酸欠で倒れてしまうかと思った。


「な、何でもっと早く言ってくれなかったのよぉ…」


思わず情けない声が出てしまうが、彼女はそれくらのことをしてくれたのだ。
文句は言えまい。
今ここで泣き崩れても可笑しくはないだろう―――周囲の人に訝しげな目で見られるのは否めないが―――。

少しの間をあけて届いた機械を通した独特の声が、太鼓の音に掻き消されそうになる。


「お祭行くの…楽しみにしてたんだからね」
『ホントごめんってば。
でもその代わり、優秀なパートナーをアンタのところに派遣しといたから』
「優秀なパートナー?なにそれ―――」


名前がそれを問いかけるや否や、ごめん切るね、と二言だけ残され無情にも通話は途絶えた。
電話からは、通話終了を知らせる音しか聞こえなくなった。

役目を果たし終えた携帯を惜しげに巾着の中に落とし、名前は溜息を吐く。
誰が聞いても不満だと分かるそれだ。


「…浴衣見せ合いっこって言ったから、頑張ってオシャレしたのに」


その溜息の余韻が消えた頃、砂の地面に一粒の雫が零れる。


「え―――う、うそ…!」


やがてその雫はバケツをひっくり返したような雨へと姿を変え、綺麗に整備された土は雨を凌ぐ場所を求めて走り回る人々の足跡で踏み荒らされていった。

このままこの場所に居ては、跳ねた泥が浴衣に付着してしまう。
名前は極力泥が跳ねないようにその場を立ち去り、砂のない石畳の道へと走り出した。
本当に浴衣は走りにくい。

見知らぬ家だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
軒下に慌てて飛び込めば、泥の跳ねた下駄が目に入る。
家を出た時には黒光りしていたにも関わらず、今では鼻緒ですら泥に塗れて汚れていた。
水を含んだ巾着を漁り、ポケットティッシュを探す。
見つけたそれは雨に濡れていたが、用途を考えると別に濡れていようが構わない。

前屈みになって下駄に手を伸ばそうとするが、慣れない帯が腹に食い込んで呼吸が出来ない。
少し迷った挙句、左側の下駄を脱いで付着した泥を落とす。
雨に濡れたコンクリートに爪先だけをおろせば、妙な温さがそこから伝わってきた


「…もう、最悪」


左の次は右。
夏祭りに来たはずが、なぜ下駄を磨いているのだろう。
黒塗りに反映した自分の顔が、とても悲しそうに歪んでいるのに気付き更に泣きたくなった。
鼻緒の染みの一つになってしまった泥が、この世の物とは思えないほどに憎らしく思える。

霞む視界で辺りを見渡せば、コンビニで購入したであろうビニール傘がちらほら見受けられた。

友達同士。
家族連れ。
恋人同士。

一人で時間を無駄に潰している自分が、とてつもなく孤独で哀れに思えた。


「……来なきゃよかった」


事の始まりは、友人の土壇場キャンセルだ。
詳細も言わずに断られた約束。
それから、降り出した土砂降りの雨。

祭の日に雨が降ってきた事実さえ、己一人の空回りだと思えてならない。

帰るにも帰れない大雨の中、名前は目元に手の甲を添え涙を拭った。


「名前?」


聞き覚えのある―――と言うには軽薄すぎる声が、名前の音の世界を一瞬にして占領した。

微かに切れた息遣い。
安堵と嬉しさに満ちた声色。
雨に濡れた靴。
肩の動きに合わせて上下する腕。
笑みを浮かべた口許。


「一瞬、誰だか分からなかったよ」
「……ふみ、き」


水色の傘を軽く頭上に掲げ、彼―――水谷文貴はにこりと微笑んだ。
傘に入るよう促している。
水谷は軒下と傘の間に隙間が生まれない位置に立ち、手を差し出して名前をそこへ招き入れた。


「びしょ濡れじゃん」
「これでも走ったもん…」


そっと肩を包むように回された腕は、冷えた体を温めてくれるように優しかった。
名前は水谷の胸元に顔を寄せる。
彼の匂いを鮮明に感じ、心拍数が上がるのが分かった。


「―――文貴は、誰かとはぐれたの?」


ふと浮かび上がる疑問に合わせ、顔を上げて少し高い場所にある水谷の顔を覗き込んだ。
想像以上に距離が近く、声が裏返りそうになるのを堪える。


「は?いや、山本に言われてここ来たんだけど」
「…え?」
「"名前が待ってるから"って」


一瞬にして名前は頬に熱が集まるのを感じた。

夏祭りの約束をした日、名前は友人に相談を持ちかけていた。
中学からの付き合いの―――好きな人に告白がしたい、と。
友人はその"好きな人"とやらをすぐに察したのか、協力すると申し出てくれた。

今まで異性に告白などしたことのなかった名前にとって、その協力はとても頼もしいもので、純粋に感謝の念を抱いたものだ。
友人の手伝いがあるなら、玉砕はしても失敗はしないだろうと思っていた。

まさかこのタイミングで来るとは微塵も思っていなかったが。


「で、オレに話ってなに?」


話があるとまで聞いている水谷に、嘘をついても意味はない気がした。
名前は湿った袂を手繰り寄せ、緊張に打ち震える手をギュッと握る。
水谷に向けていた視線を降下させ、水溜りの出来た石畳を見つめた。

それもつかの間の事とし、再び彼の視線にそれを合わせて口を開く。


「あ…わ、私、文貴が……好き…」


言ってしまった。
このまま気持ちを押し殺し、今までどおり良い友達として付き合っていた方が良かっただろうか。

言い終えた後に後悔の念が押し寄せてくる。
なんとなく、その感情がずるいと思えた。

水谷は大きな目を見開き、名前を凝視していた。
頬はいつも以上に朱色に染まっている。


「あ―――やっぱり、」


気にしないで。


そう続くはずだった言葉は、苦しい程に抱き寄せられた肩に吸い込まれていった。
愛しい人の匂いを、先ほどよりもずっと傍に感じる。


「っ……ヤバい、オレ…幸せすぎて泣きそうかも」
「ふ、みき…?」
「オレも、名前のこと、好きだ!」


雨で崩れかけた髪。
所々後れ毛が零れた後頭部に、大きな手の平が回される。
頬や瞼にポタポタと雫が零れてくるので、水谷が泣いているのかと思いきや、いつの間にか傘は石畳の上に転がっていた。

クスクスと聞こえる笑い声。
傍らを通り抜ける人の視線が痛かった。

だが今はそれ以上に水谷の体温が心地好かった。

ドタキャンなんて難い手を使ってまで水谷と引き合わせてくれた友人に、ますます頭が上がらないと名前は苦笑いを浮かべた。







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