人の記憶なんてものはあてにならない。
昨晩の夕飯だったり、誰かと交わした駄弁。
ほら、思い出せないことなんてたくさんある。
だから、私は特段気にしていない。
なぜ人間である私が、あやかし溢れるこの世界に存在しているのかとか、以前はどこでどんな人たちと暮らしていたのかということも。
はじめからこの世界にいたのか、それとも、逢魔が時の袂から伸ばされた腕に拐かされたのか。
一度も気にしたことはない。
でも一つだけ気になることがある。
それは、私がこの世界で"私"という自我を持ち始めた頃。
そんな時から、私の隣には一人の男がいた。
名前は知らない。
顔も知らない。
知っているのは、声と"彼"という概念だけ。
"彼"は目元に猩々色の目隠しを施し、口元だけで感情を伝えてくる。
嬉しい時も、拗ねた時も、驚いている時も。
優しい声と口元だけで、私は"彼"と感情のやり取りをする。
いつの間にか"自宅"と認識し始めた住処を"彼"と共有して、私はこのあやかしの世界を生きている。
私は"彼"に心を許し、また、"彼"も私を傍に置いてくれた。
時折迷い込んでくる人間を相手に取引を持ちかけている"彼"は、私には言わないものの、外の世界───人間の世界に焦がれているらしい。
つい先日も、こちら側に足を踏み入れてしまった人間の姉弟を少しばかり弄び、結局は素直に解放していた。
その時の口元の寂しそうなことときたら。
ふと脳裏を過ぎった"彼"の悲しげな表情の記憶に、なぜだか胸が締め付けられた。
呼びかけることもせずに、そっと伸ばした両の指先で"彼"の顎を柔く挟む。
「どうした?」
なんて声には答えずに見えない"彼"の目を見つめれば、"彼"の腰が曲がり顔に影が落ちた。
緩く跳ねた髪が耳を擽ってから、離れていく。
「……あなたとずっと一緒にいたい」
胸板に撓垂れ掛かり、譫言のような溜息を一つ。
当然のように腰に回った腕の重みに、胸の内を巡る思いが強くなる。
私の行方なんてどうでもいい。
どこから来て、人間の癖にこの夜市に住んでいて、これからどうなるかだなんて。
ただ、隣に"彼"がいればそれでよかった。
「───大丈夫、決して離れることはないよ」
その言葉が、今までの"彼"の言葉のなかで一番穏やかなもののように感じた。