間も無く、電車が到着します。
危ないですから、黄色い線までおさがりください。


軽快な音と共に聞き慣れたアナウンスが流れ、少し冷たくなった秋風を巻き込みながら電車がホームに滑り込んでくる。

この季節は、学生にとっては何かと忙しい。
体育祭、文化祭、中間試験。
肌を焦がす灼熱の季節を少し惜しみつつも見送った頃。
一大イベントが目白押しの秋の夜は、先ほどまでの喧騒も相俟ってか、どこか寂しさを覚えた。

必ず何かの役割を担わなければならないというルールの下、適材適所とは言い難い自己判断で役割分担を行なった結果、当然人気の高さは比較的仕事が少ない役割が突飛し、どこもかしこも定員割れを巻き起こしてしまった。
公平な選抜方法で希望の枠を勝ち取る兵共(つわものども)を尻目に、最後まで誰の手も挙がることのなかった"文化祭委員補佐"という至極面倒な役割をたすき掛けることとなってしまった。

誰にも見向きもされなかっただけはあり、運悪く就いてしまったこのポジションは文字通り目が回るほどに忙しかった。

文化祭の催しの企画から始まり、備品の見積もり、発注、担任の教師に向けた提案書の作成から提出まで、なんだか大学生活をすっ飛ばしてオフィスレディにでもなった気分だ。
おかげで朝から晩まで校内を走り回り、最終下校時間まで学校にいる毎日を送っている。


疲れた。


ふう、と軽い気持ちで零した溜息には存外重い疲労感が付きまとっていた。
ふわりと舞い上がった制服のスカートを何食わぬ顔で抑えながら、電車が完全に止まり切るのを待つ。
ホームの足元に描かれた乗車口を知らせるマークに、ぴったりとドアの位置が合わさった。

降りる人を見送り、次はこちらの番だと言うように足を踏み入れれば、快速急行だと言うのにも関わらず空席が多く目立った。
1番近くの端の席が空いていたので、スカートが広がらないようにしながらそこに腰を下ろす。
端の席は、片側にしか気を配らなくていいので楽だ。

乗り込んだ快速急行はすぐに発車を知らせ、ホームのどこからか笛の音が聞こえてくる。
ここから最寄り駅まで20分。
手持ち無沙汰にならないよう、新たに発注をかける必要のある未完成のリストを鞄から取り出す。
家に帰ってまで作業をするのは嫌なので、電車の中で済ませてしまおう。
そう思い、シャープペンシルを片手にリストへと視線を落とした。

ドアが閉まる少し乱暴な音と、同じメロディ。

それに紛れて、ドタドタとした足音が閉まるドアをこじ開けた。


「っぶねー、これ逃したら待ち惚けだったぞ」
「宗介があん時に切り上げねーから!」
「まだ歌い足りねーっつって、あのタイミングで自主練始めたバカはどこのどいつだ、あぁ?おまけに買い食いまでおっ始めやがって」
「まあまあ、間に合ったからもうイイじゃないッスか」


まさに、駆け込み乗車。

乗り込んできた際に一瞥した程度なのでろくに人物像は捉えられなかったが、彼らは青い制服を纏い、4人のうち2人が背中に楽器を背負っていた。
軽音楽部、だろうか。
うちの学校の軽音楽部は少々過激なところがあり、怖いという印象をしっかりと校内に植え付けている。
そのため軽音楽部はどこも怖いものだと思い込んでいる節があり、目が合って変に絡まれることがないようスマホの電卓画面へと集中することにした。


「あー腹へったー」
「…さっきマック寄ったばっかッスよね、大和先輩」
「いやいや、あんなの食べたうちに入りませんって。
元野球部の食欲を舐めるなよ」
「お前、その食生活は改めたほうがいいぞ」
「文化部は運動部ほど運動しないからなぁ」


高校生らしい中身のない会話を交わしながら、軽音部らしき人たちは私の向かいの席へと並んで座った。
楽器を持った2人は座る素振りを見せず、1人は座席の横に、もう1人はこちらに背を向けてつり革に掴まる。

こちら側から顔が伺える状況に変わり、人間の心理がぐずりと働く。
"怖い"という印象の軽音部である彼らの顔が気になり、一瞬だけ、文字が羅列するリストから視線をあげた。


「―――!」


例えるなら、なんだろうか。
心臓から幽体離脱した心臓が、ストンとつま先まで落ちてしまったような、体の四肢が言うことを聞かなくなってしまったような。

顔を少しだけあげた刹那、向かいの座席の横に立っていた人と視線が絡んだ。
ピンク色の髪がさらりと流れ、その優しげなグリーンの瞳が一度だけ瞬きをする。

目が合ったのは本当に一瞬のことで、すぐにその人は視線を外して仲間の会話へと加わっていったが、確かに、間違いなく彼はこちらを見ていた。

そして何よりも一番信じ難い事実は、残念ながら自分自身が一番認めざるを得ない出来事であった。

自分は、お互いをよく知った上で人を好きになるタイプだと思っていた。
容姿は二の次、性格や共通点がマッチングして、そこで初めてその人を好きだと意識するものだと。

16年付き合ってきた自分自身のことは、誰よりもよくわかっているつもりだったが、どうやらそうでもなかったらしい。

とにかく、つまるところ、人生で初めて一目惚れをしてしまった。

一度認めてしまうと、その後はどれほど意識を逸らそうとしても無駄で、数秒後には彼のことで頭がいっぱいになる。
リストや外の景色を眺めるフリをして、何度か彼を盗み見たりもした。
驚くことは、なぜかその度に彼と目が合ってしまうことだ。
だからその都度視線を逸らし、何事もなかったかのように振る舞う。
それでも目を逸らす瞬間に少しだけ目線が泳いでしまうのが手に取るようにわかり、なんだか余計に墓穴を掘っている気分になる。

