区間内ならどこへでも自由に行ける定期券や、毎朝見かける顔なじみの人。
一足先に大人の仲間入りをしたような感覚になれる電車通学に憧れて、自転車で通える地元の高校ではなく、電車で数分揺られた先にある高校を選んだ。
オープンスクールにも参加して、申し分ないこともチェック済みだった可愛いと評判の制服が自身の身を包み込んだ日には、鏡の前で1時間近くファッションショーを繰り広げたものだ。
紺色の靴下を合わせてみたり、黒色の靴下に替えてみたり、スカートの長さで遊んだりもした。

桃色の花が咲き誇る春に迎えた初々しい入学式から、1年と3ヶ月。

新鮮に思えた制服も今や体の一部のように馴染んで、誂えた当初は長くて野暮ったかったブレザーの袖も少しずつ伸びる腕がフォローしてくれている。
スカートの丈は、2年生に進級するとともに少しだけ短くした。

中学時代に比べると授業の内容も踏み込んだものになったけれど、最悪な点数を取るほどではない。

…と言いたいところだけれど。
1年生の春。
隣の席になった男の子の点数に比べると、それはそれはひどいものだったかもしれない。

文系の教科は私の方が上だった。
けれど理数系の教科になると、彼はその圧倒的学力を披露しては私の点数を馬鹿にした。
私の文系と彼の理数系を足してしまえば五分五分になると言うのに、やけに子供っぽい勝ち誇った顔をしてくるのだ。

そんな彼とは夏休みまで隣同士になる羽目になり、小テストや中間を足すと点数で競い合った回数はそこそこある。

はじめは"いつかギャフンと言わせたい相手"だったのに、次第に彼と話せる瞬間を楽しんでいることに気づき、彼が私の名前を呼べば心臓が跳ねた。
初恋を小学生の頃に済ませていた私は、その感情は悩みの種にすらならない。
単純に、彼のことが好きなんだと薄らと悟って、いつか叶わないまま終わるだけだと薄らと思っていた。

だから、彼と付き合うことになった時は、驚きやら、恥ずかしいやら。

まず私の尤もたる誤算と言えば、この片思いは秋が終わると同時に終わると思っていたことに違いない。
夏休みの間に何か別の出会いがあって、その狭間で揺れながら最終的には夏休みの恋を取り、彼とはこれからもじゃれ合うだけの友達でいるのだと思っていた。

見事、大誤算。

夏休みに入る1週間前に、私は告白をされた。
誰に?―――彼、太田訓に。


「俺、名字のこと好きかもしんない」
「………ほんとに?」


鮮明な映像となって脳裏を掠めた1年前の思い出を見送りながら、私は隣にある温もりに半歩分近寄った。
蝉の鳴き声が降り注ぐまったりとした空気のなか、それは温もりではなくもはや熱だったけれど。

私の右腕と彼の―――訓の左腕が触れれば、すぐさま訓の大きな手が私の手を絡め取る。

片思いで終わると思っていたこの片思いは、実は両片思いだったことにより見事成就し、中学時代の同級生に「裏切り者!」と非難された。
私自身もこんなにも早く彼氏ができるとは思っていなかったのだから、許してほしいところだ。

そうして訓と付き合うことになった1年の夏。
そのまま迎えた夏休みの間も連絡を取り合って、時々会って、どこかぎこちない夏祭りも楽しんだ。
秋には文化祭、冬にはクリスマス、冬休みには初詣、バレンタイン、ホワイトデー、そして2年生へ。

訓との関係も1年目に突入して、2度目の夏休みを迎えようとしていた。
いつもより格段に軽い鞄に心を弾ませながら、訓と同じ地元の道を歩く。
絡ませた指の間が、互いの汗でしっとりと密着していた。


「あっちーなぁ…」
「プール行きたいねぇ…」
「行くか、夏休み」
「うん、行きたい」


わざわざ電車に乗って通っている高校で出会った訓も、私と同じ電車通学だということが判明したのはよく喋るようになった頃。
否、帰りの電車で偶然同じ車両になり、さらには降りる駅も同じだとわかった翌日くらいからだろうか。
それ以来タイミングが会えば一緒に帰ることもあったし、教室でも隣同士な上に帰りも時間を共にするともなれば、訓に惹かれるのも時間の問題だったのかもしれないとさえ思える。

