名前の朝は早い。

昨日、九太に振る舞ったオムレツで豆腐を使い切ってしまった。
朝には豆腐入りの味噌汁を必ず啜りたいという妙なこだわりのおかげで、朝から澁天街の市場へと赴くことになったのだ。

背負い籠とは違い、手に持てる籠を携えながら市場の中を練り歩く。
採れたての野菜や果物を眺めていると、当初の目的には含まれていなかったものもほしくなる。
店主から分け与えられた林檎に釣られて、立派な大根を一本買ってしまった。
目当ての豆腐はまだ買えていないと言うのに、すでに籠がずっしりと重い。

我ながら買い物下手だと眉を下げながら、名前はいよいよ豆腐屋へと足を向けた。


「名前」


ふと呼び止められそちらへと顔を向ければ、子猪の二人が甘味屋の露店の前に立っていた。
名前の数少ない友人の二人の姿に、名前はその顔に満面の笑みを浮かべた。


「一郎彦、二郎丸!」
「買い物か、名前」
「うん、お豆腐が切れちゃったの」


大根が飛び出した籠を抱えながら、名前は二人に駆け寄った。

一郎彦は名前より一つ年上の子猪で、あの猪王山の優秀な跡取りの一人である。
弟の二郎丸は、兄の一郎彦や父の猪王山と言った強い者を心から尊敬している反面、幼いながらの純粋さで時折力で捻じ伏せようとするところがあった。

それでも、名前の友人には変わりない。
名前は二人を慕っていたし、二人も名前のことを大切に扱ってくれていた。

特に、一郎彦は名前を目にかけていた。

今でこそ殆どないが、すこし前、名前はその人間と変わらぬ容姿故に同年代のバケモノたちから嫌がらせを受けていた。
バケモノに比べると非力な力に、耳も尻尾も何一つバケモノを彷彿とさせるものを持っていない、まさに苛めるには格好の対象だった。

そんな名前を助けたのは、他でもない一郎彦だ。

一郎彦自身も、父や弟と比べるとその差異が顕著になる容姿をしている。
言うなれば、人の子のようなそれだ。
しかし本人は大人になれば牙と鼻が生えると豪語しており、その強さも相俟って、誰一人彼を人間だと罵る者はいなかった。

そんな一郎彦が名前を庇ってしまえば、誰も手は出せなくなる。
次いで名前が少しずつ力をつけたものだから、はじめこそ人間だと揶揄っていた二郎丸も今ではすっかり名前を友として認めていた。

細腕が抱える籠の中身を見た一郎彦は、切れ長の目を優しく細める。


「豆腐が切れた割には随分と籠が重たそうだ。送っていこう」
「そんな、悪いよ。元はと言えばわたしが買い物下手だから…」
「素直に兄ちゃんに甘えていいんだぜ、名前」


ドン、と胸を張って威張る二郎丸に、名前は笑みを零した。
その手にはパフェが握られており、甘いものと一郎彦がいる時の二郎丸は本当に幸せそうだと思う。


「見ろ、二郎丸!―――父上!」
「父ちゃん!」


ふと後ろの方が賑やかになったかと思えば、一郎彦と二郎丸の顔がパッと明るくなる。
振り返れば、そこには二人の父である猪王山が、数人の弟子を引き連れて街中を見廻っていた。
猪王山もその声に気付き、大手を振りながら小さな三人に歩み寄った。


「猪王山さん、こんにちは」
「やあ、名前。相変わらず偉いものだな。
 一郎彦、二郎丸、お前たちも稽古に励んでいるか?」
「はい!父上、私にも稽古をつけてください」
「もちろん、すぐにでも―――ん?」


敬慕に目を光らせる一郎彦と二郎丸の望むよう、すぐに稽古をつけようとした猪王山だったが、一人の弟子が猪王山に耳打ちをしそれは叶わなかった。
大勢の弟子を抱える猪王山は、我が子に割く時間すらなかなか余地がない。


「時間を作るから、もう少し待っていてくれるか」


よくあるやり取りらしい。
二郎丸は不服そうだったが、一郎彦は素直に頷いた。

振り返った猪王山の目に飛び込んできたのは、広場で辺りをしきりに探す熊徹の大きな後ろ姿だった。

猪王山に呼び止められた熊徹は、猪王山に何かを伝えている。
探しているものの大きさを示す手を見る限り、九太絡みだろうか。
もしかすると、九太が逃げ出したのかもしれない。

そんなことを考えていると、案の定、猪王山の弟子の一人の腕が見知った少年を摘まみ上げた。


「きゅ、九太」
「あ、名前っ…」


一郎彦の驚きに満ちた目が、名前を捉える。
人間である九太の登場により、広場は一気に動揺に揺れているのだ。
そんな九太と知り合いであるなら、疑惑や驚きの念を抱かれるのも無理はない。

九太の姿を見やり、誰よりも焦りの色を浮かべたのは猪王山だった。


「悪いことは言わん、あの子供を元の場所に捨て置いてこい」
「なんだよ、人間の一匹や二匹ぐれェ」
「人間はひ弱な故に胸の奥に闇を宿らせると言う。
 もし闇につけ込まれ、手に負えなくなったら…」


猪王山の言葉に、名前はいまだ宙に浮く九太を見上げた。

闇を宿すとは言うものの、九太はそんなものを宿すようには見えない。
そもそも、闇とは何なのだろうか。

澁天街にとってよくない存在だと言うことは、猪王山の話で十分に理解できた。
しかし、闇を宿していない九太ならば、そんな話は関係ないことだ。

猪王山に反論する熊徹の言葉に、名前は何度も頷いた。


「これはお前一人の問題ではないのだ!」
「俺の弟子をどうするかは俺が決めんだよ!」
「いいか、警告するぞ!澁天街の皆のためにもやめろ!」


ピリッとした空気が、名前の首を絞める。
それは人間の九太も感じ取ったようで、ハッとした様子で二人を見やっていた。

熊徹と猪王山が対決を始める。







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