないと思って、なんとなくそんな言葉で濁しておく。

選ばれた言葉にふむ、と考え込んだ仙石さんだったけど、次の瞬間、あの逞しい腕が力強く肩甲骨の辺りを強く引き寄せた。


「っ!」
「真似だけでどうにかできるもんじゃねぇぞ」


今まで見た仙石さんのなかでいちばん距離が近い。
彫りの深さがよく判る眼窩に、そこから伸びる長い睫毛。
それからなんて鼻の高いこと。

慣れない体勢が怖くて、添えるように軽く握ってくる大きな手をきつく握り返す私は随分と間抜けに映ってるかもしれない。


「普段通りに立ってみな」
「…………」
「やっぱ基礎は固まってんな。そこからさっきのやつ、やってみろ」
「……っ」
「腰から反らすな、痛めるぞ。動かすのはここだ。ここに力を入れて頭を倒せ」


背中に回り込んだ仙石さんの手が、肩甲骨の間を強く押した。
慣れない姿勢に呼吸が浅くなる。
空調も調節されているのに、じんわりと額に汗が滲んだ。
背中が痛い。


「こいつさえ習得すれば、ロティのメンツも保てるだろ」


そう言いながら仙石さんが手を離そうとするので、思わず掴んでいるところ全てに力を込めてしまった。
猫かよ、なんて笑い声が聞こえた気がした。

力を込める場所。
使う筋肉。
目線の位置。

仙石さんに教えてもらったことを、画像をスキャンするみたいに頭から爪先まで体に覚えさせる。
この姿勢に辿り着くには背筋の柔軟性が足りない。
トレーニングによっては可動域も広がりそうだ。

今の自分に足りないところを脳にインプットして、漸く私は体を元に戻した。


「ありがとうございました、仙石さん」
「いいってことよ。レッスン料もしっかり頂戴したしな」
「え?」


払った覚えのないレッスン料の話題が持ち出されたかと思うと、仙石さんの目線がやけに下の方に向いていることに気づく。


「お前まだ中3だよな?DかEってとこか」
「───さ、さいてい!」


優雅な音楽を絶叫が切り裂いてしまったけど、私はそれにも構わずスクール鞄を掴んでスタジオを飛び出した。

駅に向かう道中、このみさん宛てのメールに「身長体重3サイズの書かれたモデル資料は絶対に小笠原ダンススタジオに渡さないで」と乱暴に打ち込む。
コラボの関係でマリサさんにはこのモデル資料が渡っているけど、小笠原ダンススタジオ───特に仙石さんには絶対に渡してはいけないものだ。

練習していたから聞こえたかどうかまでは判らないけど、仮にも同じ空間に多々良くんや兵藤くんがいる前であんなこと言うなんて。
男の人ってみんなああなのだろうか。
花岡さんも普段からあのセクハラの餌食になっているのかもしれないと思うと、心底同情する。

電車に飛び乗って渋谷に着く頃には、日もすっかり落ちかけていた。
赤みがかった空と、夜を迎えようとする紺が混ざり合っている。

私の大好きな時間だ。

黄昏時のカーテンに少しだけ気分がよくなった気がした。


「名前ごめん、今日最後の仕事」


軽い足取りで事務所に着くや否やこのみさんにそう告げられて、渋谷に着いたばかりの私はブルーラパンに揺られることとなった。


「ごめんねぇ、このみちゃん」
「いえいえ、マリサさんのお願いとあればいつでもどこでもですよ!」


連れてこられた先は、兵藤くんのお家───兵藤ソシアルダンスアカデミーだった。
なんでも、マリサさんが明日から半月程多忙になるらしく、その間に必要になりそうな資料や要望書の受け渡しのために呼ばれたらしい。


「───と言うことだから。何かあったらここに連絡してちょうだい」
「かしこまりました」


前回と同じリビングでたっぷりと時間をかけて打ち合わせをして、マリサさんが携われない半月間の擦り合わせが漸く終わりを迎えた。
私はと言うと、マリサさんが希望する体型に微調整ができるかどうか、今のスケジュールや体調と相談して可か否かを出しただけだったけど、改めてプロのモデルなんだと気が引き締まるようだった。
とりあえず仙石さんに教えてもらった姿勢に向けての体作りが必要なので、行きつけのスタジオにメニュー相談のメールで入れておく。

このみさんはマリサさんの会話は雑談に変わっていて、その内容は主にこのみさんの熱烈なファントークだった。
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