遠ざかっていく熊徹と名前―――そして少年の後ろ姿を見送りながら、百秋坊は本日何度目かも知れぬ溜息を吐いた。
その回数を数えるのはすでに億劫の域だ。

熊徹の野放図で身勝手な性格は今に始まったことではないが、まさかここまでとは。
名前を引き取ると言った時もそうだ。
子育ての経験など何一つない癖に、恐らく一番手のかかる時期であろう幼子の名前を引き取るんだと百秋坊や多々良の制止にも聞く耳を持たなかった。

結果的に名前はすくすくと育っているからそのことは良しとしたいところだが、今回ばかりは流石に心許がない。

何せ相手は人間の子だ。
今まで殆ど関わりのなかった種族の子供を弟子に、だなんて、一体何を考えているのやら。

熊徹に育てられたにも関わらず、良識を持って真っ直ぐに育ってくれた名前に今は望みを託すしかない。


「―――そこまでして跡目の座が欲しいのか」
「いやいや、アイツはただ猪王山との喧嘩に勝ちてェだけよ」
「確かに…宗師となり神様に出世するなど、さらさら興味ないだろう」
「仮にアイツが転生しても、せいぜい九十九神がいいところさ。便所の神とか、タワシの神とかな」


熊徹は猪王山と度々喧嘩をしては、勝敗の行方を相手に譲っていた。
喧嘩、という言い方も熊徹曰くのものであり、猪王山本人は熊徹との対決を一度もそのように捉えたことはないのだが。


「気の毒なのはあの人間の子供だ。熊徹と一緒にして大丈夫だろうか」
「さあね、俺ァ知らね。ま、名前がいるから大丈夫なんじゃねェの?」


三人の姿が見えなくなっても尚、百秋坊は心配気に彼方を見つめていた。

百秋坊に気を揉まれているとも露知らず。

自宅に着いた熊徹は、澁天街で名前から引ったくった背負い籠を適当に台所へと置き、床の隅にクッションを一つ二つ投げて少年の寝床を作った。
作った、とは言い難いお粗末なものだったが。

名前は自身の就寝スペースに荷物を放り投げるや否や、熊徹と少年の間を駆け抜け台所へと身を滑らせた。
季節は夏だ。
買ってきた物をきちんと仕分けしなければ泣きを見ることになる。

竹皮に包まれた味噌を瓶へと移すたびに、芳醇な香りが鼻腔を擽った。
味噌を詰め終えた瓶を片手に床のタイルを一つ外せば、ひんやりとした冷気が名前の皮膚を撫でる。
先客の味噌瓶を手前の方へと押し出し、その奥に今し方味噌を詰めた瓶を押し込む。
これでひとまずは安心だ。

居間から聞こえてくる熊徹と少年―――蓮のやり取りを背に、名前は買い物終わりの作業の手を止めることなく進めていった。


「俺はメソメソする奴は嫌ェだ。泣いたらすぐに放り出す」
「泣かねぇよ。だからってアンタの弟子になった覚えはないからな」
「じゃあなぜ着いてきた」


熊徹の尤もな問いかけに、蓮は初めて口籠もった。
しかし当の本人は答えが返ってこないことに気にした素振りもなく、鋭い眼差しで蓮を見据えている。


「言わねェでも解るぜ、行く所がねェことくらい」
「同情してんのか」
「バカ野郎!ンなこた一人前になってからほざけ!
 ―――お前ェはどの道、ひとりで生きていくしかねェんだ」
「お父さん!」


熊徹の怒鳴り声と重なるように、ちょうど台所から出てきたばかりの名前がその声量にビクリと肩を震わせた。
しかし蓮に対して放たれた熊徹の発言を理解した直後、そんな言い方はないだろう、という意味を込めて熊徹に眉を吊り上げる。

当事者である筈の蓮の片眉が、訝しげに顰められた。

名前に叱られた熊徹は、小さく舌打ちを零しながら少年を見やった。
違う話題を探しているようだ。


「まだ名前聞いてなかったな」
「…言わない」


再び熊徹が吠える。
漸く見つけた会話の糸口だと言うのに、あっさりと拒絶の色で返されたのだから無理もない。


「じゃあ歳は?いくつ?」


予想外の返答に対して、直ぐさま違う問いかけを投げたのは名前だった。
熊徹の足元に座り込んだ名前は、興味津々と言わんばかりの眼差しで蓮を見上げている。
この少女との方がよっぽどまともな会話が出来そうだ、と蓮は肩を竦めた。

しかし、熊徹のつっけんどな態度にすっかり感化され意固地になってしまった蓮は、口では答えずに自身の指で年齢を示した。


「…きゅう、歳?」
「……」


立てられた9本の指をゆっくりと数えた名前が、恐る恐ると言った様子で蓮の顔を覗き込む。

蓮の指のなかで、折られた指は1本しかない。
10本指からその折られた指の数だけを引けばいいものの、少女は律儀に立てられた指の数を数えたのだ。
もしかすると、背が高いだけでまだまだ幼い年端なのかもしれない。

そう思った蓮は、嬉しそうに名前が紡ぐ言葉に目を丸くする羽目になった。


「わたしと同じだ!」
「っ、は…?」
「なんだ名前と同い年か!じゃあお前ェは今から九太だ!」


なんでアンタが勝手に名前を―――そんな言葉よりも、名前が同じ年齢だったことに衝撃が走ったのは確かだった。
名前の知識は、蓮や蓮が知る同級生に比べると少し思うところがある。

思惑に揺れる蓮に"九太"という適当極まりない名を授けた熊徹は、そのことに満足したのかそのまま眠りについてしまった。
酒も入っていたので、唸り声のような熊徹の鼾はすぐに居間を満たした。


「よろしくね、九太」


パッと咲く花のような笑みを零した名前から視線を外し、そのまま家の戸を潜り庭先へと足を向ける。

白い大きめの椅子や、ぽつんと置かれた壺を無視した蓮は庭の際で立ち止まった。
そこから見下ろせるのは、夜の帳が降りた下で一際輝く爛々とした澁天街の街並みだった。

蓮にとって見知らぬ世界でしかない街の様子は、まだ幼い蓮をとてつもなく心細くさせた。
街が違うどころか、住んでいる者も違う。
拠り所ほしさに、軽率に熊徹に着いて行った自分自身を呪いたい。


「―――蓮」


呼ばれた声に振り返れば、大好きだった母がお盆を持ってそこに佇んでいた。


「蓮の好きなハム入りオムレツ作ったよ。冷めないうちに食べよう」
「……うん」


思わず生返事をして一歩踏み出した時には、優しい微笑みを湛えた母の型は消えていた。

途端に蓮の心は寂しさに苛まれ、気付いた時には膝に顔を埋めて泣いていた。
泣いたのは、いつ振りだろうか。







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