日増しに寒くなる早朝は、それに伴い明るくなる時間も少しずつ遅くなる。
昨晩クローゼットから引っ張り出したマフラーで厳重に首を包み込めば、なんとなくその安心感にホッとした。
"首"がつくところを温めるといい、とはよく言うが、指定の制服や必要最低限の防寒具しか身に纏うことを許されていない学生にとって、せいぜい首と手首が温められれば御の字だ。
よくあるデザインのマフラーと、厚手のヒートテックを手首めいいっぱいまで伸ばし、だが手袋はまだ早いような気がしたので家に置いてきた。
学校に近づくにつれ白い息が空気に溶けていく頻度は上がり、自分の体力のなさを痛感しながらも、特に日常生活に支障はないので改善するつもりもない。
まだ人がいないということもあり、廊下は閑散としていて余計に寒々しい印象を与えてくる。
外よりも寒く感じる廊下を突っ切って、開錠だけは施されていた教室の扉を開けば廊下よりもヒヤッとした空気が足元をすり抜けていく。
廊下の空気を遮断するように扉を閉めて暖房のスイッチを入れた時に、温度を少しだけ下げておくことを忘れない。
窓際から横に2列目の1番後ろの席。
自席と認識しているそこにスクールバッグを置き、教室に辿り着いたという達成感によるものかはわからないが意味のない溜息を一つ零す。
予鈴まで、まだ30分も時間がある。
学校に着く時間はいつもこれくらいだ。
家から学校まで、快速で20分、鈍行で40分強。
満員の電車に詰め込まれて20分を耐えるよりも、高確率で座れる普通電車で座席に座って40分揺られる方が断然いい。
なので、普通ダイヤの兼ね合いでいつもこの時間に着くことを強要されるのだ。
1本でもずらせば遅刻になってしまう。
早く学校に着くこと自体にはなんの不満も抱いていない。
朝の誰もいない時間を活用して、読書だったり勉強だったりと何かしら捗るので、むしろ好きなくらいだ。
そして、朝のこの時間が好きな理由は、他にもある。
「おーっす」
比較的強い力で開いているのか、教室のドアが大きな音を立てて開いた。
本当に自分自身が教室に入るための隙間だけを作る動きでドアを開閉したクラスメイトは、今日も金色の髪がまぶしい。
少しずつ近づいてくる照島に、名前は目を細めて微笑んだ。
「おはよう」
「はよー。名前チャンは今日も早いね」
「照島くんこそ、今日も朝練おつかれさま」
窓際の列の後ろから2つ目の机に大きなエナメルバッグを置いた照島は、壁に背中を預けるように椅子に腰をおろし、エナメルの中からコンビニの袋を取り出した。
100円や150円で買える総菜パンが2つと、中身が半分あたりになったペットボトルが机の上に並ぶ。
照島はその大きな手でソーセージの挟まったパンを引っ掴み、封を開けて中身に齧り付きながら思い出したようにくるんと名前へと体を向けた。
「昨日!LINE既読スルーしたでしょ!」
「ごめんね、寝ちゃってたの」
「ひっでー」
ぷっと頬を膨らませて"ひどい!"という感情を表してくる照島は、まるで体だけを大きくした小学生のようで、責められているにも関わらず笑いが零れる。
それに対して「反省してないっしょ」と指摘されるのだが。
寝落ちした、なんてものは嘘以外のなにものでもない。
すでに2つ目のパンに取り掛かっている彼は、昨日も夜遅くまでバレーの練習に励み、今もこうして朝練を終えたばかりなのだ。
部活終わりの彼から来たメッセージに対して返信をして、そのあと少しばかり広がった話題を2つ3つ交わしたところで、疲れているであろう照島を慮って連絡を止めただけだ。
照島には伝えるつもりもないことなのだが、名前は照島との些細なやり取りが好きだった。
───正確には、照島のことが好きなのだ。
何度目かの席替えを皮切りに初めて会話をし、好きなアーティストが偶然にも一緒だったと判明してから交換した連絡先。
そして名前が通学電車を快速から普通に切り替えた日の朝に、初めて2人だけの時間が共有できることが判明した。
そして、朝練を終えた照島と2人だけになれるこの時間を通して、少しずつ照島に惹かれていったのだった。
照島は誰とでも仲良くなれるムードメーカー的存在で、常に人の輪の中心にいるようなクラスメイトだ。
それに対して名前は派手でもなければ友達にもそう言ったタイプの人間はおらず、本来であれば照島は関わりがなくてもおかしくのないような存在と言える。
それでも2人きりで話ができる時間があり、更には連絡先も知っていて毎日のように中身のない連絡を取り合っているこの関係は、名前にとって死守すべきものだった。
あくまでも想いを寄せているのは自分であり、照島の気持ちはこちらに向いていない。
ライクという意味では向いてくれているのかもしれないが、名前のようなラブとは違う。
照島が名前を名前で呼ぶことさえ、彼のようなタイプの人間にとってはなんの躊躇いも意味もないことだ。
そんな存在に対して、特別な立ち位置でもない自分が照島の時間を奪うのはいただけない。
