※カドストネタバレややありです※
突如目の前に広がった見覚えのない部屋の景色に少しの違和感も抱かなかったのは、無意識のうちにこれは夢だと認識していたからだろう。
昔から夢見のいい私は、その日どんな夢を見たのかを記憶していることが多い。
もちろん夢を見たことすら分からないくらいに何も覚えていない日もあるけれど、大抵その日1日は夢の内容を覚えている。
そして何よりも面白いのは、夢を見ている最中。
夢だと理解した瞬間、私はいつでもその夢から覚醒することができるのだ。
例えば怖い夢を見た時なんて、この後に怖い展開があるなと先読みができた挙句、夢の中で開いている目を更に開くイメージを思い浮かべれば目覚めることができる。
楽しい夢を見た時に不本意の覚醒を迎えてしまった場合は、二度寝をする際にその夢のことを思いながら眠りにつけば続きを見ることだってできる。
つまり、夢は私自身を知らない世界の登場人物にしてくれる映画や小説のような存在だった。
だから、眠った直後に見覚えのない景色が広がっていても、私にとっては新たな夢物語の幕開けに過ぎない。
「黴臭い…」
その日の夢は少し不思議だった。
夢の中でも痛覚や触覚は現在しているが、匂いを感じたことは一度もなかった。
それなのに、今の夢は、木材の黴た臭いをしっかりと感じる。
ぐるりと部屋を見渡してみれば、まずここが日本ではないことがわかった。
ベッドの脇に揃えられた靴、枕元の燭台、机の上に転がる羽ペンとインク瓶。
4畳ほどしかない小さな部屋は全体的に茶色く、土で塗られただけの壁を見れば壁紙なんてものが存在しないことが理解できた。
お情け程度に体を覆う布は継ぎ接ぎだらけで、足先から少しずつ体温を奪っていく。
身に纏っている寝巻きも、薄い布一枚のものだ。
知らない国の、貧しい私。
擦り切れた床板を青白く照らす月明かりを見下ろしながら、そうぼんやりと理解する。
「…どうしよう」
こんなにも能動的な夢は初めてだった。
いつもは黙っていても勝手に物事が進むと言うのに、今日は待てど暮らせど夢に進展がない。
何かをしようにも恐らく今は深夜で、現実世界でも二度寝を決める時間だろう。
スマホもなければテレビもない、読み物さえ見当たらないのだから、もう一度寝てしまおう。
そうすればきっと話が進むはずだ。
そう思いシーツを肩まで引き上げてベッドへと横たわった刹那、部屋の隅にあるはずのない気配を感じた。
けれどその気配を確認しようにも体が動かず、思わず冷や汗が出る。
怖い。
咄嗟に覚醒を促そうとするが、なぜか、現実世界の私が目を覚ますあの引き上げられるような感覚はなかった。
まるで、今の私が"現実の私"ように。
狭い部屋の中で、硬い靴底が脆い床を踏みしめる音が4度。
最後に一際大きく床鳴りを響かせて、その足音は止まった。
私の横たわるベッドのすぐそばで。
壁に向かって横たわる私の視界に入ってしたのは、壁で揺らめく大きな影だった。
影自体は人の形をしていたけれど、その頭と胴の部分が人ならざる者であることを示している。
角と羽のようなものを生やした"何か"が、私のすぐ後ろにいる。
怖い、怖い、恐い!
