顎を伝う雫は、もはや汗なのか海水なのかわからない。
口の中で弾けていた炭酸は、嚥下すると大人しくなった。

LiZと海に行くのは、毎年の恒例行事と言っても過言ではない。
グループLINEで日程を決めたのが2ヶ月前。
嫌がる尋太を引き連れて、4人で水着を見に行ったのが先月。
それからの毎日は、叔父さんの経営するライブハウスで期待を膨らませた。

そんな下積みの先に待っていた、念願の海。
海水が渇いた肌のベタつきでさえも、非日常を演出していて楽しい。

パラソルの揺れる影の下で、目の前の光景を端末のフレームにおさめる。

男の子が5人と、女の子が1人。
腹這いに寝転がって、その時を今か今かと待ち侘びている。
そんな彼らの側に立っていたもう1人の女の子が、大きく挙げていた右手を勢いよく振り下ろした。
6人は伏せていた体を起こし、足を向けていた方向へと体を翻し走り出す。
水飛沫のように、砂が舞った。

全員がおさまるように横向きに傾けていたスマホの画面から、1人、また1人とフレームアウトしていく。
カメラを最後まで独占していたのは大和さんで、彼の手が1番最初に旗を掴み上げた。
その次に旗に触れたのは徹平くんで、最後の旗を獲得したのは僅差で我がLiZのメンバーである奏だった。
奏に弾かれるように転がった尋太が、悔しそうな雄叫びを上げている。
遅れて再びフレームインしたのは、宗介さんと翼さん。
翼さんに至っては走った形跡すらあまりなくて、膝に手をついて肩で息をしている宗介さんを飄々と見下ろしているではないか。

そうそう、今回の海企画にはBLASTのメンバーも加わっている。
なんでも、偶然同じ日に同じ海で撮影があったみたいで、4人お揃いの青いTシャツを着た彼らにばったりと出くわしたのはつい数時間前。
BLASTと出会った瞬間に尋太が微妙そうな顔をしていた理由はわからないけれど、人数が多い方が楽しいと言うことで一緒に海を満喫することになった。

ビーチボール、海水浴。
焼きそばを買った海の家で旗を貸してもらえたので、食後一発目にビーチフラッグをすることなったのが今までのあらすじ。

ビーチフラッグの様子をおさめたカメラの録画停止ボタンを押して、日陰から勢いよく飛び出す。
踏み出した足が砂に深く埋もれて、少しだけ不恰好にふらついた。


「奏すごーい!」
「ね!すごい速い!」
「スタートん時に尋太がバランス崩してなかったら負けてたわ」


スタート合図係りのひなちゃんと一緒に、奏を取り囲んで彼女の偉業を賞賛する。

奏は小学生の頃から女の子のなかでは1番足が速かったけれど、その素早さは年々馬力をつけているらしい。
男の子と互角に戦った彼女の笑顔が、きらきらときらめいているように見えた。

一方、あと少しのところで奏に負けた尋太は、自らの敗北がまるでなかったかのように涼しげに腕で汗を拭っていた。


「尋太情けなーい」
「ねえ、僅差で4位なのになんで情けないとか言われてんの俺」


確かに、尋太は頑張った。
野球経験者の大和さんが速いのは一目瞭然だし、徹平くんが速いのもわかる。
そんななかで、速そうに見える宗介さんを差し置いて尋太が4位にのし上がった事実は、彼と同じメンバーでありながらも意外性のある展開だった。

尋太ナイスラン!
囃し立てるように拍手を添えて言えば、仰々しくもわざとらしい一礼が返ってきた。


「やっぱ大和センパイ速いっスね」
「徹平もなかなかやるじゃねぇか!
さすがに少し焦ったぜ」
「宗介はスタミナ切れってとこ?」
「っせェよ、翼テメェは走ってすらねェだろ」
「だって汗かくのやだしー?」


宗介さんの言う通り、私のスマホには競歩よりも遅いペースで走る翼さんがしっかりと捉えられている。
なんでもそつなくこなす翼さんのことだから、たぶん本気でやればビーチフラッグも朝飯前な気がするのに、生憎今回の試合では彼の本気を垣間見ることはできなかった。

翼さんって、なんとなく女の子よりも女の子らしいな。

夏の太陽が好きな私は浜辺でも基本的には水着のみだし、奏やひなちゃんもあまり水着の上からパーカーを着ない。
それに対して翼さんは、水着に着替えてもUVカットのパーカーをしっかり羽織っているし、今も汗をかきたくないという理由で控え目に遊んでいた。
女々しいとは少し違うけど、確実に私たちLiZ女子メンバーよりかは意識が高い気がする。

そんなことをぼんやり考えていたら、ふと、先程見かけた光景が蘇った。
宗介さんと翼さんが、突然大和さんを追いかけ始めた時の光景を何度も巻き戻ししては再生させる。

翼さん、実はめちゃくちゃ速い?

