本当にダメだ。

だめ。
物にも使えるし、人にも使える言葉。
語源は確か囲碁の「駄目」で、打つ価値のない空間ことだと、先日の国語で先生が言っていた気がする。

今の私に降りかかっている「駄目」は、どちらかと言うとよくない状態にあることを示す「駄目」だ。

例えば今朝、ブレードの手入れをした際に、手が滑って指を切ったこと。
濡れると気持ち悪くなるからという理由で絆創膏が嫌いだったけれど、血が止まってくれる様子もなかったので、泣く泣く絆創膏を巻く羽目になってしまった。
例えば通学中、突然の寒波到来により路面が凍結していて、少し急いでいた私は見事に滑って尻餅をついてしまった。
一応、シニアフィギュアスケーターとしての1年目に入ったばかりだと言うのに、氷で滑ってこけるなんて恥ずかしすぎて口が裂けても言えない。
例えば授業中、新曲の振り付けを熱心に考え込みすぎたせいで、先生に当てられていることにも気づけず、クラスメイトの前で怒られてしまった。
私には好きな男の子がいて、バレないように一瞬だけそちらへと目を向ければ、他の子と同じように私の失態に笑う彼と目が合った。
目が合ったことは、少しだけ嬉しかった。

だけど放課後、そんな彼が、隣のクラスの女の子と手を繋いで下校している姿を目撃してしまった。
まさに、天から地へと落ちたような気分だった。

色んな大会に出て、トロフィーももらった。
盾だってもらったし、メダルももちろん。
練習をたくさんしているから、なかなか友達とは遊べないけれど、それでも学校では普通の女の子のつもりだった。

それでも彼の隣に並ぶあの子に比べたら、私は人付き合いの悪い同級生なんだろうな。
彼との距離を縮めるチャンスだってたくさんあったのに、私はそのチャンスをスケートの練習時間に充てて、あの子はそのチャンスを使って見事に結ばれたのだから。

文句を言う筋合いがないことは明白だし、むしろ文句を言う理由もなければ気持ちもないのだけれど、さすがに、中学校に入学したときから好きだった男の子の彼女発覚は気が滅入ってしまう。

さようなら、私の恋。


「という感じで、今日の私はダメダメなの…」


そんなことを優子お姉ちゃんに話してみれば、落ち着いたと思っていた傷心がまた傷口を開かせ、ボロボロと涙が溢れてくる。
救いといえば、今日の練習はオフだということくらいだろうか。
きっとこんなコンディションでは、練習に身が入らない。


「ああ、ほらほら泣かないの。
大丈夫よ、名前ちゃん可愛いし、なんてったってシニア入りしたんだから!
これから引く手数多になること間違いナシだって」


いやー、それにしても青春だなぁ。


なんて優子お姉ちゃんは笑うけれど、私にとってこの話はまだ笑い話にはできそうにもない。

数日前に突如来日した"生きる伝説"ヴィクトル・ニキフォロフさんと、その後を追うように長谷津に舞い降りたユーリ・プリセツキーくん。
ヴィクトルさんが勇利お兄ちゃんに振り付けを指導して、その傍らでユーリくんが自主練に励んでいる。
なんとも信じがたい現実を眺めながら、私は溜息を零した。
白い吐息が、銀盤の方へと吸い込まれていく。


「今度はなに?その溜息の理由」
「うーん、ユーリくん、すごいなーって」


私と同い年で、同じくシニア1年目。
それでいて、すでに注目の選手として騒がれていて、実力はさることながら美貌も兼ね揃えている。

女の私が嫉妬してしまうくらいに、ユーリくんは"綺麗"だ。
動きに従ってそよぐ髪も、真っ直ぐと先を見据える目も、爪の先まで。
すべてがキラキラと輝いて見えるのは、きっと飛び散った氷片だけのせいではない。