耳にはめようと思っていたイヤホンも、膝の上でずっと出番を待っている。
最近ヘビロテしている曲を聴きたかったはずなのに、お気に入りの曲の歌声よりも、今はただ彼の声を聞いていたかった。

彼はブレイストというバンドのベーシストで、今度の学園祭に向けて今日からこれくらいの時間に帰宅をすることになるらしい。

盗み聞いた会話を少しずつ整理し、彼の情報を一つでも多く得ようと鼓膜に神経を集中させる。
知られざる自分の気持ち悪い性格に、再び溜息が漏れそうになった。

声を聞いていると、その顔が見たくなる。

まるで熱に浮かされた時みたいに、どこからともなくそんな思考が湧いてくる。

そもそも彼は当然こちらのことを知らないし、こちらも彼のことは知らない。
偶然同じ電車に乗り合わせただけの乗客同士にしか過ぎないのに、彼に惹かれてしまった。

静止の効かない体が、勝手にアタマを持ち上げる。
彼を盗み見ようと。

そして、後悔をした。

よくドラマや映画であるような、音が消え、まるでその空間には自分と彼しかいないような、そんな幻覚を見るような気持ちだった。

彼が、こちらを見て微笑んだのは見間違いではないだろうか。

ずっと自然に絡んでは離れを繰り返していたのに、視線をかっちりと捕らえてきたかと思うと、その薄い唇がゆるりと弧を描いた。
思わず目を見開いてしまい、つられて口が開きそうになるのを寸前で堪える。
漫画みたいに口をぎゅっと噤んだ私を見て、彼は遂にその目を細め、くすくすと笑う素振りを見せたのだった。

輪郭のない熱で頬が熱くなり、爪先から甘い痺れが脳髄まで這い上がってくる感覚。
呼吸のリズムも乱れて、リストを持つ手がしっとりと汗ばんでくる。

重症だ。

天の救いか、はたまたシンデレラ。
窓の外に馴染み深い景色が広がり、降りるべき駅がもうすぐそこまで来ていることを告げている。
この状況を後者として受け取った私は、彼との別れを目前に、内心取り乱していた。
彼らがパラパラと交わしていた会話からすると、彼らが降りる駅はまだ少し先だ。

この先、こんなにも焦がれる恋心が芽生えることはあるのだろうか。
数ヶ月前に失恋をして、しばらく恋愛はいいと投げやりになっていたはずなのに、そんなことを忘れさせるくらいの衝撃。

声をかけるべきだろうか。

今までにそんな大胆なことをしたことがない私は、浮かんでは消えるその案をなかなか実行に移すことができなかった。
軽いやつだと思われるのも嫌だったし、かと言ってこのチャンスを逃すと、この恋はきっと終わってしまうに違いない。
しかし何よりものネックは、あの場には彼だけではなく、そのバンド仲間もいるのだ。

きっと、良くないだろうなあ。

そんな風に悶々と過ごしているうちに、電車がホームに滑り込んだのがわかった。
ゆっくりと止まっていく車体と景色。
降りる乗客がパラパラと席を立ち上がり、扉の前で立ち止まる。

タイムリミットだ。

鞄にしまい込んだリストと入れ替わるように手にしたスマホの画面に、なんとも間抜けな顔が反射する。
親指の腹で保護シートを擦っても、ただつるりと滑るだけだった。

席を立って、ドアへと身を寄せる。
窓ガラスに薄っすらと反射する彼は、楽しそうに仲間と談笑をしていた。

思い込みだったのかな。

少しだけ期待した自分が間抜けに思えて、いっそ何もなかったことにしてしまおうと、この20分間の出来事を閉じ込めるように、スカートを正しながら手の平で太ももの裏を撫でた。

二度鳴り響いた音を皮切りに車外へと足を踏み出し、ホームの中央へと歩みを進める。
空いていたベンチの前で立ち止まれば、帰路を急ぐサラリーマンや部活帰りの学生に追い抜かれていった。


「……降りてくるわけ、ないもんね」


無意識に言葉が溢れ、慌てて指先で口元を抑える。
遠ざかる電車の音と、足音しか聞こえないこの場所では、誰も聞いてはいないだろう。


「降りてきてたら、きみはどうする?」


ぎゅっと心臓を掴まれたようだった。
ヒヤリとした感覚が爪先まで走る。
強く握り締められた心臓はドクドクと脈打ち、普段なら聞こえてくることのない心音が外へと漏れ出ている気がした。

スクールバッグの手提げに爪を食い込ませながら、震える体でそっと背後へと振り返った。


「……どうするべきか、わかりますか」
「そうね、俺ならまずは学校と名前を聞いて、教えてもらえそうなら連絡先も聞いちゃうかな」


向かい側のホームに滑り込む電車の風に揺れる髪を抑えながらも、こちらへと少しずつ歩み寄る彼から目が離せない。
ワイン色のローファーが大人っぽいなとか、ブレザーの下に着ているベストがお洒落だなとか、電車で思い浮かべていた印象が、今はこれっぽっちも入ってこなかった。


「ねえ」


自分のつま先の、30cm先。
大きさも幅も全然違うローファーが向かい合うのが見えた。


「一目惚れしたって言ったら、君なら笑わないで信じてくれるよね」


照れたようにはにかむその様子に、体中がカッと熱くなる。

この人は、こんなにも擽ったい笑い方をする人なんだ。

じくじくと熱を持つ顔にそよぐ夜風が物足りない。

少しだけ頬を赤くした彼を見上げ、私は同じようにはにかみながら強く頷いた。







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