先程のビーチフラッグで1位を獲った俊足の大和さんだけど、そんな大和さんの元に翼さんは何秒で追いついていただろう。
気がついたら、大和さんの胸倉を掴み上げていたくらいだ。
それくらい、あの時の翼さんは速かった。


「ま、翼は本気出しても俺より遅ェことには変わんねェだろうな」
「BLASTで1番遅そうだしな!」
「…俺すげぇ言われようじゃん」


宗介さんはニヤニヤと笑い、大和さんはそれはそれは純粋な眼差しで翼さんを見つめた。
さすがの翼さんも2人の言葉が琴線に触れたのか、口元がひくつき、さらりとした前髪が目元に影を落としている。
BLASTの空気に緊張感が生まれたにも関わらず、徹平くんは先輩同士のやり取りに殊更困った様子もなく、僅かに肩を竦めるだけだった。

そんなBLASTを見かねたひなちゃんが、機転を利かせて鬼ごっこをしようとしどろもどろに提案した。
もっと他にも海らしいラインナップがあっただろうに、咄嗟のことに鬼ごっこを提案する辺りがひなちゃんらしくて可愛らしい。

確かに、慣れない砂浜で走るのは難しいし、他の海水浴客も少ないので面白いかもしれない。
満場一致とまではいかなかったものの、ひなちゃんの力で無理矢理鬼ごっこをする運びとなった。


「10秒数えるねー!」


フィールドの広さと人数を考慮して、公平なじゃんけんの結果により、鬼として2名が選出された。

鬼はまさかの、言い出しっぺのひなちゃんと、先程まで遅い遅いと言われていた翼さんだった。
これは面白い展開だ。

実のところ、私も足は速い方だった。
私の場合は持久力がないことが問題で、走る時間が長引けば長引くほど難点になってくる。
けれど、鬼ごっこならペース配分して走れるから問題はない。

ひなちゃんのカウントをする声を背中に、私は緩く走る尋太から少しだけ離れた距離を走った。


「鬼行くよー!」


10秒って、意外と離れられるんだ。
後ろから追いかけてくる鬼を見つめながら、それにつられるようにスピードを速めながら走る。

人の多い方には行かない。
海に逃げる場合は、海の中で走れる所まで。
隠れるのは禁止。

3つの簡単なルールを意識しながら、時々肩越しに鬼との距離を確認しながら逃げる。
案の定ひなちゃんは早速根を上げていて、つらそうに走っていた。
翼さんは相変わらず余裕そうな表情で、取り敢えず4人の中で1番鬼に近い私に狙いを定めているらしい。

少しずつ縮まる距離に、駆け引きをしているシチュエーションが見え隠れしていた。


「名前ちゃん意外と速いね」
「まだもっと出せますよ」
「そんなに!?すげぇアクティブじゃん」


会話ができるくらいの距離まで縮まり、タッチができそうでできないペースを保つ。

まだスピードは出せるとは言ったものの、体力的に難しいところだ。
更にこの駆け引きが長引くのであれば、確実に負けは間逃れない。

不意に近くに宗介さんの姿を見つけて、宗介さんを囮にするという作戦が浮かぶ。
一気に宗介さんを抜かしてしまえば、標的は彼に変わるはずだ。
ごめんなさい、宗介さん。

少しだけ速度を上げて、今度は宗介さんとの距離を縮めて行く。
宗介さんも私と同じくスタミナに難があるらしく、私と翼さんが近づいても更に加速する気配はない。


「捕まえてごらん!」


漏れる笑いをそのままに、ふざけてお決まりのセリフを口走る。
シチュエーションこそ平和ではないものの、渚には違いない。

宗介さんを追い抜く勢いで、そんなセリフ。
それから次いで宗介さんを抜かし、翼さんの標的を宗介さんに向けさせる。

ひとまずこれで安心だ。


「―――待て待て!」
「っ!?おま、はえっ…!」


背後の空気が変わり、思わず振り返る。

最後に見た時よりも近くに翼さんがいて、更にはその鬼気迫る走りに緩まっていた足が再び速まった。

宗介さんは抜かされると同時にタッチをされたらしく、その場にしゃがみ込んで息継ぎをしていた。
けれど今の私にそんなことはどうでも良くて、前触れなく神足の鬼に化けた翼さんから逃げることだけが頭の中を占める。


「えええ、めちゃくちゃ速っ…!」


迫り来る翼さんの気配に、もはや恐怖すら覚える。
砂を踏みしめる音がすぐ後ろで聞こえた。


「捕まえた!」
「ひぇっ…!」


タッチしてよ!
と思っても時すでに遅く、翼さんと2人して砂浜にもつれ込んだ。

余程盛大な転がり方だったのか、気づいたら奏と尋太が私たちの元へとやって来ていた。


「名前大丈夫?」
「急に本気出す翼さんまじ怖ェ」
「ごめんね、名前ちゃん」


翼さんの腕を下敷きに倒れこむ私と翼さんに、奏と尋太が手を差し伸べてくれる。
尋太の手を掴んだ翼さんが、私のお腹に回していた腕に力を入れて起き上がらせてくれた。

徹平くんに回収されたひなちゃんと、残る他のメンバーも集まってくる。


「なんだよ翼!走れんじゃん!」
「走れないとは言ってないだろ」
「遠目で見てもセンパイの目付き変わったんで怖かったっスよ」
「名前なに怒らせたの?」
「お、怒らせてないよ!…たぶん」


怒らせた記憶はない。
煽ってしまったのはあるが、怒りを与えるようなものではなかったはずだ。

まあ、それが不味かったのかもしれない。
そう納得した時、ちょうど翼さんと目線が交わった。


「怒ってないよ。
ちょっと珍しく燃えただけ」


パチリとウインクが飛ばされて、私は代わりに汗を飛ばした。

自然と鬼ごっこモードは終息したのに、いまだ何かを静かに燃やす翼さんの瞳に見つめられてドキッとしてしまったのだ。

夏の太陽が反射していただけ。
そう、思いたくてしかたがない。







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