恐怖のあまり喉が引き攣ったと同時に、肩にその手が触れた。
大袈裟なまでに震えた私をそのままに、その手が僅かに肩を引き寄せたと思えば左耳が閉塞感に包まれる。
「怖くないよ」
火傷しそうな程に熱い吐息と、鼓膜を震わせる声に満たされる。
脳が溶かされるようなその感覚が、腹の底で恐怖とは違う感情に火を灯した。
「ねえ、名前、俺を見て」
ギュッとシーツを握り締めていた手を包み込む、手。
人間である自分と変わらないその手に驚き、いつの間にか動くようになっていた体を少しばかり捻った。
そして、月の光を背に受けたその姿に、思わず目を見開く。
「―――翼さん…?」
そこに立っていたのは、角も羽も生えていないよく見知った人物だった。
同じライブハウスを拠点に活動をしていて、私たちのライバルでもあり良き先輩でもあるバンドの人。
なぜ。
なぜ翼さんが私の夢に出てくるんだろう。
先程までの恐怖心はどこへやら、よく知る人だと分かった途端に体の力が抜ける。
私を見下ろした翼さんは、なぜか酷く驚いた顔で固まっていた。
ややあって私の肩に触れていた手で口元を覆ったかと思えば、いやでも、とか、まさか…なんて意味のわからないことをその手の平に向かってボソボソと吐き出す。
その間、翼さんに見下ろされていることを思い出した私は、体が自由になったこともあり慌てて上体を起こそうとベッドに手をついた。
けれど、再び私の肩に触れた手がそれを許さなかった。
ベッドに押し戻された私を押さえつける手と、ベッドに乗り上げてくる翼さんを交互に見やる。
足の間に彼の膝が差し込まれたところで、漸く私の鈍い警報が鳴り響いた。
「つ、つばさ、さ…」
「いやー、まさか"俺"のまんま名前ちゃんの前に具現するなんて、さすがの俺も想定外だよね。
呼び捨てにしてムード作ったのに意味なかったじゃん」
そう言いながら、下手くそな呼吸で震えながら上下する私の胸にそっと手を伸ばし、その硬い指先で膨らみを確かめる。
「やっ、だ…なんで…!」
拒絶の言葉と浮かび上がる疑問を全て彼に投げかけたいのに、私に触れる手の面積が増えるごとに焦りが生じて口が上手くまわらない。
これは夢だ。
早く覚めろ、覚めろ!
ギュッと閉じた瞼の裏で、現実世界の私に呼びかける。
そんな私をこの夢の世界に縫い留めたのは、首筋に吸い付いた翼さんから香る強く甘い匂い。
バニラのようにとろとろに甘くて、花の蜜のみたいに甘美な香り。
おかしくなりそう。
「おかしくなっちゃえ」
不気味に笑った口の間から覗く真っ赤な舌と、三日月型に細められたエメラルドグリーンの、双眸を揺らぐ視界で捉えた。
べろりと下唇を舐められ、その舌が唇の隙間に差し込まれる。
抵抗するよりも先にそこを絡め取られれば、身体中に脱力感が走って文字通り手も足も出ない。
舌先で愛撫されるたびに肩が跳ね、くぐもった声がいくつも翼さんの口へと吸い込まれていった。
「―――好きだよ、名前」
止まっていた呼吸が再開するかのように、込み上げてきた何かで勢いよく上体を起こす。
アンプに繋げていないギターの音色に、中途半端な明るさのホール。
すぐ目の前には、グラスを磨く叔父さんの薄くなった頭。
「わた、し…」
未だボーッとする私の手元に、氷と水の入ったコップが静かに差し出された。
「魘されてた。
悪い夢でも見た?汗、すごい」
「…ミコ、ちゃん」
隣に腰を下ろしたミコちゃんが、 いつもと変わらないその顔に僅かばかり心配そうなそれを浮かべていた。
差し出されたハンカチをお礼と共に受け取り、額と米神に滲む汗に押し付ける。
手に取ったコップに指がぴたりと張り付き、その冷たさを体に伝えた。
氷が浮かぶコップは火照った体に心地よく、飲むことよりも頬に押し当てて熱を追い払うことに夢中になってしまった。
「悪い夢…じゃなかった、と思う。
でも、どうしたんだろう…あんまり覚えてないや」
「そ、ならいい」
見た夢を覚えていないことなんて、夢見のいい私でも"よくある話"だ。
ただ、なぜか、先程まで見ていた夢を覚えていないことを少しだけ寂しいと感じた。
「お、やっと起きたのか、翼」
「その手に持ってるうどんは何!?なんで俺の鼻のそばでそれ待機させてんの!?」
少し離れたところから、BLASTの賑やかな声が聞こえてくる。
彼らとは時々こうして一緒に練習をすることがある。
一緒に練習と言っても、私の叔父が経営するエデンを放課後の溜まり場のように使っている私たちがBLASTの練習の日に割り込んでしまったり、その逆も然りというような関係性なだけなので、合わせたりしているわけではないのだけれど。
大和さんと宗介さんに寝顔をからかわれたのか、ミコちゃん曰く私と同じく先程まで寝ていたらしい翼さんが逃げるように自分のベースの元へと歩いていく。
何気なくその姿を目で追っていると、ふと、彼と視線が絡んだ。
見つめ合ったまま、翼さんを見ていると妙に意識してしまう自分に首を傾げると、そのエメラルドグリーンの双眸が細められて、形のいい口元が不気味に吊り上がった。
その笑い方、どこかで見たことがある気がする。