見慣れた街だと言うのに、置かれた状況一つでこんなにも雰囲気が違うなんてな。
行き交う人の波を傍観しながら、時折スマホの画面に視線を落とす。
まだ15分も余裕がある。
普段から5分前行動の性格が祟ったのか、それとも完全に張り切りすぎたのか―――問われれば、間違いなく後者だ。
人を待たせるのは嫌いだし、今みたいに待つのも苦痛ではない。
会いたい子が相手なら、それは尚更。
1時間だって余裕で待てる。
端的に言うと、名前ちゃんとデートをすることになった。
今日、15分後に。
デートと思ってるのは俺だけで、向こうはそうは思っていないかもしれないが、俺がデートだと思えばこれはデートだ。
きっかけは、案外あっさりとやって来た。
いつものようにTwitterで何気ない雑談を交わしていた最中、欲しいCDの話になり、そしてお互いオススメのアーティストの話になり、じゃあ一緒にCDを見に行かないか、と、こんな流れだ。
何よりも、名前ちゃんとデートができることだけが今回の収穫ではない。
Twitterでのやり取りはあくまでもオススメのアーティストまでであり、その後の流れはLINEでのやり取りの話なのだが、驚くことに、初めにアクションを起こしたのは名前ちゃんの方だった。
俺の脳内で本人の声色で再現される名前ちゃんからの可愛らしいリプライに緩みきった顔は、スマホ画面の上部に表示された通知バーに一瞬にして真顔になった。
名前ちゃん : 今度一緒にタワレコ行きませんか?
佐伯翼、よく耐えたと褒め称えてくれ。
すぐにトーク画面を開きたい衝動を抑え、1分ほど時間を置き、まるで余裕があるかのような時間をかけて返事を返してそして今に至る。
いつも何気なく通っているこの改札口も、店も、違う場所のような気がする。
暇つぶしで行う人間観察にも身が入らず、落ち着くために何度意識を逸らしても頭の中が名前ちゃんでいっぱいになる。
待ち合わせの時間まで後10分。
スマホの暗い画面を鏡にして、顔や髪型をチェックする。
普段通りの前髪がなぜか乱れている気がしたり、みっともなくないかとか。
それから、目の前にある店のウインドウに姿を映して、さり気なく全身を確認する。
キャップはおろしたてだから問題なし、デニムジャケットはよれていない、パーカーもまだ1回しか着用していない特別なパーカーなのでくたびれていない、埃が目立つ黒のスキニーも家を出る際に埃を取った。
完璧だ。
「つーばささん」
肩を軽く叩かれ、大好きな声が聞こえた瞬間、心臓が止まりそうな程の危機感にも似た焦りを感じた。
待ち合わせの時間まで少し余裕があったことと、身なりを整えることに夢中になっていたあまり油断していたのだ。
咄嗟に目をやった腕時計の時刻は、まだ7分の時間の猶予があることを示している。
名前ちゃんも5分前行動派なのだろうか。
俺はあくまでも冷静を装い、涼しい笑顔で愛しいその子に振り返った。
「ごめんなさい、先に来てくれてたんですね」
「ううん、だいじょー…ぶ…」
そして、固まった。
目の前には不思議そうに首を傾げる彼女―――彼氏彼女の彼女ではなく、三人称の彼女だ―――。
「翼さん?」
突然だが、名前ちゃんは都内でも指折りのお嬢様学校に通っている。
その学校の信仰を重んじ、清く正しく美しく生きる少女だ。
そんな名前ちゃんとはエデンでしか会ったことがなく、お互い学校帰りだったりといつも制服姿で顔を合わせていた。
いつだったか、厳格なお嬢様学校の制服の割にスカートが短くて、我ながら邪な感情を抱いたことを覚えている。
つまり、今日、今。
初めて名前ちゃんの私服姿を拝んだわけなのだが、俺はあまりの衝撃に眩暈を覚えたのだ。
デートの約束を取り付けたその日から、一体どんな服で来るんだろうと妄想を膨らませていたことを自白する。
春らしいシフォンワンピースも可愛いし、スタイルが良いからワイドパンツでもいいだろうな、なんて思っていた。
そんな俺の妄想を差し置いて、目の前にいる名前ちゃんときたら。
「あ、お揃いですね」
デニムジャケットの下には白のパーカー、青いスカート。
頭にはエンジ色のキャップをかぶり、色こそ違えど、見事に俺の服装と同じもので現れたのだ。
お嬢様を彷彿とさせるワンピース姿でもなければ、意図せずお揃いコーデはあまりにも攻撃力が高い。
俺の服装に気づいた名前ちゃんは、どこか照れ臭そうに笑った。
お揃いですね、じゃねぇよ俺の心臓止める気か。
「っ…名前ちゃん、かわいいよ」
「……ありがとうございます」
やっと俺が口を開いたことが嬉しかったのかは知る由もないが、名前ちゃんは嬉しそうにニコッと目を細めた。
俺は思わず心臓の辺りを鷲掴み、それに対して不思議そうな顔をする名前ちゃんに震える声で行こうかと促す。
