どれくらい泣いただろうか。
涙はとうの昔に枯れていたが、心を蝕む悲しさはいつまで経っても消えそうにはない。


「―――九太」


ふと、背後から声がかけられる。
蓮に向けて放たれた呼びかけだったが、九太という名に馴染みのない蓮は、反応が一寸も二寸も遅れた。

緩慢な動作で振り返った蓮は、予想通りそこに立っていた名前の姿を捉えた刹那、その小さな手が持つ盆に釘付けになった。


「お腹すいてるかと思って、ご飯、作ったよ」


いらなかったら無理に食べなくていいよ。


そう言って蓮の膝に乗せられた盆の上には、甘い色をした玉子の山が乗っていた。
ふんわりとした玉子は、少しの振動でふるりと左右に揺れる。
漂う香りはバターだろうか。

再度、蓮の視界がじわりと滲んだ。

涙が零れないよう、慌てて蓮はその玉子にスプーンを突き刺した。


「―――……美味い」
「ほんとに?よかった!」


口に入れたと同時に広がる優しい味に、無意識に言葉が零れた。
それを拾い上げた名前は、素直に喜びを声に乗せていた。

この世界では肉を食べないのか、肉やハムの代わりに細かく砕かれた豆腐が使われている。
タマネギと豆腐だけのオムレツだ。
大好きだったハム入りオムレツには程遠いが、それでもどこかホッとさせる味で、今まで食べたオムレツのなかで一番美味しいとさえ思えた。

黙々とオムレツを食べ進める蓮の隣に、よいしょ、という掛け声と共に名前が腰を下ろす。
不思議と、傍にいることを選んでくれた名前に安堵した。


「お父さんがごめんなさい。
 でも、私にもいつもあんな感じだし、本当は優しい人だから嫌いにならないでほしいな」
「……アイツ、アンタの父親なの」


この際だ、ずっと引っかかっていた疑問を訊ねた蓮は、言った矢先にしまったと顔を顰めた。

熊徹と名前が親子かどうか。
獣人しか住んでいないこの世界を考えれば、そんなことは一目瞭然だ。
それを遠慮なしに訊ねてしまったことを今更悔いても、一度吐き出した言葉を取り消すことはできない。

伺うようにこっそりと名前の横顔を盗み見た蓮は、その朗らかな表情に目を丸めた。


「うーん、お父さんはお父さんかな?」
「それって…」
「九太は、本当のお父さんかどうかを知りたいんだよね。
 本当のお父さんっていう意味では本当のお父さんじゃないけど、私は本当のお父さんだと思ってるよ」


名前は、雨の日に倒れていたところを拾って今日まで育ててくれたのが熊徹だと教えてくれた。

語られた名前の過去に、心臓の辺りが酷くざわついた。

倒れていたと言うことは、親に捨てられたと言うことだろうか。
もしも自分が母親に捨てられたら、と思うとゾッとした。
それと同時に、悲しくて悲しくて仕方がなかった。

そんな名前を熊徹は理由もなく引き取り、6年という歳月をかけてここまで育ててきたのだ。
名前の言動や知恵が少し幼いことにも納得がいく。

蓮は、自身を"九太"と呼んだ男の姿を思い出していた。
がさつで口が悪く、何かあればすぐに大声を出すあの男が、名前の育ての親。
行き場がなく自暴自棄になっていた自分に声をかけ、乱暴ながらも居場所を与えようとしてくれた僅かな温もりが過ぎる。


「俺も……俺も、親がいない」


誰にも話すつもりなどなかったのに、口を突いて出てきた言葉に自分自身でも目を見開く。
それもこれも、この辺りに漂う妙な温もりのせいだ。

名前は驚きに声を上げることもなければ、変に気を遣うような声を上げることもなかった。
ただ黙って蓮の話に耳を傾けている。


「父さんは小さい頃に出てったきりだし、母さんは交通事故で死んだ。
 だから、俺はひとりぼっちだ。アイツの言うとおり、ひとりで生きてくしかねぇんだ」


母が亡くなった時、何故か父は現れなかった。
二人で寄り添い合い歩んできた支えを失った蓮を抱き締めてくれる父は、いつまで経っても現れなかった。
家柄や家系に煩い祖母や親族は父の存在を目の敵にし、望まない蓮を無理矢理養子にしようとした。