今度行われる温泉 on ICEだって、ユーリくんと勇利お兄ちゃんがメインのイベントだ。
みんなが、ユーリくんから目が離せない。

温泉 on ICEには前座として出てほしいと優子お姉ちゃんに頭を下げられたけれど、温泉 on ICEが近づくにつれ、その日はリンクに立ちたくないという気持ちがむくむくと膨らんでくる。
毎日彼らの練習風景を見ていると、私なんかがユーリくんや勇利お兄ちゃんと同じ土俵−−−正確にはスケートリンクだけれど−−−に立てるとは到底思えない。

憂鬱な気持ちが空気となって込み上げ、私はもう一度溜息を吐いた。


「あ」


ふと視線をあげると、ユーリくんがこちらへと近付いて来る様子が見えた。
少しだけ、指先に力が入る。


「ど、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもあるか。
おい名前、さっきから鬱陶しい溜息吐いてんじゃねーよ、気が散るだろ」
「あ、ご、ごめん…」


これくらいで私の傷が抉れることはない。
ユーリくんはこういう性格だっていうことを知っているからだ。
それでも私がもたれかかる壁面に片手を突いて、日本人なら決して取らない距離感でガンを飛ばされるとさすがに怖い。

私は慌てて自分の両手で口を塞ぎ、これでいいかと言うようにユーリくんを見上げた。
その様子にフンッと鼻を鳴らしたユーリくんは、何故か私の片腕を掴んでそのままリンクを上がった。
ベンチに腰掛けてスケート靴から普段靴に履き替えながら私を見上げてくるその視線に、同じことをしろという言葉を汲み取り、私もその隣に座りブレードにエッジカバーをつける。
私が普段靴に履き替えた頃合いにユーリくんは黙って立ち上がり、私は慌ててその追った。
たぶん、それが正解の行動。
不安げに優子お姉ちゃんを振り返っても、なぜかニヤニヤと口角を上げて手を振るだけだった。

「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた扉をくぐり、何本かの曲がり角を曲がったり、また扉をくぐったり。
田舎の施設独特の寂れた雰囲気に臆することなく、ユーリくんは薄暗い通路を進んでいく。
切れかかった蛍光灯の数が3本になった頃、迷いのなかったユーリくんの歩みが止まる。
まだ未熟さが残る薄い肩越しに顔を覗かせれば、そこには「ボイラー室」と書かれたプレートを掲げる扉があった。


「温泉 on ICEの日、始まる前にここに来い」
「…え?」
「道は覚えただろ。
いいか、絶対来いよ、わかったな」
「う、うん、わかった」


私の顔を一度も見ずに、それだけを言うとユーリくんはまた来た道を戻って行ってしまった。
育った国の違いからか、それとも性格故にだろうか。
出会って間もない間柄だけれど、ユーリくんは時々意味不明な言動をする。


そして、温泉 on ICEの当日。


衣装の上からベンチコートを羽織り、会場の前で入場待ちする人混みを横目に裏口からアイスキャッスルはせつへと入る。


「……どう…しよう…」


最悪なことに、見つけてしまった。
彼女と肩を並べて開場を待つ、私が好きだったあの人を。
こんな田舎に、あの世界的に有名なフィギュアスケーターが2人も来ているのだ。
そして、長谷津出身の勝生勇利選手と、ユーリ・プリセツキー選手が対決をすると言うのだから、恐らく長谷津に住んでいる者のほとんどが来場しているであろう。

だからと言って、何も始まる前からモチベーションが下がる光景を見つけなくても良かったではないか。
さすが3年間も目で追い続けただけはあり、失恋したとは言え、彼からは未だに惹きつけられるオーラが滲み出ていたのだ。

イベントの時間は刻一刻と迫る。
練習中も、ユーリくんや勇利お兄ちゃんを眺めている時も、あの光景が離れなかった。
それのせいにはしたくはなかったけれど、普通にこなせていたところでミスをしたり、コーチの呼び掛けに答え損ねたり、とにかく散々だった。
最後の練習を終えた私はコーチに少しだけ抜けることを告げ、例の場所へと向かった。

「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた扉。
何本かの曲がり角を曲がったりと、扉。
そして、切れかかった蛍光灯の数が3本。