彼には優先すべき時間やものがあるのだから。
そういう意味もあり、名前はいつも照島とのLINEを手短に終わらせていた。
できることなら満足するまで文字の交換をしていたい。
それでも、自分ではなく照島の方から連絡が返ってこない───しつこいと思われることが怖かった。
部活の仲間から教えてもらった漫画が面白かったらしく、携帯で調べた結果を名前に傾けて話す照島の睫毛を眺めながらそんな取り留めのないことばかりを思う。
「……名前チャンってさ」
「ん?」
「俺と話すの楽しくねェ?」
「───え?」
鈍器で殴られたような衝撃が、首のあたりに走る。
つま先がさっと冷えるような感覚に、体がスムーズに動かない。
まるで油が切れたロボットのようにぎこちない動作で照島を見上げた名前の口元は、見事に引き攣っていた。
「……なんで?」
「最近俺と話してる時は上の空っぽいし、LINEだってブッチされるのこれが初めてじゃないしさー。もしそうだったらなんか悪ィなって」
こんなにも楽しみにしていた朝の時間に、少しずつ暗い影が差していく。
窓の外では冷たい風が吹きすさぶ音が響いている。
乗り出していた体をすっかり引っ込めてしまった照島は、黙り込んだ名前を数秒見つめた後、携帯をポケットに入れて立ち上がった。
恐らく、違うクラスのところへ行くのだ。
名前の席の1つ前の席を横切った大きな背が、どこかピリピリとした雰囲気を纏っていた。
「───…待って…!」
「うおっ」
慌てて立ち上がった名前は、それまでの思慮が嘘のように大胆にも照島の腕を掴んでいた。
感情のままに動いたのだろう、そのことに気付く様子もなく、名前は両手に力を込めて照島の動きを制する。
「違う…違うよ、違うの…楽しいよ、照島くんと話すの───すき、だから…」
は?
素っ頓狂な声が、誰もいない教室に反響した。
ピアスの光る耳を真っ赤にさせた照島は、ややあって、自身の腕を掴む小さな手に触れる。
振り払われることを予想した名前はきつく目を瞑り、それよりも先に手を離した。
それでも名前の手を追いかけてきた照島の手はいとも容易く細い手首を掴み、力の限り己の方へと引っ張った。
手首から離れた手が、背中へと回る。
「よかったー!俺、嫌われたと思ってマジ焦った!」
「え、ちょっと…」
「そっかそっか、名前チャンも俺のこと好きだって思ってくれてたみたいで嬉しいわ」
「ねえ、照島く…」
「俺、ケッコー前から名前チャンのこと好きだったんだぜ?連絡先ゲットできた時はマジラッキーだったわ」
好き?
照島くんが、私を、好き?
上手く処理のできない情報が次々と鼓膜を撫で、自分にとって都合のいい白昼夢を見ているのではないかとすら思えてくる。
けれど自身を抱き込む温もりは本物で、制服から香る制汗剤と香水の混じったそれが名前を現実へと連れ戻した。
名前を抱き締めたまま舞い上がる照島は、3番目に登校してきたクラスメイトに「付き合うことになりました!」と声高らかに宣言までしている。
言われた方は心底どうでもよさそうな表情で無視を決め込んでいたが。
それよりも、名前には問いたださねばならないことがある。
「ま、待って照島くん!私、照島くんと話せる時間が好きって意味で…」
───え?
次は、何一つ取り繕っていない照島の声が、低く響いた。
どんな場面においても、言葉を正しく伝えられる能力は素晴らしい。
間の置き方、声のトーンや速度。
それらを適切に使い分けた時、初めて己の言葉の真意が伝わるのだ。
生まれてまだ16年そこらの名前は、少しばかりのミスをしてしまった。
「───え…じゃあ…両想いは俺の勘違い…?」
目に見えて肩を落とした照島の表情は、今までに見たことのない落胆ぶりだった。
否、今年の初秋辺りに目にしたことがあるが、それに並ぶくらいの落ち込み具合だ。
心なしか涙目になった照島は、そっと名前から体を離して俯いた。
「悪ィ、忘れてくれ。
……いや、俺の気持ちは忘れてほしくねェけど、さっきの浮かれた俺は忘れてくれ」
そう言って再び教室の入り口へと早歩きで歩み寄っていく照島の背中が、少しずつ遠ざかっていく。
名前の心の中は、ひどく落ち着いていた。
心臓こそ大きく脈打って熱をもってはいるが、波は静かに打ち寄せている。
なんて穏やかな気持ちだろうか。
先ほど、照島が大声で話していた言葉を順に思い浮かべていく。
あれだけのことを面と向かって告げられた今、一体何を遠慮する必要があると言うのか。
さっきまで冷え切っていた指先が、優しい温もりを放っている。
「───照島くん」
言葉だけで呼び止めれば、意外にもその後ろ姿はぴたりと止まった。
顔を少しだけ傾けて肩越しに名前を見つめる瞳が覗く。
「照島くんと話せる時間も好きだけど、私も───照島くんが好きです」
今度は、上手く伝えられた。
今にも教室を出て行こうとしていた照島は、数秒ほど微動だにせず、次の瞬間には瞬く間に再び名前に飛びついていた。
教室の片隅で空気に徹していたクラスメイトの、呆れたような溜息が聞こえた。