そんな環境に嫌気がさし、蓮はひとり街に飛び出したのだった。

そして、熊徹と出会った。


「―――だから着いてきたのに、アイツはおれに"ひとりで生きてくしかねェ"って…」
「じゃあさ、もうひとりで生きていかなくてもいいってことだよね?」
「…は?」


素っ頓狂な声と共に隣を見やれば、名前はすでに蓮を見つめていたらしくその青い目とぶつかった。
心なしか、その目は嬉々としている。


「だって、捨てられてひとりぼっちだったわたしをお父さんが拾ってくれて、わたしはひとりじゃなくなったんだよ?
 だったら、九太ももうひとりじゃないよね!ここにいれば、お父さんとわたしがいるんだもん」


名前のこの笑顔を見るのはこれで何度目だろうか。
歯を見せて笑うその表情は、心なしか虚しかったそこを満たしていく。

名前の言いたいことを理解した蓮は、むっと口元を引き締めながら視線を前に戻した。
いまだ明かりの消える気配のない澁天街を蹴るようにつま先を弾く。


「……おれは弟子にはならねェ」
「そっか、九太は守りたいものがまだないんだね」
「…は?」


二度目の、素っ頓狂な声が漏れる。

再度名前の方へと顔を向ければ、名前は自身の手の平へと視線を落としていた。


「わたしはね、お父さんや百さんや多々さんを守りたい。だから剣を握る。
 お父さんだって、わたしを守りたいからもっと強くなったって、言ってたよ」
「守り…たい…」
「でも、九太にはまだそれがないから、強くならなくてもいいって思ってるのかもね」


ふふ、と笑う名前の声に重なるように、人間界にいた時の記憶が再生される。

父を父と呼ばない嫌悪と侮蔑に塗れた声。

気付けば蓮は立ち上がり、睨め付けるように澁天街を見下ろした。


「おれは…―――おれは強くなってアイツらを見返したい…!」


涙を含ませた声が、夜の静寂に霧散していく。
名前は突然立ち上がり声を荒げた蓮を目を丸くして見つめていたが、次第に口元は弧を描き、倣うようにすくっと立ち上がり息を吸い込んだ。


「わたしは、今日から九太も守りたい!だから、もっともっと強くなる!」


吐き出された声に、今度は蓮が目を丸くする番だった。

大声出すって気持ちいいね、と息を吐いた名前の顔は清々としている。
その表情に、つられて蓮の靄も晴れていくようだった。


「お互い頑張ろう!」


笑顔と共に差し出された手を、握り返してしまったのもそのせいに違いない。
大きさこそ変わらない手の平なのに、名前の手は切なくなる程に温かかった。

不意に、蓮の髪の隙間からキュッと鳴き声が響く。


「わあ!かわいい!この子、九太のお友達?」
「あ、ああ、チコって言うんだ」
「チコ…チコ、こんにちは」


渋谷の路地裏で拾った白い毛玉のような生き物―――チコを手の平に乗せ、名前の方へと腕を伸ばす。
蓮の手の高さに合わせて屈んだ名前は、頬を赤く染めてチコを熱心に見つめた。
かわいいものが好きなところは、その歳の少女と何ら変わりない。

ふと、名前の細い指がチコの目の前に差し出された。
チコは数回その指に鼻を寄せたかと思うと、あっという間に名前の肩まで登り詰めていた。
無防備に晒された名前の細い首に、その小さな体を擦り寄せている。


「わあ!チコ、擽ったいよ」
「名前のことが気に入ったみたいだ」
「あ!九太、いまわたしの名前呼んでくれたね」
「っ…!な、名前くらい!…呼ぶだろ」


自然と口から零れた、少女の名前。
名前を呼ばれた本人は至極嬉しそうに笑った。

蓮は熱くなる頬を少しでも冷まそうと、そよぐ夜風に向けて顔を背けた。


「―――うん、そうだね、九太!」


九太。
名前にそう呼ばれると、不思議と嫌な気はしない。

九太は心のどこかで感じるその擽ったさに、僅かに口元に笑みを浮かべた。







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