今日一日、自らの心臓が持つことを祈り、俺は予めマークしていたお店に誘導しながら名前ちゃんに雑談を投げかけた。
全体的に黄色いカラーリングに迎え入れられたところで、名前ちゃんのお目当のCDは入店3秒で見つかった。
入り口のすぐ目の前に設けられた特設スペースとPOPを見て、名前は聞いたことあるな、程度の知識しか持ち得ないアーティストに興味が湧く。
否、名前ちゃんの好きなアーティストだからこそ興味が湧くのだけれど。
R&Bとか好きなんだ、意外。
洋楽を好んで聴く名前ちゃんにとって、ここのCDショップは比較的洋楽に強いのでお気に入りなんだとか。
駅を挟んで反対側にも同じ系列の店があったのに、あえてこっちに行きたいと主張した名前ちゃんを思い出し、可愛かったな〜と頬が緩む。
持っていないアルバムが店頭に並んでいたのか、買う予定のCDを片手に別のCDを食い入るように見つめるその姿も当然可愛い。
俺はポケットに手を忍ばせ、取り出したスマホでカメラを起動して目の前の女の子をフレームにおさめる。
傍でカメラを構えられているにも関わらずまったく気づく様子のない名前ちゃんに、少しだけ不安を覚えた。
通学の時に盗撮とか大丈夫かな、俺が言えた義理じゃないけど。
パシャッ
軽快なシャッター音が響いた直後に名前ちゃんはこちらを振り返り、俺の手におさまるスマホを一瞥した。
怒られるか、と構えるが、名前ちゃんは申し訳なさそうに眉を下げるだけだった。
「時間、とらせてしまってすみません。
もしあれでしたら、翼さんもお目当のCD探しに行ってくださっても…」
「いいよ、知らないアーティストのCDをこんなにまじまじと見るなんてこと、早々ないから楽しいよ」
「……見てなかったじゃないですか」
「あ、バレた?でも暇ってことじゃないから、気にしないで、ほんとに」
流石に、名前ちゃんを見ているだけで楽しいとは言えないが、言葉の節々に意味を込めて笑ってみせる。
そうですか、とあまり腑に落ちていなさそうな様子で頷いた名前ちゃんは、数秒陳列棚に向き合い、そして遂に意を決意してもう一枚のCDを棚に戻した。
「いいの?」
「これ、ボーナストラックだけ違うCDなんですよ。
もう一種類のほうを持ってるので、ちゃんと考えたら諦めた方がいいなって」
今日の目的はこれなので、と新譜のCDだけを嬉しそうに抱き寄せるその姿に、俺の中でキュンっていう音がした気がした。
「あ、じゃあさ、俺がこのCDを買って、名前ちゃんに貸してあげるってのはどう?」
「えっ?でも、翼さん、そのアーティスト知らないんじゃ…」
「名前ちゃんの曲は、この人の音楽で生まれることもあるんだよね?
なら、俺が買わない理由はないよ」
恥ずかしい言葉を使うが、俺は名前ちゃんに惚れているし、名前ちゃんの音楽にも惚れている。
あの日、エデンでLiZの演奏を目の当たりにした時からずっと。
俺を惹きつけた曲の源に、このアーティストの音楽があると思えば、俄然興味が湧いてくる。
それに、好きな子の好きなものは何でも知りたいし、俺も同じように好きになりたい。
いいきっかけだ。
名前ちゃんはわかりやすく目を輝かせ、俺と、俺の手におさまるCDを交互に眺めて頷いた。
可愛い。
また2人だけのやり取りができるという保証を取り付けた俺は、嬉しそうに頬を緩ませる名前ちゃんを連れてコーナーを移動する。
俺の目当も新譜ということで目立つ位置に置かれたCDを手に取れば、名前ちゃんがジャケットの裾を軽く引っ張って来た。
愛らしい仕草に、また心臓が叫ぶ。
「なあに?」
「翼さんの好きなアルバムってどれですか?」
そろそろ平常を装うのも慣れて来たもんだ。
少し考え込んだ後に、陳列棚をじっと見つめる名前ちゃんの目の前に1枚のCDを差し出す。
そのCDを素直に受け取った名前ちゃんは、ジャケットと裏面のトラックリストに目を滑らせ、ややあって購入予定のCDを握る手におさめなおした。
「え…」
「私も知りたいです、翼さんの好きな音楽のこと」
翼さん
好きな
翼さん
好き
翼さん好き
俺の耳は都合の良い単語だけをピックアップし、耳とタッグを組んだ脳が何度もその言葉を再生させる。
そして次いで込み上げてくる感情と言えば、名前ちゃんを好きだという抑えきれないそれと、名前ちゃんを好きになってよかったという気持ち。
歓喜に打ちひしがれる俺を呼び戻したのは、他のコーナーも見たいと強請る愛しいあの子の声だった。
名前ちゃんは、心底楽しそうな眼差しで所狭しと並んだCDを眺めるのだ。
その横顔を捉えて、本当に音楽が好きなんだなと思った。
そして今。
運ばれてきたロコモコにも同じような表情を浮かべていた。
「美味しそう…!