去年の夏に比べれば初々しさは取れたものの、どこかあともう一歩。
もう一歩分だけの距離が、なんとなく足りないと感じた。

足りないと言っても、何をどうすればいいのかもわからない。
だからそう思うだけで実際は今の関係で十分満足だったし、付き合ってからと言うもの、訓のいいところがたくさん見つかって今となっては自慢の彼氏だ。
これ以上に何を望めと言うのか。

電車が好きで今の高校を選んだことも、口には出さずとも妹さんのことが大好きなことも―――家族を大切に思っていることも。

本人は「シスコンみたいだからやめろ」って言うけど、私は妹さんのことを大切に思っている訓が好きだ。
同じ両親から生まれた、たった一人の妹なのだから。
そんな妹を大切に思うのは当たり前のことなのに、訓は恥ずかしがっているのか、いつもいかに妹が可愛くないかと豪語する。
私には兄弟がいないから、訓みたいなお兄ちゃんがいたら幸せなんだろうなとその度に密かに思った。

曲がりなりにも、一応訓とお付き合いさせていただいている身だ。
いつか妹さんとも会いたいなと思う反面、それを訓に言う勇気はない。

家族に会わせる必要がない、と思われているのならそれまでだ。
何度かこちらから妹さんの話題を振ってみたこともあったけれど、未だに一度も会わせると言ってもらえたことはなかった。

訓の妹さんなのだから、きっと可愛いんだろうな。

まだ見ぬ―――会えるかもわからない訓の妹さんに思いを馳せて、訓と別れる交差点へと辿り着く。


「じゃあ、またプール行く日、決めようね」


そう言って、いつものように私から家へと向かう道を歩き出す。

―――はずだった。

中途半端に出した足はそのままに、緩く掴まれた手首へと視線を落とす。
手首を掴んでいたのは言わずもがな訓だったけれど、訓の視線はなかなか私のそれと絡まない。
首を傾げながらそっと顔を覗き込めば、訓の耳がひさしぶりに真っ赤になっていた。


「……今日…家、誰もいないんだけど…」
「…え…っと…」
「―――来る?」


来る?

そう紡いだ唇から、目が離せなかった。

行く?どこに?訓の家?
誰が?私が?訓の家に?

小学生でも、幼稚園児でさえ理解できる簡単な言葉なのに、その言葉は私のなかで不思議な呪文のようにぐるぐると回った。


「……行っても、いいの?」


手首を掴んで放さない手に自らの手を重ねながら、恐る恐る伺う。
訓は赤い耳もそのままに、しっかりと頷いた。


「母さんは出張だし、父さんも今日は遠出。
 …妹は帰ってくるけど、部活で遅くなるって」


生唾を飲み込んだのは、果たして私か、それとも訓か。

ジワジワと時雨れる蝉の声と、時折通りがかる車のエンジン音。
遠くから聞こえる子供のはしゃぐ声に、お店から漏れるラジオの音だけが二人の世界を織りなしていた。

震える声を予想して、私はお腹にぐっと力を込めた。


「…行きたい」


震えなかった代わりに、裏返ってしまった。
それでも訓はさして気にした風もなく、どこか覚悟を決めたような、凜としたそれを僅かに滲ませながら微笑んだ。

大きな手が私の手を再び握り、反対方向へと引っ張っていく。

次々と目に飛び込んでくる見慣れない景色を右から左に、私は半歩だけ前を歩く訓の肩を見つめた。

会わせてもらえなくても、家に呼んでくれただけ大きな進歩だ。
そのことに、ホッと息を吐いた。


「……いつか妹に―――未来に会って」
「…え―――」
「アイツ絶対名前のこと気に入るからさ、今はもう少しだけ俺に独占させて。
 俺に余裕ができたら、未来にも、父さんと母さんにもちゃんと紹介する」


訓の言葉一言一言を噛み砕きながら、自分の中へと落とし込む。
その全部が私の中に落ちる頃、告げられた言葉の重みを理解して鳩尾の辺りがじわりと暖かくなった。

届いたかどうかはわからないけれど、涙で濡れそうになる声で懸命に頷き、訓の手を強く握り返す。

こちらを肩越しに振り返った訓の顔が、意地悪そうにニヤついていた。


「泣くのは早いぜ、名前ちゃん」
「…意地悪する訓なんて"好きくない"」
「その言い方やめろよ、好きくないじゃない!」


訓の嫌がる言い方で返してやれば、案の定その端正な顔を歪めて息巻く。
それから少しの間があいて、2人して同時に笑った。

足りないと思っていたもう一歩分だけの距離がなくなるのも、そう遠くはなさそうだ。







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