あの日以来に見るボイラー室の扉が、少しだけ開いていた。
ドアノブを引っ張って、重たい扉を開ける。


「……んだよ、その顔」
「ううん、なんにもない、よ」


きっと、顔色のことを指摘されたのだろう。
完全に動揺が隠し切れていない私を見たユーリくんは、少しだけギョッとしたように目を見開いた。

ボイラー室と言うからには、もっと煩いものだとばかり思っていたが、想像していたよりかは静かだった。
おかげで、普通の会話をする分には何の支障もきたさない。

世間話をするために、ユーリくんが私をこんなところに呼んだのではないことくらいわかる。
夏に雪が降るくらいあり得ない話だけれど、もしかして、慰めてくれようとしているとか。
ボイラー室に呼び出された理由をあれやこれやと考えていると、静かに伸びたユーリくんの腕に手を引かれる。


「ーーーわ!」


ぶわりと下から風が吹き上がり、衣装の装飾や、ヘアメイクでわざと垂らした髪がふわりと持ち上がる。
恐る恐る目を開けば、ユーリくんに導かれた先が吹き出し口だったようで、これでもかと風が私をさらう。

なんだかそれが楽しくて、今朝からモヤモヤしていたことどころか、失恋のことさえどうでもいいような気持ちが湧いてくる。


「ユーリくん!なにこれ、すごいね!」


正に、無邪気。
無邪気にも私は笑い声をあげ、ユーリくんを見つめた。

突風は発生時間に規則性があるようで、強く吹くのはほんの数十秒。
それ以外では、少し強い風が吹き続けている状態だった。

私よりここにいる期間は短いのに、一体いつの間に見つけたのだろう。


「ユーリくん、ありがとう。
なんか私、もう大丈夫な気がする」


やっぱり、慰めてくれようとしていたらしい。
ユーリくんはそっぽを向いて特に何も言わなかったけれど、私の陰鬱とした気持ちが晴れたことは事実だ。

ゆるゆると風を吹き出す金網を見下ろしながら、ユーリくんの優しさにそっと笑みを浮かべる。
自分のつま先のすぐそばにユーリくんのつま先が映り、どうしたのかと視線を上げた。

次いで感じたのは、唇に触れる温いそれ。
両頬を包み込む、少し冷たい指先と手のひら。

伏せられた金色のまつ毛は、ボヤけてしまうほどに近いところにあった。

ユーリくんは同い年の15歳だけれど、同じ学年の男の子たち以上に背が高くて、少しだけ首が痛くて思わずその肩に手を付いてしまう。
それでもいつもみたく「触んな!」なんて怒られることはなくて、少しだけ、自惚れてしまった。

上唇や下唇を何度も食まれたり、吸われたり。
ユーリくんが顔の角度を変えて、私の唇に触れてくるたびに、エッジカバーをつけただけのスケート靴だと上手くバランスが取れなくてよろけそうになる。

唇が離れる頃にはすっかり息もあがり、ユーリくんの真っ白な頬にも朱がさしていた。


「俺は、もうすぐロシアに戻る」
「……うん」
「毎日顔をあわせることもなくなる」
「………うん」
「言っとくけど、俺は付け入る気はないからな。
名前が落ち込むよりも前から、こっちはその気だったっつーのに」
「…う、ん」
「とにかく、俺に連絡してくんのは気持ちが切り替わってからにしろよ」
「……日本では、言葉にして伝えるものなんだよ」


照れ隠しに揚げ足を取ってみれば、案の定「うるせぇ!」と怒鳴られてしまった。
耳が真っ赤になっていたのに、威厳も何もなかったけれど。


「日本を離れる前に伝え残したことはそれだけだ。
お前はもっと自信を持つべきだからな」


そう言って、ユーリくんはまたいつものユーリ・プリセツキーの顔になって、ボイラー室を出て行った。


待ってる。


キスの合間に紡がれた言葉を思い返すと、鼓動がだんだんと早くなる。

絆されたとか、付け入られたとか。
そんな被害者ぶったことを思うよりも前に、つい今まで聞いていたユーリくんの声が聞きたいと思った。







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