私、ロコモコって外で食べたことないです」
「外でってことは、家では食べてんの?」
「んー…と、はい、お母さんが好きなので」
ロコモコの写真を撮ろうとスマホを掲げる名前ちゃんに倣って、俺も自分のロコモコの写真を撮っておく。
お母様がロコモコ好きで更には家庭食として親しんできたなんて。
「お母さん、ハワイが舞台の海外ドラマにハマっちゃって、それからずっとロコモコとかマラサダとかパンケーキとかうるさいんですよ」
声をあげて笑うような内容でもないのに、名前ちゃんが笑うとつられて笑ってしまう。
心が暖かくなる笑顔、とでも言えばいいのだろうか。
とにかく、名前ちゃんと話す瞬間瞬間が楽しいと感じた。
音楽の話をしている時も、バンドの話をしている時も。
幸せそうな顔でロコモコに感想を述べている時も、デザートについてきた猫のクッキーに目を輝かせた時も。
何でこんなにも愛しいんだろう。
せいぜい17年という短い人生しか歩んで来ていない俺を満たすのは、そんな感情ばかりだった。
俺が選んだ店は大層お気に召していただけたようで、また来たいと言うのでちゃっかり2回目のデートの約束を取り付けてしまった。
我ながら、本当に抜かりがなくて怖い。
その後ペットショップに行ってみたり、雑貨屋を覗いてみたりと、まさにデートをしているという実感をもたらすような時間を過ごした。
CDショップで怒られなかったのをいいことに、俺は事あるごとに名前ちゃんの写真を撮った。
名前ちゃん自身、写真や動画をよくバンドのメンバーと撮っているので、抵抗がないどころかむしろ楽しくて好きだと言う。
その代わり翼さんも撮らせてください、というお願いに二つ返事で了解をして―――名前ちゃんのフォルダに俺がいるなんて最高ではないか―――、ここぞとばかりに瞬間を切り取って行った。
「翼さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそありがとう。
CD聴いたら、明日エデンで感想話すよ」
「私も、CD楽しみです」
名前ちゃんの最寄駅まで送り届け、改札から出て行く大勢の背中に寂しさを覚える。
その中に、名前ちゃんも混ざっていくんだ。
感傷的なそれを悟られないように、俺は自分自身のために近い言葉を返す。
明日、また会える。
「―――私のCD」
「名前ちゃんオススメのやつ?」
「ベースが、すごく翼さんみたいで……好きなんです」
そ、それじゃあ!
名前ちゃんが改札を出て行ったのは本当に一瞬のことで、俺は2本電車を逃した程にその場に立ち尽くした。
今日の時間のなかで、何度も手を繋ぎたいと思う瞬間があった。
だが流石にそこまではと思い留まり、よく耐えたで賞を与えてもらってもいいくらいだ。
しかし、今ので完全に俺の中の境界線は消えて行った。
呆然とする頭で電車に乗り、ほんの数分前のことを幻だったのではと疑いながらツイートをする。
幻ではなかったと言い聞かせるように。
その後手持ち無沙汰にTwitterを見たが、誰のツイートも内容が一切頭に入ってこなかった。
無意識にタイムラインを更新すれば、新着のツイートに今しがたまで会っていた女の子のツイートが現れる。
食い入るように内容を読めば、最後に見せた赤い顔を払拭したような"いつもの"名前ちゃんが今日のできごとを綴っていた。
あ、名前ちゃんのツイートだけじゃ、何があったかわからない。
そう悟った瞬間、今日一番と言っても過言ではない程ににんまりと口角が持ち上がった。
別れ際の照れた名前ちゃんを知っているのは、正真正銘、俺だけなんだ。
可愛いなあ。
理解してしまうと、もはや名前ちゃんのツイートが照れ隠しのようにすら思えてしまう。
自他共に認める、これは末期だ。
キャップのツバを下げ目深に帽子をかぶり直した直後、LINEの方に通知が入る。
送り主の名前に、また胸が踊った。
「(俺も、今日は、楽しかった、よ)」
すぐさま既読をつけて、返事を打つ。
「(最後の、あれ、意識して、聴いて、みる、ね)」
ああ、俺って、好きな子には意地悪したくなるタイプだったっけ。
1分も経たない間に返ってきた怒ったようなスタンプに、また笑いが止まらなくなった。
本当に、名前ちゃんは楽しいね。