「私は百秋坊。見ての通り修行の身だ。
 そしてこちらでむくれているのが―――」
「……名前です。わたし、本当に人間じゃないよ」


声の突っ撥ね具合から名前の心情は察せられるも、肝心なところの礼儀礼節を重んじる態度は百秋坊の教育の賜だ。

名前の反対側を歩く少年は、彼女の強調した「人間じゃない」という部分にはもう何も言わなかった。
聡い子だ、と百秋坊は心の中で瞠目する。


「ここ澁天街へは定められた順路を辿らねば巡り着けん。
 神にすらなれる我らバケモノと、なれぬ人間とでは生きる世界が違うでな。
 偶然に迷い込んで心細かったろう。私が元の世界へ送り届けてあげるから」
「えっ」


繋いでいた手が、するりと離れる。
奇妙な声を上げた名前と離れた手につられ、百秋坊は歩みを止めてそちらを振り返った。

数歩分後ろで立ち止まる名前の姿を捉え、何事かとその表情を覗けば、眉をハの字にして百秋坊と少年を交互に見やっていた。
この表情が意味することを、百秋坊は知っている。


「帰っちゃうの…?」
「言っただろう、人間は生きる世界が違う。我々とは住む世界が違うと言うことだ」
「……やだ」


ハア、と聞こえた溜息は誰のものだっただろうか。


「お友達になれそうだったのに、もう帰っちゃうなんてやだ…」
「聞くが名前、先ほどまで怒っていたのは誰だ?」
「で、でも…お父さんだってよく多々さんに怒ってるよ?」
「熊徹と多々良、お前とこの少年とでは訳が違うだろう。
 それにお前には一郎彦や二郎丸がいるではないか」
「……お友達、たくさんほしいんだもん…」


名前がこれ程までにこの少年に執着する理を、百秋坊は理由よく理解していた。

それでも、こればかりは名前の我が儘だけで罷り通ることではない。
今はまだ水面下の出来事として事態のほとぼりは小さいものだが、事の次第によっては一個人の判断でどうにかできることではなくなるのだ。

この少年が一言帰りたい、と言ってくれさえすれば名前も納得せざるを得ない。
童子故の自儘が過ぎるだけであり、元より聞き分けはいい娘なのだから。
百秋坊は、少年の口からその一言が零れることを心底願った。


「よォ!本当に来たのかィ?」
「―――あ!」


聞こえてきたのは、願った少年の声ではなく、聞き馴染んだ男の嬉々とした声だった。
百秋坊や名前は振り返らずともその声の主が誰なのか嫌でもよく分かるのだが、浮き足だった声につられて振り返った少年もその男には見覚えがあったらしい。

酒瓶を肩から提げ、ほろ酔い気分に頬を赤らめた熊徹が、大股でこちらに歩み寄ってきていた。


「おかえりなさい!」
「よォ、名前と百秋坊も一緒とはなァ。
 しっかし見込んだとおりだぜ、ますます気に入った!」


熊徹は酒に濡れた息を吐き出しながら、少年の細い肩を乱暴に引き寄せる。
当然、それを止めたのは百秋坊であり、熊徹から庇うように少年の腕を引いた。

熊徹と百秋坊の応報が、往来で繰り広げられる。


「おーっす、名前」


怒鳴り合う熊徹と百秋坊―――怒鳴っているのは熊徹だけだが―――、そして、その間で人形のように扱われる少年にオロオロとしていた名前の肩を叩いたのは、熊徹と共に人間界へと出向いていた多々良だった。
名前は見知った人物の登場にホッと肩を撫で下ろし、目の前で揉め合う二人を涙目で指さした。


「お父さんと百さんがぁ…」
「あー?…おいおい、あのガキ着いて来ちまったのかよ…しゃーねェな」
「多々さん、あの子知ってるの?」


多々良の口振りに、名前の目に浮かんでいた涙がスッと引っ込む。
代わりにその双眸をきらきらと輝かせながら多々良を見上げた。

澁天街に住むバケモノ、その数十万。
それらバケモノを束ねてきた存在―――"宗師"が、この度その地位を退き神に転生すると宣言をした。

現存の宗師が引退するということは、新たな宗師が必要ということである。

そんな新たな宗師として、有力なバケモノがいた。

強さ、品格、一流。
宗師の跡目としての絶対的条件を兼ね揃え、冷静沈着で勇猛果敢。
そして、大勢の弟子を抱える偉丈夫―――猪王山。

そんな猪王山と並び、もう一人、注目されるバケモノがいた。

それこそが、名前のよく知る熊徹だった。

猿のように身軽で底なしの体力を誇る熊徹は、力だけなら猪王山にも勝るとも言われている。
しかし、そんな熊徹が新たな宗師として懸念されることと言えば、弟子が一人もいないことだった。

始めは名前を弟子にしてしまえばと多々良が提案するも、熊徹自身がそれを良しとはしなかった。
当然名前は熊徹の助けになるならと満更でもない様子だったが、それでも熊徹が首を縦に振ることはなかった。

しかしながら、澁天街には熊徹の望むような人材が見当たらなかったらしい。
故に、熊徹と多々良は渋々人間界に弟子を探しに赴き、そこで少年と出会ったという経緯を教えてくれた。


「それで攫ってきたのか!」


いつの間にか多々良の話を聞いていたらしい百秋坊は、呆気に取られた様子で眉を顰めながら熊徹を咎めた。
しかし本人と言えば、攫ったのではなく少年が勝手に着いてきたと反論の意を見せる。

再び言い合いを始めた熊徹と百秋坊に、今度は多々良が盛大な溜息を零した。


「―――ねえ、本当に着いて来たの?」


そんな大人たちの足下を抜けて少年の隣に肩を並べた名前は、その丸い瞳を少年―――蓮の黒いそれにぶつけた。
人間か否か云々のやり取りを交わしていた時の印象とはかけ離れ、興味津々と言った様子でこちらを見つめてくる少女のきらきらとした眼差しに、蓮はウッと僅かに息を詰める。

正直、名前の容姿はとても愛らしかった。
大きな瞳はいつか見た海のような色をしていたし、動く度に揺れる髪は蕩けるような金色をしている。
どこからどう見ても人間そのものの容姿に、蓮の世界で言うところの"日本人"とは掛け離れたそれは、見慣れていないことも相俟ってかとても魅力的に感じた。

この際、蓮にとって名前が人間でもバケモノでもどちらでも良かった。

蓮は熱くなる首筋を無視し、名前の目を見つめ返しながらしっかりと頷いた。


「おれが勝手に着いてきた」


その言葉を聞いた名前は、少しの間を置くこともなく満面の笑みを浮かべた。







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