「あ」


意図せず漏れたであろう声に流石に不躾さを感じたのか、口元に細い指先が寄せられる。
けれど男はそれを少しも気にした素振りも見せず、特高の顔で口を開いた。


「先程、ひょうたん池周辺で不審な者の目撃情報があった。
警察が巡回を始めてはいるが、そちらの方面へ行かれるなら気を付けて」
「ありがとうございます。
これからラパンへ寄って、その後は帰宅するだけの予定ですが、気を付けます」


軽く会釈をし、その横を通り過ぎようと止めていた足を再び踏み出したところで、男の雰囲気が幾分か和らぐのを感じたのかまたその歩みが止まった。
制帽の下を覗かせれば、その顔は特高の顔ではなく、不破充個人のそれにすり替わっていた。


「ラパンへ行くのか。
ならば俺も同行してもいいか?」
「え?でもお仕事があるんじゃ」
「実は午後から非番だったんだが、名前の姿を見つけて少しからかってやろうかと」
「…相変わらず妙な方ですね」
「まあそう言うなって。
不審者の目撃情報は事実なわけだし、隣に付いて歩く分には余程頼りになるとは思うけどな?」
「警察の方も巡回されているのでしょう?」
「各場所に一人ずつ付いてる訳じゃねえよ。
何かあってからだと遅いだろう」


そう言いながら、足は確実にラパンへと向かっていた。

純喫茶"ラパン"の扉を開けば、鈍いドアベルが二人を出迎える。
マスターに目配せをして、隅のボックス席に腰を下ろした。


「珈琲を二つ。
一つはミルクを付けてくれ」
「それからカステラを頂けますか」


片眉を上げた充の視線が、名前の伏せられた長い睫毛を捉えた。
しっかりと感じているであろう充の視線に無視を決め込み、繊細な彫刻が施された手鏡で化粧の具合を気にしている。
しかし何時まで経っても離れようとしない視線に根負けしたのか、漸く頬に落ちる睫毛の影がなくなった。


「失礼ですよ、そんなにジロジロと見つめて」
「お前、その鏡は」
「贔屓の方から」
「喧嘩売ってんのか?買うぞ?
俺の前で他の男から貰った物を堂々と使うんじゃねえよ」
「充様は私のお客様の一人であって、そのように私生活まで束縛される筋合いはありません」


浅草十二階下で偽りの名を貼り付ける名前は、もう一人の己を酷く見下していた。

金を提示されれば、屈する他ない。
そんな浅草十二階下での己の弱さに、本来の自身にまで託けられたくないのだ。

その為、地上で見る名前の瞳は、いつも強気なそれをしていた。

二人の間にある"買う"側と"買われる"側の関係は、地上に出てしまえば一切の意味を持たないのだ。


「何故俺が贈った鏡を使わない」


覗き見えた鞄の中身を指摘するように、湯気の立つ珈琲を一口含んだ後にそう告げれば、名前の表情がぴくりと強張った。
注ぎ込まれたミルクが、珈琲と混ざり合いながら名前の手元でくるくると回っている。


「贈り物の意味くらい、聡い名前なら判るだろう」
「ーーーやめて下さい!もう私の名前を呼ばないで!」


予想だにしなかった反応に、普段から冷静を纏う充でさえも思わずギョッと目を見開いた。
何時もの癖で宥める言葉が溢れそうになったが、机の上に滴るそれが目に入り、既のところで座椅子の背もたれに背中を押し付ける。


「……充様に本当の名前を呼ばれると、自分が自分ではなくなるような気がするんです…"どちら"が本当の自分なのか…わからなくなってしまう…」


押さえつけた手の平から溢れた雫が、その細い手首を伝っていく。
その筋をじっと見つめ、たっぷりとした息を吐けば、珈琲の湯気がゆらりと揺れた。


「自尊心の高い名前のことだから、これは名前の気がしっかりと俺の方を向くまで言わずにしておこうと思ってたんだが」
「だから名前を呼ばないでってーーー」
「俺のところに来い、名前」


はく、と名前の息を飲む音が小さく響いた。

小さな机を挟んで正面にいる名前の頬に手袋を外した手を伸ばせば、止めどなく溢れる雫が手の平を濡らした。
慈しみを込めた手付きで、熱を持った頬を撫でる。

僅かだが、名前が充の手の平に擦り寄った。


「あそこ以外の働き口を見つけてやる。
俺が絶対に辞めさせてやるからな」
「…それから?」
「これからは俺が守ってやる」
「……それから?」


泣きながらも生意気にその先を求める声色に、充は苦笑いを浮かべた。
いつの間にか手の甲に重ねられていた小さな手を取り、軽く引っ張って指先に唇を寄せる。
いつかの流行りのキネマを見たときは鳥肌が立ったが、きっとあのキネマの男はこういう気持ちだったのだろう。


「名前が好きだ」
「ーーー私も、充様のこと、お慕い申し上げております」


言うが早いか、恥ずかしそうな笑みを浮かべた名前からの言葉に、柄にもなく心臓を掴まれる様な錯覚を覚えた。
地上では一度も見たことのない一面に、只々、愛しさが募る。


「俺は"買う"感覚で名前を抱いたことは一度もなかったよ」
「過去形にしてしまいますか?」
「…いや、これからもだな」


すっかり固くなってしまったカステラを頬張りながら、名前はクスクスと笑った。
浅草十二階下で見たものとは違う、名字名前の笑顔だった。

珈琲カップを空にしたところで、ふと名前が鞄から取り出したものを充に差し出す。


「これ、充様の手で壊してください」


引っ込められた名前の手の下から出てきたのは、あの繊細な彫刻が施された手鏡だった。


「これは、お客様だった充様から"私"を守る唯一の壁だったんです。
でも、もう必要のないものですので」


この鏡を贈った男の気持ちを思うと、同じ女を好いた同性として少々同情してしまう部分はあったが、取り繕う必要のなくなった二人にはもう不要なものだ。
しかし、いくら"壁"だったとは言え、充の贈り物を差し置いて名前に使われていたのだ。
名前の手前、醜い嫉妬心を押し殺しながら、懐にしまったそれをどうやって壊そうかと充は内心で黒い笑みを浮かべるのだった。







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